事実の力 実在する力 

心の苦しみから抜け出してわたしを生きる    Taro

1章 心の苦しみから抜け出す

はじめに

 

 

今が進化の時

気づいているでしょうか?今、人類の意識が大きく進化している時かもしれません。今、世界の各地で自我の幻想から目覚める人たちが増えています。自我からの目覚めはもはや特定の人たちのものではありません。

自分が進化の中にあると思えるでしょうか?わたしは進化の歴史を知っています。それでもそれは机上で学んだ知識と教養です。自分の身に今それが起きているとは思っていません。わたしはほとんど完成していると思っています。進化の歴史も進化する世界もわたしには他人事です。それでもそれはあり得ません。進化から離れてわたしは存在できません。離れているのはわたしの意識だけです。わたしは進化していることに気づかないほど鈍感です。いや、「進化させているものの方が繊細で優しく、優れている」と言った方が適切かもしれません。わたしは抵抗感や違和感を覚えることなく自然に進化します。

進化の時は切迫しています。人類の進化、世界の進化、つまり全体の進化の前で個人の都合が聞き入れられることはないのかもしれません。見方によればこれまでも個人の犠牲を伴いながら全体は進化して来ました。それでも個人なくして全体もあり得ません。人類はできる限り全体で次の段階に向かおうとしているのかもしれません。今、一人一人がそれぞれのペースとやり方で自我から目覚める時に来ています。

 

囚われの身から飛躍するわたしへ

個人はパズルのピースです。全体は一枚のパズルの絵画です。個人が輝けば全体も輝きます。ここでは心の苦しみを抱えた個人がその苦しみから抜け出して、自由な心を取り戻し、唯一無二の存在者として飛躍するまでを追って行きます。

あなたは何かに苦しんでいますか?心の苦しみは減らせるかもしれません。心の苦しみの原因は外側にはありません。わたしたち自身の内側にあります。

人は誰しも何かを信じているものです。わたしは事実を、実在する物事を信じます。なぜなら事実と実在する物事には心の苦しみを解決する力があるからです。あなたはどうでしょう?あなたが事実ではない物事や実在しない物事、乱暴な言い方をすればあなたが幻を信じるなら、わたしの話はあまり役には立たないかもしれません。あなたは事実や実在する物事を選びますか?それとも幻を選びますか?あなたはどちらでしょう?

 

 

 

 

①わたしを苦しめるワタシ 

 

 

 

心の苦しみ

心の苦しみにはどんなものがあるのでしょう?怒り、悲しみ、不安や恐れ、後悔があります。焦りややる気が出ない気の重さ、怠惰もその一つかもしれません。わたしを苦しめる、わたしのためにはならないという意味では、それらを負の感情と呼んでもいいのかもしれません。

怒りの中には小さな苛立ちや激昂があります。それが起きる過程や原因は様々です。自分のやることが思い通りに行かない。他人の言動が思い通りにならない。些細なことに対して怒ることもあれば、暴力や命に関わるような重大なことに対して、不正や理不尽に対して、他人の身に起こったことや集団的なこと、全体的なことに対して怒ることもあります。今、起きた出来事に対して怒ることもあれば、過去の出来事を思い出して怒ることもあります。小さかった苛立ちが徐々に増大することもあれば、突発的な怒りが起きることもあります。

悲しみの中にも自分に価値を見出せない無価値感や惨めな気持ち、何かを失ったことによる喪失感があります。

負の感情は互いに関係し合うこともあります。自分に対する無価値感や惨めな気持ちが怒りに変わって、自分や他人に向けられることがあります。恐れが焦りや苛立ちに後悔が気の重さや惨めな気持ちに繋がることもあります。

そこで行われていることは過程や原因、形に違いがあっても、わたしたちを苦しめることです。わたしたちを苦しめているのは誰でしょう?他人でしょうか?状況でしょうか?それはわたしたちの中にある自我かもしれません。心の苦しみの過程や原因、形はあまり問題ではありません。あなたの心が苦しいかどうか、それを知ることが重要です。あなたの心が苦しいのであれば、あなたの中で自我が仕事をしているということです。 

 

自我

「自我が強い。自我が弱い。自我が薄い」。こういう言葉を聞いたことがあるのではないでしょうか?それらの言葉は何を意味するのでしょう?「わたし」という自己意識が強い、弱い、薄いということではありません。自己意識は強くなったり、弱くなったり、薄くなったりするものではありません。一定のものです。ただ他者ではない「わたし」という意識と認識があるだけです。「自我が強い。自我が弱い。自我が薄い」というのは「わたし」という自己意識を越えた、特有の性質を持った自我が強い、弱い、薄いということです。

それでは「自我からの目覚め」とはどういうことでしょう?それは「わたし」という自己意識を越えた、特有の性質を持った自我に気づくということです。今まで自分と思っていたものだけが自分ではないことに気づきます。今まで自分と思って来たものに苦しめられ、自分を乗っ取られて生きて来たことに気づきます。それが自我からの目覚めです。自我から目覚めたあなたは自己意識としての自我を持ちながらも、特有の性質を持った自我と容易く同調したり、同化したりしなくなります。あなたはあなたでありながらあなたの中にある、特有の性質を持った自我と適度な距離を取るようになります。

「自我」という言葉が分かりにくいのは、「わたし」という自己意識としての自我と、自己意識を越えた特有の性質を持った自我という、異なった二つの意味を持っているからです。

 

自分が何かに乗っ取られていると思えるか

ヒトは2、3歳頃から自我が芽生えると言います。その頃から「わたし」という自己意識を持つようになります。それだけではありません。同時に特有の性質も併せ持つようになります。自我が芽生えてから自我からの目覚めを経験するまでの間、わたしたちは特有の性質を持った自我を生きることになります。それはわたしたちと特有の性質を持った自我が一体化したような状態です。別の言い方をすれば、わたしたちは特有の性質を持った自我に自分を乗っ取られている状態です。生まれて間もなく自分を乗っ取られてしまいます。そのために自分が何かに乗っ取られているとは思いもしません。わたしたちが初めて特有の性質を持った自我に気づくのは、自我からの目覚めを経験する時で。

 

自己意識と自我

わたしたちには「わたし」という自己意識、自我があります。自我には自己意識を越えた特有の性質があります。その性質はわたしたちにとってはあまりいいものではありません。わたしたちを不幸にするようなものです。その性質はわたしたちが同調することでわたしたちの中でより強化されます。その性質がわたしたちそのものになったかのように、その性質とわたしたちが同化したようになってしまいます。

「自我特有の性質がわたしたちを不幸にする」「自我特有の性質はわたしたちが同調することでわたしたちの中でより強化される」。これらの言い回しは少し奇妙に感じられるかもしれません。わたしたちを不幸にするものがわたしたちの中にあります。わたしたちにはわたしとわたしを不幸にするワタシがいるのでしょうか?わたしたちには2つの自我があるのでしょうか?明確に分けることはできないかもしれません。それでも敢えて2つの自我に分けるとすれば、自己意識としての自我と、自己意識を越えた特有の性質を持った自我に分けることができます。

異なった二つの意味を持つ「自我」という言葉を、ここでは混同しないために表現方法を二つに分けます。「わたし」という自己意識としての自我を「自己意識」、自己意識を越えた特有の性質を持った自我を「自我」と表現して統一します。

 

起こすものか、起きるものか

 ところで感情や思考は起こすものでしょうか?それとも起きるものでしょうか?わたしたちは考えようとして考えます。それと同時に考えはやって来るものでもあります。感情の場合は特にそうです。感情は起こそうとして起こすものではありません。起きるものです。例えば恨みの感情や思考はやって来ます。恨もうと思って恨むのではありません。恨みは募らせようとして募らせるものではありません。募るものです。喪失感から来る悲しみも同じです。悲しもうとして悲しむのではありません。その感情と思考はやって来ます。わたしではない、それでもわたしの中からやって来ます。わたしたちの中に感情と思考をもたらすものがあります。

 

否定的傾向、消極的傾向、悲観的傾向そのもの

自我は総じてわたしたちを不幸にするようなものです。それでもその“やり方”や“形”は異なります。それは主に4つに大別できます。1つ目は自我の基本的な性質である、わたしを苦しめるということです。

自我はわたしたちの中でどこまでも大きくなります。どこまでもわたしたちを苦しめます。自我はわたしたちに負の感情が起きるようなことを見せます。負の感情が起きるように仕向けます。わたしたちを負の感情に繋ぎ止めようとします。この性質を持った自我は否定的傾向、消極的傾向、悲観的傾向そのものと言えます。

わたしには肯定的で、積極的で、楽観的なわたしがいます。自分や他人の幸せを願い、創造的であろうとします。その一方で、苦しみや暗いものに引きつけられるわたしもいます。自分を大切にしたいと思うわたしがいる一方で自棄になるわたしもいます。自我と同化したわたしはある物事を否定的に、消極的に、悲観的に見ます。否定的で消極的で悲観的な色を黒だとすれば、ある物事を黒一色に染めようとします。物事にはその解釈の仕方で、良い面と悪い面があります。一見状況や状態が悪いと思えることでも“収穫”と言える明るい要素はあるものです。それでも自我と同化したわたしは悪い面や暗い面だけを大袈裟に強調しようとしたり、物事を深刻にしようとしたりします。良くないことがいくつかあっただけでも、「何もかもが全部ダメだ」「全然ダメだ」と言います。

自我と同化したわたしは否定的で、消極的で、悲観的な物事に引きつけられます。かつてと違いテレビのチャンネル数は格段に増えました。スポーツ、芸能、映画、音楽、国内外の情報、歴史や文化、この世界には楽しいことや美しい物事が沢山あります。それでも自我と同化したわたしにはそういう物事が見えません。世の中の深刻な部分、社会の歪み、有名人のスキャンダル、不安を煽るような暗い情報に引きつけられます。自ら意識の焦点をそれらに合わせます。そして四六時中ぼやいたり、嘆いたり、腹を立てたりして過ごします。わたしには自由意志があります。怒りに囚われたその状態を抜け出すこともできます。それでもわたしはそこに留まり続けます。文句を言いながらもチャンネルを変えたり、テレビを消したりすることがなかなかできません。わたしは怒りの感情に繋ぎ止められてしまいます。

自我と同化したわたしは他人や社会に対して批判的で冷笑的です。褒めたり、感心したりすることはあまりありません。リラックスをしたり、笑みを浮かべたりすることもあまりありません。笑うことや楽しむことに対してどこか否定的です。体の具合が悪い訳ではありません。それでも険しい顔ばかりして過ごします。大らかさがありません。わたしの姿は神経質で縮こまったように緊張しています。

自我がもたらす負の感情になすがままにしていると負の感情に同調しやすくなってしまいます。最後には負の感情と同化したようになってしまいます。自我がもたらす負の感情は様々です。その様々なマイナス傾向を示すようになります。怒りっぽくなります。心配性になります。過去のことや失った物事に執着して心を弱くします。それらがわたしの性格や人格の一部になってしまうほどです。自我に乗っ取られてしまいます。自我がわたし自身になってしまいます。わたしは無自覚のうちに自我がもたらす苦しみを引き受けるようになります。わたしは無自覚のうちに不幸になってしまいます。

 

当人も周囲も誰もこの事態に気づけない

自我と同化したわたしは自我がもたらす負の感情に無抵抗のまま囚われます。例えば自我がもたらす負の感情には怒りがあります。怒りに同調したわたしは怒りに取り憑かれたようになります。わたしは物を破壊し、自分を傷つけます。他人に危害を加え、人間関係を崩壊させます。わたしには「自分が自分にとっても、周りの人たちにとっても悪いことをしている」「わたしは自分をダメにしている」と自覚しているわたしがいます。その一方で「もうどうなっても構わない」と自棄になるわたしもいます。初めのうちはまだ歯止めが利くかもしれません。まだ自分の状態を客観化し、無意識のうちに自分と自我とを切り離している状態です。それでも自我がもたらす怒りの感情になすがままにしていると、自分と自我とが同化したようになってしまいます。そうなってしまえば事態はより深刻化します。ますます暴力的になります。心を病んでしまう場合もあるのかもしれません。最悪の場合、自分や他人の人生を破滅させることもあり得ます。突発的な怒りから衝動的に、自分や他人の命を奪ってしまう可能性も出て来ます。

自我と同化したわたしは、怒りに囚われてしまう原因が自分の中にある自我だとは思いません。「わたしの生まれ持った性格や人格、過去の失敗やつまずきが原因なのではないか?」「わたしの置かれた環境や周囲の人たちに原因があるのではないか?」と考えます。周囲にいる人たちも同じように考えます。「あの子は優しいところもあるのにどうして暴力的なのだろう?」「自分たちに原因があるのではないだろうか?」「愛情が不足していたのだろうか?」と考えます。原因がそれらにある場合もあるのかもしれません。それらにはない場合もあるのかもしれません。自我と同化したわたしはストレスを発散しようとしたり、環境を変えようとしたり、怒りを抑える試みをしたりします。それで問題が解決する場合もあるのかもしれません。それでも根本的な解決には至らない場合もあります。「わたしの心の苦しみの原因はわたしとは別のものにある」「それはわたしの中にある特有の性質を持ったものである」。そのことを自覚するまで解決するのは難しいのかもしれません。

怒り、悲しみ、不安、恐れ、後悔、わたしたちに負の感情をもたらすのは誰でしょう?他人でしょうか?状況でしょうか?わたしたちでしょうか?負の感情は突発的に現れることがあります。例えば瞬間的に苛立つことがあります。それでもあまり長続きはしないはずです。負の感情に囚われ続けるのはなぜでしょう?負の感情にわたしたちを繋ぎ止めるのは誰でしょう?それはわたしたちを苦しめる性質を持った自我かもしれません。それと同時に負の感情を引き受けているわたしたちもそこにいます。わたしたちの中には負の感情に引きつけられやすいわたしたちもいます。そのためにわたしたちは自我と同化しやすいのかもしれません。

 

わたしと自我との間にある “微かな接点”

ところでわたしたちと自我は本当に同化しているのでしょうか?自我が負の感情をわたしたちにもたらします。わたしたちは負の感情を引き受けます。そこに“微かな接点”があります。

「わたしに負の感情が現れている」。そのことに気がつけるわたしたちもいるはずです。「わたしに負の感情が現れている」という気づき、「現れた負の感情に同調しやすいわたしがいる」という気づき、その気づきがわたしたちと自我との結びつきを弱くしてくれます。

 

わたしと心の苦しみを切り離す  

心の苦しみには色々あります。それが起きる過程も様々です。重要なことは心が苦しいかどうか、それを知ることです。わたしたちには幸いにも苦しみを感じる心があります。心が苦しいと言っているのなら、そこに自我が現れているということです。わたしたちに対して自我が苦しみをもたらしているということです。

これは乱暴な言い方かもしれません。それでもあなたと心の苦しみを意識的に切り離してはどうでしょう?あなたの心が苦しい時に、「わたしを苦しめる自我が現れているな」と考えてはどうでしょう?そうすることであなたは自我のもたらす苦しみに一時的に捕らわれても、耽ることは減ります。それと同時に心が苦しいと感じていたあなたと、別のあなたがいることも自覚できるようになります。そのあなたが存在としての自己意識を持ったあなたです。

 

 

②存在としてのわたし 

 

 

 

わたしの存在はわたしの手には負えない

「存在としての自己意識を持ったあなた」とは何でしょう?わたしはわたしの心や体、意識の仕組みを理解していません。わたしは今どうやって生きているのか、今までどうやって生きて来たのか、それらを説明することができません。わたしは自分を構成する細胞がいくつあるのか、その37億とも60億とも言われる細胞の数、そのような基本的なことさえも分かっていないのです。その細胞にあると言われる遺伝子情報。わたしに入ってはわたしを作り、わたしと共生し、わたしから出て行く100兆を越える微生物。それらがどういうもので、わたしの中で何をしているのか、心とは何か、心が体のどこにあるのか、意識とは何か、脳が意識を生み出しているとすれば、わたしが生きているこの意識の世界を脳のどの部分が生み出しているのか、それは脳を開いていくら調べてみても分かるものではありません。今どのくらいの血液を体のどこへ送っているのか、血液をどうやって作っているのか、骨や筋肉や皮膚、心臓や肺、肝臓や胃や腸、臓器の仕組みや今、何が行われているのか、わたしはそれらを全くと言っていいほど把握できていません。

わたしたちはなぜ生きているのか、生命力とは何か、それはどれほど偉大な学者や医者であっても答えに窮するはずです。人体に対する研究の新発見は現在でもなされています。つまりわたしたちの存在は、わたしたちの持っている知識や常識、わたしたちの理解、わたしたちの思考をすでに越えているということです。人類の知識、人智を超えてわたしたちは存在しているということです。

わたしは生きようとして生きている訳ではありません。わたしはこうしている間も無意識のうちに呼吸しています。わたしの心臓は無意識のうちに鼓動します。わたしはわたしの意図と自覚を越えて生きています。わたしはなぜか生きているのです。生きているところに「わたし」という自己意識があります。

 

わたしはわたしの思いを越えて生きている

わたしはわたしの思いとは別に、わたしの思いを越えて生きています。他人事のように聞こえるかもしれません。わたしは無知で無責任かもしれません。それでもわたしはわたしの理解、わたしの意図、わたしの自覚を越えて生きています。それが事実です。

怒りがあろうとなかろうと、悲しみがあろうとなかろうと、不安や恐れ、後悔があろうとなかろうとわたしは生きています。わたしはわたしに起きる負の感情とは無関係に生きています。

「存在としての自己意識を持ったあなた」とは、あなたの理解、あなたの意図、あなたの自覚、あなたに起きる負の感情を越えて生きている、存在しているあなたです。

 

 

③自分でしていると思っているワタシ   

 

 

 

思いを越えているわたし、思い通りのワタシ

なぜ生きているのか、生命力とは何か、それは理解しようとしても到底できるものではありません。存在としてのわたしはわたしの知識や常識、わたしの理解、わたしの思考をすでに越えています。わたしはこの命をコントロールできていません。わたしはわたしの思いを越えて生きています。その一方で「わたしは思い通りに生きている。自分の力で生きている」。そう思っているわたしもいます。なぜでしょう?それはわたしがある特有の性質を持った自我と同化しているからです。

自我には自己意識を越えた特有の性質があります。特有の性質には主に4つあります。1つ目は自我の基本的な性質である、わたしを苦しめるということです。2つ目は「自分でできる。自分でしている。自分でしたい」「思い通りにできる。思い通りにしている。思い通りにしたい」と思っていることです。この性質を持った自我は自分に固執し、自分を優先する傾向があります。一般的に言われるエゴイズムという言葉のイメージがこの自我です。自分勝手で自分の考えややり方に執着します。考えややり方を含めた広い意味での自分の持ち物と、自分の存在を重ね合わせます。他者との関係性で優位に立とうとします。そのことで喜びを感じ、満足感を覚えます。

1つ目の性質を持った自我、つまり否定的傾向、消極的傾向、悲観的傾向を持った自我は弱くても、この2つ目の性質を持った自我が強い人もいます。快活で肯定的、積極的で楽観的な人でも自我の強い人はいます。

 

捕らえるワタシ、捕らわれるわたし

自我と同化したわたしはあまり他者のことを考えません。会話の相手がどんな気持ちで自分の話を聞いてくれているのか、退屈していないか、苦痛を感じていないか、相手は忙しくないか、そのことをあまり考えようとはしません。仮に相手の気持ちや事情が分かっていたとしても自分の欲求を満たそうとします。わたしの話は会話というよりも一方的な話です。負の感情からのぼやきや嘆き、他者の批判です。自分の主張を延々とすることもあります。「わたしはこんなことも知っている」「こんなことも考えることができる」「あの人は間違っている。わたしは正しい」「わたしの話には説得力がある」。わたしは得意になって話し続けます。話が終わる頃に「はっ」とします。ヒートアップしている自分と相手との温度差、自分だけが延々と話をしていたことに気づきます。そこにわたしを捕らえる自我と捕らわれる(存在としての)わたしがいます。わたしは無自覚のうちに自我に囚われて身勝手な行動に出ます。

 

他人を尊重しない、他人を自分と同じようなものだと思い込む

自我と同化したわたしは思い通りにしようとします。そしてそのことに対してあまり自覚がありません。他人に意見を求める場面や「(何かを)しようか?」と尋ねる場面でも、一見他人に意見を求めているようで他人を尊重するようなことはしません。返って来た答えが気に入らなければ、相手をねじ伏せようとします。自我と同化したわたしは相手の意見に対してすぐさま、「というよりも」と切り返します。他人の意見を受けようとさえしません。相手が「何もしないでいて欲しい。このままでいいよ」と言っても、「いいじゃないか、やっておくよ」と手をつけようとします。後になってから「先日のあの件、こっちでやっておいたから」と言ったりします。本人に悪気はないのかもしれません。それでも相手に質問を投げ掛けておきながら、相手の答えそのものを認めないことは、相手の存在を認めないことと同じです。

自我と同化したわたしは他人の意見に耳を貸そうとはしません。耳を貸すのはわたしの認めた人の意見だけです。事がうまく行くかどうかよりも、他人を尊重することよりも、自分の思い通りにできるかどうか、自分の気が済むかどうかが優先されます。

自我と同化したわたしたちは自分の価値観が他人にも当て嵌まると思い込んでいます。例えば環境の違う家庭で生まれ育った夫婦が、価値観の違いからぶつかるのはそのためです。お互いが自分の持っている価値観が当たり前で正しいと思い込んでいます。相手の価値観を受け入れることがなかなかできません。

 

今の自分を保持しようとする

自我と同化したわたしたちは今の自分の考えややり方を保持しようとします。相手のいい所や自分の非をなかなか素直に認めようとはしません。

政治家や官僚、企業経営者や教育者、虚偽や隠蔽のニュースは連日世間を騒がせます。間違いを認められないのはなぜでしょう?素直に謝ることができないのはなぜでしょう?虚偽や隠蔽はモラルだけの問題ではありません。それは今の自分の考えややり方ではないもの、例えば相手の考えややり方、自分の過ちを認めることが自己否定に繋がると思い込んでいるからです。自分が自分であるところの大切な何かが、今の自分の考えややり方ではないものを認めることで、損なわれると思い込んでいるからです。それでも存在の世界で変化はありません。職を失ったり、地位や名誉を失ったりしたとしても、わたしたち自身は増えも減りもしません。

この傾向は個人だけに留まりません。集団でも同じことが言えます。この世界には学会や流派が乱立しています。様々な所に顔を出してみれば分かります。そのどれもが自分たちの主義や主張、自分たちで作り出した思考の枠組み、理論、理屈、やり方、方法を頑なに守ろうとします。他を認めるということはあまりしません。なぜなら他を認めることで自分たちの存在意義がなくなると思い込んでいるからです。他の方が優れている所もあります。他の意見も取り入れた方が質は高まります。それでも自前で賄おうとします。たとえ自分たちに至らない所があったとしても、なかなか認めようとはしません。変えようとはしません。変えた方がいいと思っていても保持しようとします。そこに無理や矛盾、過ちが生まれます。

 

怒る

自我は自分の思いを越えて生きている自覚がありません。自我は「自分の力で、自分で生きている」「思い通りにできる。思い通りにしている。思い通りにしたい」と思っています。自我と同化したわたしはよく怒ります。自分の行いや他人の些細な言動に対してさえも苛立ちます。相手のちょっとした仕草や言葉遣いが気に入りません。癇に障ります。それはわたしの思い通りではないからかもしれません。思い通りにならない時にもわたしたちは怒ります。それは「思い通りになって当然だ」と思っている現れかもしれません。

自我と同化したわたしは自分の考えややり方、広い意味での自分の持ち物と自分の存在を重ね合わせます。自分の仕草ややり方、自分の持ち物について他人から指摘されるだけで怒ります。「わたしを侮辱するのか!わたし(の人生)を否定するのか!」。「自分の存在そのものが損なわれる。否定される」と思っているわたしは、奪われた分を取り戻そうと必死になって抵抗し、反撃します。自分よりも弱い者から受けた行為に対しては抵抗したり、反撃したりはしません。例えば子どもに対しては反撃をしようという気持ちさえも起こりません。人は自分に力を感じられない時にも怒ります。

 

手に負えると思っているワタシ

自我は「自分の心や体、意識の仕組みを理解している。把握している。コントロールしている」と思っています。自我と同化したわたしはよく分析をします。到底理解できるようなことではありません。存在としてのわたしは人智を超えています。それでも気がつけば分析をしています。「わたしの体のあの辺がああなっていてこうなっていて、ああなっているに違いない」。分析をし始めても結局わたしは分かりません。分析も計画も大切です。何も考えずに生きることはできません。極論はするほどの価値がありません。それにしてもわたしはよく考えます。「よく考える」と言っても、わたしの考えは浅いものかもしれません。わたしは分かったつもりでいるだけかもしれません。

「無知の知」と言えばソクラテスを思い浮かべます。自分が知らないことを自覚していたソクラテスは、彼が接した賢者や知者と呼ばれる政治家や詩人、職人たちよりも自我とは同調しない、自我の薄い人だったのかもしれません。

自我と同化したわたしはコントロールしようとします。到底コントロールできるようなものではありません。それでもわたしは命を、人生を死さえもコントロールしようとします。わたしが人生設計をしたり、「終い方」「終活」と呼んで自分の最期を管理しようとしたりするのはその現れかもしれません。

自我と同化したわたしは自分の思考と知覚の及ぶ範囲がこの世界のすべてで、自分の思考と知覚の及ぶ範囲だけで世界が成立していると思っています。

わたしたちはコントロールしようとします。人智を遥かに超えたこの世界です。それでもわたしたちが世界の中心で、わたしたちが世界を動かしていて、わたしたちの手で世界は変えられると思っています。

 

自前でやろうとする、常識を越えられない

わたしの存在そのものがわたしの手には負えません。わたしの理解を越えています。それでも自我と同化したわたしは手持ちのものだけで賄おうとします。わたしの存在そのものが常識を越えているにもかかわらず、わたしにはその事実が見えません。わたしは常識だけで自分を理解しようとします。理解したつもりになります。わたしは相対的で流動的な常識を絶対化し、固定化します。わたしは既存の常識の内側に納まってしまいます。

偉業を成し遂げた人たちや素晴らしい仕事をする人たちに共通の言葉があります。「常識にとらわれずに」。偉人たちは出し惜しみをせずにコツを教えてくれます。それでもわたしはその言葉の重要性を感じ取ることができません。わたしはすでにあるものを習得しようとします。すでにあるものや教科書は間違いないと信じ切っています。

わたしは進化の途中にあるものに対して、それが完成されていないものであるにもかかわらず、「本来はどうなのですか?」「正しくはどうなのですか?」と尋ねます。進化の途中にあるものに、「本来は」「正しくは」というものは存在しません。わたしにはその事実が見えません。わたしは進化の途中にある常識を完成されたものとして見ます。わたしは常識を越えて考えることがなかなかできません。

 

 

④事実を見せないワタシ 実在するものを見せないワタシ

 

 

 

事実が見えない、実在するものが見えない

自我には自己意識を越えた特有の性質があります。特有の性質には主に4つあります。1つ目は自我の基本的な性質である、わたしを苦しめるということです。2つ目は「自分でできる。自分でしている。自分でしたい」「思い通りにできる。思い通りにしている。思い通りにしたい」と思っていることです。3つ目は「わたしに事実を見せない。わたしに実在するものを見せない」ということです。自我と同化したわたしたちにはなかなか事実が見えません、実在するものが見えません。

わたしは恩恵を受けています。感謝できることが沢山あります。それは事実です。それでもわたしには事実が見えません。常に満たされない気持ちでいます。わたしは四六時中不平不満を言ったり、愚痴を言ったりして過ごします。わたしは足りないものやないものを見ています。足りないものやないものを実際に見ることはできません。頭の中のイメージとして見ています。わたしがなかなか感謝できないのは、わたしが自我と同化しているために、実在するものが見えないからかもしれません。

わたしは今あるものに意識が向きません。例えばいつも献身的に接してくれたり、支えてくれたりする家族や身近な人です。あるいは今持っているものです。わたしの意識が向くようになるのはそれらを失った時です。喪失感に苛まれ、失ったものや実在しないものに囚われるようになります。わたしはそこでもまた同じことを繰り返しています。今あるものに意識が向かず、ないものに囚われています。

実在するものは見えます。実在しないものは見えません。それにもかかわらず自我と同化したわたしたちには実在するものが見えません。実在しないものが見えます。「実在しないものを見る」と言っても、頭の中の観念を見ているに過ぎません。

 

わたしの実在する今ここに意識がない

わたしたちは過去や未来へ行って生きることはできません。いつも今に生きています。その今は時計の中の今とは違います。時計の中の今は一秒が過ぎれば、また次の一秒がやって来ます。「今に生きる」とはその一秒一秒を今と認識して生きることではありません。わたしたちの認識する今とは意識の中の今です。それは時計の中の今と違って、幅のあるものです。例えば今、している作業がそれに当たります。

わたしたちが生きられるのは今ここという限られた唯一の空間です。それでも自我と同化したわたしたちは、今ここという実在する世界に生きることがなかなかできません。今ここにはわたしたちの体しかありません。わたしたちの意識はわたしたちが存在している所在地の、今ここではないどこかに、生きることのできない、実在することのできない世界にあります。例えばわたしたちの意識は頭の中の過去と未来、頭の中の目標や理想像の中にあります。

わたしの意識は実在しているここでは起きていない、どこかの世界に釘付けになります。例えばわたしは一日中テレビを見て過ごします。わたしの実在しているここでは起きていない、テレビの向こう側で今起きているかも分からない、その情報に対して怒りを露わにします。わたしは誰かに対してするようにテレビに向かって怒鳴り声を上げます。

 

主体的に生きることができない

わたしたちの意識は、今ここに実在する唯一のわたしたちではない、他の誰かに向かいます。わたしは他者の言動や他者の人生の評価、判定に多くの時間と労力を費やします。評価や判定であればいい所を取り上げて褒めたり、感心したりしても構いません。それでもあまりそうはなりません。自我は否定的傾向、消極的傾向、悲観的傾向そのものです。自我と同化したわたしは他者の言動や他者の人生を批判し、否定し、鼻で笑います。相手を下げることで自分を優位にします。そこから消極的な満足感を得ます。

わたしは自分の人生に対してどこか従属的で、抽象の中を生きているようです。評論するその対象なしには存在できない評論家のように、わたしは主体的に具体的な自分の人生を生きることがなかなかできません。

 

恐れ 

問題は意識が今ここにないことだけではありません。あなたの意識が、あなたの実在しない世界に向かうことであなたが悦びを得るなら、寧ろそれは歓迎できることかもしれません。問題は今ここにないことで、実在しないことであなたが心の苦しみを抱えるということです。自我は今ここにないことで、実在しないことであなたを惑わし、あなたを苦しめます。

自我は事実ではないことを事実のように、実在しないことを実在するようにわたしたちに見せます。見せるだけではありません。そこに心の苦しみ、負の感情を添えることもあります。自我と同化したわたしたちは事実ではないことを事実のように見て、苦しみます。実在しないことを実在するように見て、苦しむのです。

それには例えば恐れがあります。自我と同化したわたしたちは頭の中にしかない未来のことを実在するように見ます。「頭の中にしかない未来」と言っても、その未来はわたしたちの空想に過ぎません。わたしたちは今起きていないこと、起きるかどうかも分からないことを実在するように見て、心を暗くします。それが恐れです。

 

未来を現在の延長と考えてしまう

恐れが起きる原因はわたしたちの思考の癖とも関係します。わたしたちは未来を現在の延長と考えます。それは必ずしも事実ではありません。未来は現在の延長であり、延長ではありません。

「まさかこんなことになるとは思いもしなかった」。わたしたちは予測が外れることを経験的に知っています。未来が現在の延長であれば予測が外れることはありません。それにもかかわらずわたしたちは未来を現在の延長と考えるのです。わたしたちは起きるかどうかも分からないことを起きるに違いないと決めつけます。それはわたしたちの無自覚のうちになされる、事実に基づかない思考の癖です。

 

急かすワタシ

恐れは焦りとも関係します。わたしたちは今を基準にして、起きるかどうかも分からないことを近い未来で起きると想定します。その想定は条件反射のように瞬間的に起きる恐れです。その恐れがわたしたちに焦りをもたらします。焦りが起きることでかえってわたしたちの行動や仕事は停滞します。わたしたちは思い通りに行かず、苛立ちます。

たとえ急ぐことを求められていなくても、焦りは日常的に起こります。わたしたちは何者かに急かされているような気持ちになります。他人が急かしている訳ではありません。状況が急かしている訳でもありません。わたしたちの中にある何かがわたしたちを急かします。わたしたちの意識の焦点を今ここから逸らそうとします。

自我と同化したわたしたちは、今、していることに腰を据えて取り組むことがなかなかできません。気持ちは先に先にあります。気持ちがそわそわして浮足立って来ます。落ち着くことがなかなかできません。安らぐことができません。

 

後悔

自我と同化したわたしたちは頭の中にある過去を実在するように見ます。わたしたちは今起きていないこと、実在しないことを実在するように見て「ああしておけば良かった」と心を暗くします。それが後悔です。

わたしたちの過去は必ずしも事実ではありません。わたしたちの過去は記憶と言ってもいいのかもしれません。わたしは二週間前の今頃に何をしていたのかさえも思い出すことができません。それほどわたしの記憶は曖昧なものです。記憶は印象とイメージによるところが大きいものかもしれません。わたしは様々な体験をしました。楽しい体験も嬉しい体験も沢山しました。幸せも経験しました。それが事実です。それでも否定的傾向、消極的傾向、悲観的傾向そのものになっているわたしは、数ある過去の記憶の中からわざわざ苦しみの体験を引っ張り出して来て、今ここで実在しない苦しみの体験を実在するように見て、また苦しむのです。

後悔はわたしたちの思考の癖とも関係しています。人生は選択の連続です。わたしたちは岐路に立たされた時に、いくつかある選択肢の中から一つを選びます。わたしたちは苦しい現実を体験する時に、「ああしておけばよかった」と後悔します。わたしたちの思考の“おかしさ”は自分が選択したものとは別の選択肢が、自分が想像したように存在している(存在していた)と考えるところです。何かを失っている現実、例えばパートナーや若さや健康な体を失っている現実を前に、「ああしておけば失わずに済んだ。今頃幸せに過ごしていたに違いない」と考えます。わたしたちは実在しないものを実在するように見て苦しみます。それでも実在しないものは実在しません。実在しないものを想像通りに実在すると考えることは事実に基づかないわたしたちの思考の癖です。

 

比較の中で自己承認する

心の苦しみには悲しみがあります。悲しみには比較の中で覚える自分に対する無価値感や惨めな気持ちがあります。自我と同化したわたしたちは誰かと比較することで自分の立ち位置を知ります。自己承認します。

わたしたちは誰かよりも優秀であろうとします。誰かよりも持とうとします。なぜでしょう?それはわたしたちが誰かよりも優位に立つことで喜びを感じ、満足感を覚えるからです。「誰かよりも優位に立つことで自分に価値が出て来る。自分の価値が上がる。自分が認められる」。そう思っているからです。もしそうだとすればわたしたちは自分よりも劣る人間、下位の人間、自分よりも持っていない人間をわざわざ作り出さなければ、満たされないのでしょうか?自己承認できないのでしょうか?

 

悲劇のヒロイン

優位に立つことができないわたしは、誰かよりも劣っていることで自己承認することもできます。「わたしは誰よりも劣ります。誰よりも持っていません。わたしはもう手遅れです。どうしようもありません。何て可哀想なわたしでしょう。わたしは悲劇のヒロインです」。わたしは惨めな気持ちになりながら、同時にどこかで喜びを感じています。誰かよりも特別であることに消極的な満足感を覚えています。

 

持ち物とわたしを重ね合わせる

わたしたちは何かを持ったり、失ったりすることでも自分の価値が上下すると思っています。例えば肩書き、順位、収入、家、家族、能力、学歴や希少価値のあるもの、ブランド品もそうかもしれません。体に関すること、若さや美貌、健康もそうかもしれません。

プロフィール欄に経歴を羅列する人がいます。「わたしは名門校出身です。中退です。首席で卒業しました。有力企業に在籍したことがあります。要職に就いていました。責任のある立場です。アドバイスや意見を求められる立場です。有数の権威から認められています。一番になりました」。あるいはこういうことをしきりに言う人がいます。「わたしは有名な誰それさんと親しい間柄です」「わたしは有力者の誰それさんと知り合いです」。これらは一体何を意味するのでしょう?ただ事実を伝えているだけかもしれません。それでもそこに別の意図はないでしょうか?「わたしは優秀です。わたしは力を持っています。わたしは特別です。他の人とは違います」。こういう意図がないでしょうか?あるいは自分を高く、大きく見せようとはしていないでしょうか?その人は自分の持ち物の価値と自分の存在価値を重ね合わせているのかもしれません。その人は持ち物を失えば、自分が損なわれると思い込んでいるのかもしれません。

 

わたしの価値とは何か

そもそも自分の価値とは何でしょう?それは実在するものでしょうか?わたしたちには生まれながらに価値があります。その価値は何かを持つことで上がり、何か失うことで下がります。わたしたちは価値を上げることで自己承認されます。何かを持つことで自分が認められ、何か失うことで認められなくなります。それは事実でしょうか?

できていたことができなくなるというのは寂しいものです。わたしは小さくなったような気持ちになります。自信がなくなります。自分を認められなくなります。能力や持ち物が足りないために他人から認めてもらえないのは辛いことです。その感情や誰かにテストされるような場面は存在します。それでもわたしの能力や持ち物、わたしに起きる感情と存在としてのわたしの間にはあまり関係性がありません。

誰かよりも優秀であったとしても、劣等であったとしても、理想のものを手に入れたとしても、大切にしていたものを失ったとしても、誰かに認められたとしても、認められなかったとしても、嬉しかったとしても、悲しかったとしても、自信を得たとしても、自信を失ったとしても、存在としてのわたしたちは増えも減りもしません。価値や情報という観念の世界や感情の世界で変化はあっても、存在の世界では何も変わりません。それが事実です。

 

思い込みの世界で苦しむ

自我と同化したわたしは他人に嫉妬し、自分を卑下します。わたしが嫉妬しているその人は実在するその人ではありません。わたしはその人のある一部分しか知りません。わたしはある一部分からその人のイメージを膨らませます。わたしは仮想したその人を見ています。わたしは実在しない思い込みの世界で実在しない仮想した相手と比較して、自分に対する無価値感を覚えたり、惨めな気持ちになったりします。

わたしがしていることは同じです。事実ではないことを事実のように見て、実在しないことを実在するように見て、苦しんでいるということです。

 

「みんな」を見せるワタシ

比較の対象は抽象的な観念である場合もあります。例えば「みんな」というものがそうです。「わたしはみんなよりも劣っている」「わたしはみんなよりも遅れている」。わたしたちはみんなと比較して劣等感を覚えたり、焦ったりします。「みんな」を観察してみれば分かります。「みんな」というものは実在しません。同じ人は一人もいません。それぞれ事情も違います。それが事実です。それでもわたしたちは同じではない人たちを同じように見て、それと比較して苦しみます。

 

ワタシの“おかしさ”

わたしたちは現実と頭の中ですることの区別がつきにくいのかもしれません。現実と頭の中の“物語”を混同します。実在しない物事を実在するように見ます。見るだけではありません。負の感情に囚われます。実在しない物事を実際に見ることはできません。頭の中のイメージとして見ます。問題はそのことに対する自覚がほとんどないということです。

冷静に考えれば、起きてもいない、実在しないことを考えて心を暗くするというのは少し奇妙です。なぜなら何も起きていない、実在しない訳ですから。それでもわたしたちは思い込みから嫉妬し、劣等感を覚え、焦ります。不安になり、心配し、恐れ、後悔します。そのことを当たり前のことだと疑う余地もありません。

自我の“おかしさ”は評論家たちの討論からも窺えます。経済や政治の評論家たちが出演しているテレビ番組があります。司会者と評論家たちが白熱した議論をしています。先ほど電撃的に行われた他国の首脳会談や、先日行われた自国の選挙結果について話をしています。どういう思惑で今回の会談が行われたのか?今後どういったことが予想されるのか?政府のトップシークレットとも言える情報です。専門家といえどもそれを知っている訳がありません。当事者ではない人たちが現場から遠く離れた場所で議論をします。

「何々党が選挙に勝っていたとしたら」「あの局面であの政治家があの発言をしていなかったとしたら」「その後の展開はどうなっていたと思いますか?」「今回何々党が勝ちましたが、何々政権ではまだ安泰とは言えないのではないでしょうか?」「何々の問題が懸念されます」「経済の先行き不透明感は一層強まっています」。

話の大半は「もしこうだったら」という仮定や推測です。仮定や推測の話が悪い訳ではありません。自分がしていることを自覚できているかどうかが問題です。話している人がどれだけ輝かしい肩書きを持っていたとしても、そこで話されていることがどれほど素晴らしい話に聞こえたとしても、そこで行われていることは空想の話です。

わたしたちは現在の状況を基準にして近い未来でそれが起きると想定します。それはわたしたちの思考の癖です。実際のところ未来は現在の延長とは言えません。「先行き不透明、先の見えない時代」というのは今も太古も同じです。それはとても自然なことです。わたしたちには一瞬先のことさえも分かりません。なぜならわたしたちは一瞬未来でも、一瞬過去でもなく、今という限られた唯一の空間にしか生きることができないからです。

わたしたちは頭の中で行う仮定や推測を現実で起きているように見ます。そうでもなければ教養の高い大人たちが仮定や推測の議論に終始したりはしません。「空想の話はそろそろ止めにしませんか?」とは誰一人言い出しません。それどころか知識人と言われる人たちが空想の話に夢中になります。起きてもいないこと、起きるかどうかも分からないことに終始するあなたがいるとすれば、それはあなたが自我と同化している現れかもしれません。

 

過去と現在と未来は同じか

 わたしたちには事実が、実在するものがなかなか見えないのかもしれません。またそのことに対する自覚もできていないのかもしれません。先程のテレビ番組の中である人が言いました。「これは前例のないことです」「過去から判断すると信用できません」「どうなるか疑わしいですね」。

わたしたちは過去を教訓にします。経験値を参考にします。過去に重きを置きます。それがわたしたちにできることです。それでも過去と未来は違います。前例ないものを拒めば世界は進化しません。この世界は前例のないものばかりです。過去と現在と未来の違いを自覚している人は、過去から判断して完全に退けたり、不必要に疑いの念に囚われたりはしません。わたしたちは過去や未来へ行って生きることはできません。いつも今にしか生きられません。未来のことは一瞬先のことでさえも分かりません。それが事実です。それでもわたしたちは事実を無視してまでも、事実に沿わない自分たちの思考を優先しているのかもしれません。事実を捻じ曲げてまでも未来をコントロールしたい、あるいはコントロールできると思っているのかもしれません。

 

唯一無二である事実を見せないワタシ

自我と同化したわたしたちには一人一人が違った存在であるという事実が見えません。わたしたちは同じようなものとして見ます。わたしはわたしで、あなたはあなたです。似ていても違う存在です。それが事実です。そもそも比較の対象を持たない存在だということです。それでもわたしたちはその事実を自覚することができません。

わたしは誰かとの間に存在する僅かな共通点に意識の焦点を合わせます。わたしはその僅かな共通点だけを取り出して大袈裟に扱います。わたしはその僅かな共通点だけで比較して優越感や劣等感を覚えます。わたしは全体が見えません、とても視野が狭く、近視眼的です。

わたしたちは誰かと比較することで自分の立ち位置を知ります。自己承認します。どうしてわざわざ誰かを用意しなければ自己承認できないのでしょうか?どうして「わたしはわたしである。唯一無二のわたしである」というその事実を受け入れることができないのでしょうか?自我と同化したわたしたちは唯一無二の自分を生きることができません。比較の中で生きるようになります。優秀であろうとします。比較の中で苦しみます。

 

普通、平均、一般、標準、観念を実在するように見せるワタシ

自我と同化したわたしたちには事実が見えません。わたしたちは唯一無二の人たちを同じようなものとして扱います。それはわたしたち自身に対しても同じです。わたしたち自身も同じようなものだと思って過ごします。

世の中には若くして亡くなる方が大勢います。その原因は様々です。わたしが仮に交通事故で夭折した人であったとします。夭折したわたしに平均寿命や「人生80年」という考え方や、「普通は」という話は何の関係性もありません。交通事故で亡くなったわたしにとって、死因の上位を占める国民病は何の関係性もありません。何万人に一人が罹ると言われる難しい病があります。その難しい病を患っている人にとって、「何万に一人」という確率の話は何の関係性も価値もありません。

わたしはわたし以外の他の者になることはできません。いくらわたしと近しい人でも、仮にわたし以外の圧倒的大多数が同じであったとしても、わたしとわたし以外の人とは根本的に違う存在です。それでもわたしにはその事実が見えません。わたしは他人と自分を重ね合わせます。重ね合わせるのは実在する他人だけではありません。自分を普通、平均、一般、標準という観念と重ね合わせます。わたしは固有の存在である自分を一般化して生きることになります。

わたしは一瞬未来でも、一瞬過去でもなく、今ここという限られた唯一の空間にしか生きることができません。わたしはやり直しや巻き戻しの利かない、過去から未来へと向かう時間の流れの中に生きています。一度きりの今ここという瞬間を生きています。わたしという今生、一回きりの具体的な個人を生きる上で、普通、平均、一般、標準とは根本的に関係性がありません。わたしは次の瞬間にどうなっているのかさえも分からないのです。わたしは次の瞬間にこの世からいなくなっているのかもしれません。それはいくら若くても、いくら年老いていても、屈強でも、病弱でも例外はありません。わたしは普通、平均、一般、標準とは無関係のわたしです。それが事実です。

 それでもわたしにはその事実が見えません。20歳のわたしは「人生はこれからだ」と言います。40歳を過ぎたわたしは「人生の折り返し地点を過ぎた」と言います。80歳を過ぎたわたしは「もう老い先が短い」と言います。いくつまで生きるかも分からないわたしがそう言います。わたしは事実が見えずに普通、平均、一般、標準の中を生きることになります。それはまるで事実を知らずに幻を見て生きるようなものです。

自我と同化したわたしは普通や平均、一般的なもの、標準的なものを追いかけます。それらは雰囲気のようなものかもしれません。実在するようで実在しないものです。乱暴な言い方をすれば幻のようなものです。わたしたちは二つとして同じではありません。唯一無二の存在者たちです。その当人たちではない第三者が、固有の存在者たちを頭の中で平均化したもの。それが結果的に現れた、普通の人、平均的な人、一般な人、標準的な人という観念です。それらの観念が先にあった訳ではありません。普通、平均、一般、標準をまさに体現している人がいた訳ではありません。唯一無二の、固有の存在者たちがいました。そして今もいます。それが事実です。それでもわたしにはその事実が見えません。わたしは普通、平均、一般、標準を追いかけます。わたしはいくら追いかけても掴めません。それらは頭の中にしか存在しない観念だからです。わたしは実在しない観念を実在するように見て追いかけます。固有の存在であるわたしはそれらの観念になろうとさえするのです。それは不可能なことです。わたしは自分を見失い、やがては疲弊してしまいます。

 

安定を見せるワタシ

 わたしは実在しない観念を実在するように見ます。例えば安定がそれです。わたしが見ている安定は留まっているものです。わたしは安定を求めます。それでも手に入りません。なぜならそれは実在しないものだからです。

この世界は諸行無常です。変化しないと思う物でさえも見えない速さで静かに朽ちて行きます。すべては移り行きます。それが事実です。一瞬の停止も静止もなく、変化しています。その変化は全体として見れば、進化の中にあります。停止や静止を知っているのはわたしの思考と感覚です。変化はこの世界の自然の姿です。それでもわたしは自分や他人の心変わり、決意の揺らぎ、人生の方向転換に対して抵抗感を覚えます。他人に対するものであれば許すことができません。

特にこの国では変化はあまり好まれません。転々とすることは悪いことだと思われます。長く続けることが良いことです。定住することが当たり前です。飽き性は悪いことだと言われます。それが望む生き方かと言えばそうは見えません。

わたしたちの思考と感覚、わたしたちのすることは事実、実在するもの、この世界、自然とどこか調和しません。

 

実在するものよりも思考に囚われる、理屈に囚われる 

思考は実在するものとは異なるという意味で当てにならないところがあります。それでもわたしは実在するものよりも思考に囚われます。

わたしは理屈に魅せられます。世界情勢を分析する評論家のその巧みな語り口に心を奪われます。彼らの言う「何々主義」や「何々イズム」、思考の枠組み、分類の枠組みが実際の世界に存在する訳ではありません。「何々主義」や「何々イズム」、その理屈が世界に働きかけるきっかけや、ある方向性を決めるきっかけになったとしても、それらが世界を動かしている訳ではありません。実際の世界はわたしたちには掴めません。知りもしない人たちの知りもしない人生と人生の繋がりが世界を作ります。人間だけではありません。ありとあらゆる命の営みが世界を作ります。

人間だけが世界から分離して人間の世界を作り上げることはできません。実際の世界がどうやって展開されているのか、それを知ることはできません。それを知るには存在するすべての視点、神の視点が必要です。それでも自我と同化したわたしは人間が世界を動かし、世界を変えられると思っています。自分のことも世界のことも知ることができる、理解することができると思っています。自我と同化したわたしは「真理は一つ」などと言います。生まれてから死ぬまで、自分の視点しか持つことのできないわたしが真理や真実を知ることは不可能です。それでも自我と同化したわたしはその事実を知りません。

わたしは科学を妄信します。得体の知れないものを突き付けられると反射的に反論します。「科学的根拠はあるのですか?」と。わたしにとって科学は完成されたものです。これ以上ない信頼のできる確かなものです。わたしは科学的根拠さえあれば納得してしまいます。科学的根拠がないだけで完全に跳ね除けてしまいます。わたしは忘れています。事実が見えていません。科学は完成されたものでも、固定化されたものでもありません。現在進行形の進化の中にあります。科学が世界を作った訳ではありません。医学がヒトを作った訳ではありません。医学がわたしを生かしている訳ではありません。世界もわたしも人智を超えてすでに存在しています。

存在するものが先にあります。そこから見出された法則性が理論や理屈です。その理論や理屈はわたしたちが作り出した道具です。それにもかかわらず、いつしか道具の方が中心になります。わたしたちは理論や理屈を通して存在する世界を見ます。理論や理屈を通した世界を生きるようになります。

わたしは理屈に囚われます。先に存在するものよりも後付けの理屈の方が重要になります。理屈が音楽や絵画を作った訳ではありません。製作者がいくら「理屈で製作した」と言っても出来上ったものは理屈を越えているものです。美しい音楽や絵画が先にありました。そこに法則性を見出して理屈を作りました。その理屈は存在しているものを過不足なく表現できるものではありません。それでも使えるものです。ここまでは問題ありません。問題はわたしが存在するものよりも理屈を重視するようになることです。

わたしは理屈を知らなければならないと考えます。「理屈を知らなければ音楽をやってはいけない。絵をやってはいけない」と考えます。理屈を知らないことに後ろめたさや劣等感を覚えます。わたしたちは先に存在するものよりも後付けの理屈に囚われます。その理屈はわたしたちが作り出した道具です。ヒトは自分で道具を作り出しておきながら、道具が主人のようになってしまいます。

 

道具が主人になる

道具がわたしたちの主人になるという例は他にもあります。お金、時間や曜日、ルール、あるべき姿、価値観、習慣や伝統です。

お金は物々交換の延長から生まれたものです。欲しいものを得るための手段が、わたしの不安や恐れと結び付いて目的になってしまいました。わたしはビジネスで「結果がすべて」と言います。「結果」と言うだけでそれがお金を指すまでになりました。わたしは今やお金集めのために生きているようなものです。わたしはお金の奴隷です。

腹の減らないわたしは「何時だから」と食べ物を詰め込みます。眠気に襲われているわたしは「まだ何時だから」と起きています。心と体が悲鳴を上げていても、社会人としての自覚と責任からわたしは逃げ場を失います。精神的にも肉体的にも追い込まれて行きます。理屈が生身のわたしよりも優先されるようになります。

伝統を作り出したのは今を生きるわたしたちと同じ人間です。それでも「伝統だから」という理由だけで後世の人たちは伝統に縛られます。今を生きる人たちよりも先人や伝統が優先されるようになります。伝統は見方によれば、先人の後世に対する支配でもあります。

 

存在するそのものが見えない

ヒトは存在するものに与えた意味や情報の世界を生きているのかもしれません。あるものをあるがままに見ることがなかなかできません。例えば太陽を見る時に太陽に与えた情報を見ます。「暖かい」「暑い」「赤く燃えている」「野菜や果物を育ててくれる」「光合成の役に立つ」「洗濯物を乾かしてくれる」。わたしは日常で太陽をそのようなものとして見ます。「太陽」という名前がすでに情報です。わたしは太陽を見る時に、「それが地球から約1億5千万㎞離れている天体で、水素とヘリウムからできていて、核融合反応が起きて、大量の水素が消費されてヘリウムに変わる過程で光と熱が生まれている」とは見ません。水素とヘリウムというわたしと同じように不安定な存在であるにもかかわらず、わたしは太陽の心配をしません。わたしは身の回りの些細なことは心配しても、遠くにある重大なことは心配どころか意識さえも向きません。わたしは太陽に全幅の信頼を寄せています。というよりも無関心、無自覚です。わたしはそこにあるものに与えた(与えられた)情報を見ています。

 

当てにならない思考と感情

自分が何をすればいいのか、何をすることが自分を大切にすることなのか、わたしはそのことを凡そ分かっています。それでもわたしはやる前から気が重くなります。やる気が出ずに億劫になります。やれば自分のためになることでも、今すぐできることでも、なかなか取り掛かることができません。わたしは横道に逸れてしまいます。自分の人生の本題ではないことに、怠惰に耽ってしまいます。怠惰は心の苦しみとまでは呼べないものかもしれません。それでもわたしたちのためになるものではありません。その意味でわたしたちを不幸にするようなものです。

取り掛かる前は難しく感じます。「面倒臭い。じっとしていたい。もう少ししてからにしよう。今度やろう」。特に不慣れなことに対しては余計に難しく感じます。「これをするにはあれくらいかかるだろう。これは難しいかもしれない。厄介なことになりそうだ。これは敵わない。どうしてわたしがこんなことをしなければならないのか?」。わたしは何もしないうちから起きてもいないことを考えます。嫌気がさして来ます。苛立ちます。苦痛を感じます。それでもわたしは仕方なく事に取り掛かります。やり始めはまだ気が重いものです。次第に気の重さは薄れています。わたしは没頭しているうちにいつしか事を終えます。現実は実際に行動を起こして、それに取り掛からなければ分からないものです。取り掛かる前の思考と取り掛かってから分かることは違います。実際に起きたこととは違うという意味で、わたしたちの思考は当てにならない所があります。気の重さや怠惰な気持ち、苛立ちも当てにならない感情です。過ぎてしまえばその感情を抱くほどではなかったことに気づきます。

それは恐れの感情と似ています。わたしは新しい仕事をする度に恐れます。「この仕事はうまく行くだろうか?わたしにできるだろうか?大丈夫だろうか?」。わたしは程度差こそあれ、必ず恐れの感情に捕らわれます。それでも「いつまで経っても仕事が終わらずに困った」という経験がありません。トラブルやアクシデントが続くことはあります。それでもどこかで収束します。わたしは仕事が終わらなかったことは一度もありません。それにもかかわらず、新しい仕事をする度に恐れに捕らわれます。

恐れは自覚していないだけで日常の至る所で起きています。外出すれば「まだお金があったかな?足りるだろうか?」と財布の中身が気になります。少し雲が出て来ただけで、「雨が降らないだろうか?大丈夫かな?」と心配になります。相手からの電子メールの返信が少し遅いだけで、「わたしは何か悪いことをしたのだろうか?あの時のあの言い回しはよくなかったのかもしれない」と不安になります。それでも恐れの指す内容と実際に起きたことが同じかと言えば、そうとは言えません。恐れの指す内容と実際に起きたことが一致するかどうかという意味で、恐れが持つ感情の精度はあまり高いものではありません。仮に恐れの指す内容と実際に起きたことが同じであったとしても、事が過ぎてしまえば恐れるほどではなかったことに気づきます。

 

忘却するわたし

事が終わる頃に恐れがいかに当てにならない思考や感情であったか、それは暴露されるところです。それでもそうはなりません。自我と同化したわたしはこの過程を振り返ることはありません。行き過ぎた恐れや懸念は無責任に起きるだけ起きて、それで終わりです。恐れの指す内容が起きる時に、わたしは何に恐れていたのかさえも忘れようとしています。そしてわたしはまた新しい恐れに捕らわれようとするのです。

自我と同化したわたしは離れた所からこの状況を見ることができません。わたしは自我のもたらす負の感情の罠に気づけません。そしてわたしは自我のもたらす苦しみにまた囚われるのです。

 

思考と感情の精度を自覚する

気の重さや怠惰な気持ち、不安や恐れの感情が現れた時に記録することをおすすめします。現れた日時、どういう感情で、感情の指す内容は何かを記録します。そうすれば感情の指す内容と実際に起きたこととの違いが明確になります。それらの感情がいかに事実とは異なるか、いかに当てにならない感情か、いかにわたしがそれらの感情に囚われやすいかが明確になります。それを自覚することで一時的にそれらの感情に捕らわれても、耽ることは減ります。

記録することで、気の重さや怠惰な気持ちに対してはそれらの感情に捕らわれても、とりあえずは行動を起こすことで解消できるようになります。行動はどんなことでも構いません。できることをやります。例えば朝の起きがけに感じる辛さ、気の重さは起きて一歩踏み出すことで解消されます。それと同じです。不安や恐れの感情に対してはそれらの感情に捕らわれても、「これもやがては過ぎ去る」と心に余裕を持てるようになります。あなたはあなたに起きるそれらの負の感情と距離を取るようになります。

 

声のない独り言、相手のいない会話

わたしを怠惰にさせるものに思考の流れがあります。わたしはこの声のない独り言、相手のいない会話をいつから始めたのでしょう?2、3歳頃から自我が芽生えると言います。ほとんど年齢と変わらないくらいの間続けて来ました。わたしは何かに取り掛かっていてもいつしか散漫になります。絶えず現れる思考の流れ、空想の世界に引き込まれます。それは人生の本題とは無関係の怠惰そのものです。自我はわたしの実在する、今ここにわたしの意識を集中させません。今ここから意識を逸らそうとします。

私的なことや他人のこと。過去のことやこれから起きるかどうかも分からないこと。現実的なことや突飛なこと。思考は脈絡がなく、ランダムに現れます。いつの間にか始まっています。相手のことをほとんど知らないわたしが、過去に起きた相手との些細な出来事に意識の焦点を合わせます。わたしは相手を判定します。批判し、否定し、見下します。そして「わたしの方が優れている」と言います。「あの一言、あの表情、あの態度が気に入らない」と言い、相手に反撃します。憎しみや恨み、怒りや不満の類は握りしめて離そうとしません。何度も執拗に繰り返します。食傷気味でウンザリしているわたしもいます。それでも止めません。起きたこと以上に話は発展します。

事実はどうだったのでしょう?あの時の相手はどういう意図だったのでしょう?あの一言もあの表情もあの態度も分かりません。わたしの想像に過ぎません。わたしが作り上げた相手と物語です。目の前にはいつも誰もいません。現実ではありません。事実でもありません。空想に過ぎません。

自我は事実ではないことを事実のようにわたしに見せます。実在しないことを実在するようにわたしに見せます。見せるだけではありません。そこに心の苦しみ、負の感情を添えます。わたしは思い込みや空想の世界で憎しみ、恨み、嫉妬し、怒り、悲しみ、恐れ、後悔します。それだけではありません。脈絡のない思考はわたしの中を四六時中流れています。わたしはまるでその思考の流れの中に生きているようです。わたしは脈絡のない思考に気づかないうちに捕らわれて、耽ります。わたしは人生で優先することを後回しにして堕落します。わたしの中を流れる止めどない思考の流れとわたしを捕らえて離さない負の感情、それらに比べれば街の喧騒でさえも静かなものです。自我が薄くなれば分かるようになります。この世界そのものはとても静かです。

自我はわたしたちに負の感情をもたらすだけではありません。わたしたちの日常全体に広く、深く影響を及ぼしています。

 

 

⑤正当性の中に紛れるワタシ

 

                            

 

負の感情にももっともなものがある

悲しみには大切なものや人を失ったことによる喪失感から来るものもあります。特に愛する人との生き別れや死別は辛いものです。その悲しみを時間が解決してくれるのかもしれません。他の何かが喪失感を埋めてくれるのかもしれません。それでもそれは一時的なものかもしれません。失った人を思い出してはまた悲しみに暮れてしまいます。喪失感から来る悲しみはもっともな感情です。その悲しみは失ったその人がくれた愛情や思い出の大きさを表しているものかもしれません。失った人にとっては失ったものが人生そのものだったのかもしれません。失った人にとってはこれからどうして行けばいいのかも分からない、絶望の淵に立たされたような、人生そのものが断たれたような気持ちになります。終わったことだからと気持ちを切り替えられるものではありません。それでも悲しみに暮れているとなかなか起き上がることはできません。気力を失ってしまいます。

恐れにももっともな恐れがあります。「大切な人の身に何か良からぬことが起きないだろうか?」と心配するのは当然のことです。体の調子が悪い時や深刻な事態に起きる恐れは自分のことであれ、他人のことであれ、自然な感情です。恐れは生命の危険に対するアラームです。わたしたちに備わった防衛本能です。

怒りの中にももっともな怒りがあります。理不尽なことをされて自尊心を傷つけられたり、理不尽な出来事を見聞きしたりして、怒りが湧かないのは寧ろ不自然です。病気や事故で体が思い通りにならない時や自分の力ではどうしようもない状況下で感じるもどかしさや苛立ち、憤りはもっともな感情かもしれません。

負の感情にもっともな理由がある場合、わたしたちの中でその感情は問題視されません。悲しむのが当然です。恐れるのが当然です。怒るのが当然です。それでも悲しみや恐れ、怒りの感情に耽ることは結果的に自我を喜ばせることになります。自我はその感情の正当性に紛れます。わたしたちは無抵抗のまま負の感情に繋ぎ止められてしまいます。

 

痛みと自我

痛みがすぐそこにある時に、わたしたちはより自我と同調しやすくなるのかもしれません。喪失感から来る心の痛みや、病気やケガから来る体の痛みを抱える時、体に負担がかかっている時、切羽詰まった状況下で心に余裕のない時、わたしたちに心身共に余裕がなく、わたしたちが弱体化している時に、自我はより勢いを増してわたしたちの中で大きくなることがあります。自我はいつもわたしたちのすぐ側にいて、気がつかないうちにわたしたちと同化します。

 

けしかける、強力にはびこる

自我はわたしたちを不幸にします。不幸になりたい人はいません。不幸にしようとする者が現れるとわたしたちは敏感に察知します。そこをかい潜って自我は上手くやります。もっともなことを持ち出して来て、わたしたちに見せます。わたしたちの正義感や自尊心につけ込んで、わたしたちをけしかけます。

例えばわたしから搾取する雇用主や甘い汁を吸っている人たち、理不尽な要求をしてくる知人や仕事上の取引先、顧客、同僚、政治の腐敗や官僚の汚職をわたしに見せます。テレビや新聞、インターネットのニュースを通して実際に見せることもあれば、頭の中を流れる思考として見せることもあります。「こんなに理不尽なことが起きている。こんなことが許されるのか?」「あいつはいつもわたしに仕事を押しつけておいて、わたしから奪っているじゃないか!これが怒らずにいられるか!?怒って当然だ」「さあ、怒りなさい!ぼやきなさい!嘆きなさい!」。わたしは気づかないうちに怒りに導かれます。わたしは口に出さなくても頭の中でこの話題を何度も繰り返しています。それでもわたしは怒りの状態に繋ぎ止められていることに気づきません。

理不尽に対する気持ちの抵抗感は凄いものがあります。不正や理不尽な出来事、人間関係はわたしたちの中で強力にはびこります。なぜならわたしたちの良心がそれを許せないからです。わたしたちは気づかないうちに不幸になってしまいます。

 

増長するワタシ

わたしは自分の正義感や自尊心の裏側で自分を苦しめていることに気づきません。いくらわたしの怒りに正当な理由があったとしても、わたしがそこでしていることは自分の心を暗くすることです。怒りは体にも悪影響を及ぼすことは知られています。体が悪くなれば人生も暗くなります。わたしがそこでしていることはわたしを不幸にすることです。わたしだけではありません。わたしの怒りは周りの人たちの心を暗くし、体を弱らせ、人生を暗くします。

自我は増長しています。自分の力が分かっていません。自分が主人だと思い込んでいます。自分が大きくなって思いのままにしようとします。主導権が自分にあるものだと思い込んでいます。まさか自分の存在そのものが“間違い”だとは思いもしません。宿主を破壊する寄生虫や悪性細胞が存在します。彼らは自分たちの肥大化が自滅に繋がることを知りません。宿主なくして自分たちが存在できないことを知りません。自我は寄生虫や悪性細胞と同じようなものです。自我がわたしたちを苦しめています。自我がわたしたちを壊しています。自我がわたしたちを弱体化させています。自我がわたしたちを不幸にしています。それでも自我と同化したわたしたちはそのことに気づけません。

 

 

⑥心の苦しみを減らすために

 

 

 

事実か、実在することかを見極める

心の苦しみを減らすにはどうすればいいのでしょう?それはあなたが苦しんでいる時に、あなたが見ていることは事実なのかどうか、実在することなのかどうか、それを冷静に見極める必要があります。なぜなら自我と同化したわたしたちは事実ではないことを事実のように、実在しないことを実在するように見て、苦しむ傾向にあるからです。例えば思い込みから来る、憎しみや恨みなどの怒り、比較から来る、嫉妬や劣等感や自分に対する無価値感、今、起きていないことに対する後悔、これから起きるかどうかも分からないことに対する不安や恐れや焦りです。

 

負の感情にしがみつかない

事実かどうか、実在することかどうか、それを見極めるのが難しければ、あなたに負の感情が現れた時に、容易くその感情に飛びつかないようにしてはどうでしょう?一時的に飛びついても、しがみつかないようにする必要があります。自我は簡単にはあなたを逃しません。事実ではないこと、実在しないことを次から次にあなたに見せます。あなたの頭の中に止めどなく現れる思考がそれです。実際に起きたこと以上にあなたの中で話は発展します。「そう言えばあの人はあの時もそうだった」「そもそもあの人はいつもああだ」「今度こういうことがあればああ言ってやろう」。「わたしはあの時もダメだった」「わたしはいつもダメだ」「わたしは何をやってもダメだ。わたしはダメな人間だ」「もうどうでもいい」。自我は事実を飛躍させます。そこには多くの嘘を含みます。それはもはや事実ではありません。自我はそうやってあなたを負の感情に繋ぎ止めようとします。

 

わたしとワタシを切り離す

歳を重ねるにつれて失うものが増えます。別れる人が増えます。健康な体や体力、気力も減少傾向になります。若い頃に比べて夢や希望を持ちにくくなります。将来への漠然とした不安や恐れ、悲しみがより身近に感じられるようになります。歳を重ねるにつれて苦しみが増える傾向にあります。自我がもたらす負の感情になすがままにしているとますます苦しみを抱えることになります。自我に弱体化させられます。そうならないためには自我のなすがままにしないことが重要です。自我があなたに苦しみをもたらします。あなたがその苦しみを引き受けます。そこにあなたと自我との“微かな接点”があります。その段階で「わたしに苦しみが現れている」と気づく必要があります。

心の苦しみの過程や原因、形は様々です。怒り、悲しみ、不安、恐れ、後悔、焦り、無価値感、惨めな気持ち、嫉妬、喪失感、気の重さ、怠惰な気持ち…。苦しみとまでは呼べないものから強烈なものまで様々です。苦しみとまでは呼べないものでもあなたをリラックスさせたり、心地よい気分にさせたりするものではありません。あなたの心を暗くさせたり、あなたを堕落させたりします。それらはあなたを不幸にするものです。

あなたに負の感情が現れた時に、あなたと負の感情を意識的に切り離してはどうでしょう?存在としてのあなたと心の苦しみを切り離します。あなたと自我を切り離すということです。

 

ゆらめきと流れ

感情は炎のゆらめきと似ています。わたしは機嫌がよかったかと思えば、イライラしています。穏やかな気持ちでいたかと思えば、そわそわしています。喜怒哀楽、感情が定まることなく変化します。わたしが囚われやすい空想は脈絡のない思考の流れです。ゆらめきと流れをコントロールすることはなかなかできません。自我が薄くなったとしても、苦しみが完全に解消される訳ではありません。「乱れ始めた感情を整える」「脈絡のない思考の流れに捕らわれてはそこから離れる」。それらの繰り返しは続きます。

 

見ているわたし

「わたしは今、苛立っている」「わたしは今、心を暗くしている」「わたしはまた価値のない空想に耽っている」。そう思うことができるわたしがいます。そのわたしは自我に囚われているわたしを離れた所から見ています。それは子どもを見つめる大人の視線と似ています。騒ぎ立てる子どもは大人と目が合うだけで大人しくなります。それと同じです。自我と同調したあなたをしばらく眺めていれば、あなたから負の感情や脈絡のない思考の流れが消えて行くのを感じられるはずです。

「またわたしを苦しめようとして現れたか」「わたしを苦しめてどうするつもりだ?」「わたしなしに君は存在することさえできないのに」。心の中でそう呟いてみてもいいのかもしれません。

自我がもたらす負の感情や、脈絡のない思考の流れに囚われているわたしを、見ているわたしがいます。そのわたしが自我と同化したわたしを見ている、存在としてのわたしです。存在としてのわたしはわたしの理解、意図、自覚を越えて生きています。存在としてのわたしはわたしに怒りがあろうとなかろうと、わたしに悲しみがあろうとなかろうと、わたしに恐れがあろうとなかろうと、わたしに後悔があろうとなかろうと生きているわたしです。

あなたは存在としてのあなたを自覚することができるでしょうか?あなたは誰でしょう?あなたは怒りでしょうか?悲しみでしょうか?恐れでしょうか?後悔でしょうか?あなたにはあなたの負の感情、あなたの理解、意図、自覚を越えて生きているあなた、存在しているあなたがいるはずです。あなたがそのあなたを自覚することができれば、一時的に負の感情や脈絡のない思考の流れに捕らわれても、耽ることは減るはずです。あなたはあなたでありながら、あなたの中にある自我と適度な距離を取るようになります。

 

自覚そのものがわたしを苦しみから解放する

あなたと心の苦しみを切り離す習慣が身につくと、自我があなたに近づいて来た時に気づくようになります。あなたはもはや自我と同化しなくなります。仮に負の感情に捕らわれても、「わたしは今、負の感情に捕らわれている」と気づきます。価値のない空想に耽っていても、「わたしはまた堕落させられている」と気づきます。気がつくだけで自我は消えて行きます。「負の感情に捕らわれては気づく」を繰り返しているうちに、あなたの中で自我が小さくなって行くのを感じられるようになるはずです。

仮に自我が強かったとしても悲観することはありません。問題解決のために敢えて何かをする必要もありません。あなたの中に特有の性質を持った自我があること、そのことを知ること、自覚することで問題は問題でなくなって行きます。自我との関わり方を知っていれば、必要以上に苦しまずに済みます。

 

 

⑦心の苦しみから抜け出してわたしを生きる

 

 

 

事実に沿って生きる 実在する世界に生きる

実際に起きたことや実際に存在すること、事実を重視して実在する世界に生きるようになると思い込みや空想、「もしこうだったら」という仮定、頭の中の世界、観念の世界に没頭することは減ります。頭の中の過去と未来はあまり重要ではなくなります。あなたは実在する世界、今ここという限られた唯一の空間を生きるようになります。ここではないどこか、例えばインターネットやテレビの世界に没頭することも減るかもしれません。わたしの体は今までも今ここという空間にありました。それでもわたしの意識はここではないどこかに、今のわたしではない誰かに向いていました。わたしは他人の批判や否定に多くの時間と労力を費やして来ました。わたしは目標や理想の中に生きていました。改善傾向の強いわたしは「今の状態ではダメだ」と、今のわたしを無意識のうちに否定して来ました。わたしは今ここに実在する唯一のわたしを蔑ろにして来ました。わたしは今ここという限られた唯一の空間にしか生きることができません。計画をしたり、予定を立てたり、理想を掲げたりすることも大切です。それでも今ここに実在する唯一のわたしに重点が置かれない限り、それらは単なる絵空事です。

事実を重視して実在する世界に生きるようになると比較の世界に耽ることは減ります。「すべては唯一無二の存在である」という事実を生きるようになります。わたしたちは比較の対象を持たない、普通、平均、一般、標準とは無関係の唯一無二の自分を生きるようになります。わたしたちは自分の仕事をするようになります。わたしたちがわたしたちでありながら成長して行きます。

 

2章を始める前に

わたしがこれから話すことは当たり前のことかもしれません。すでにありのままの心で生きている人にはあまり価値のない話です。わたしには事実が見えませんでした。事実が見えずに心を暗くして来ました。わたしたちは事実ではないことを事実のように、実在しないことを実在するように見て、苦しむ傾向にあるようです。わたしたちは今一度事実を自覚する時に来ているようです。心を解放してわたしたちを生きる時に来ているのかもしれません。わたしたちが唯一無二のわたしたちを生きるには、まず心を自由にする必要があります。あなたは自由な心を持っていますか?心の中で不自由を感じているとすれば、それはなぜでしょう?