事実の力 実在する力 

心の苦しみから抜け出してわたしを生きる    Taro

2章 自由な心を取り戻す

①切り離せないものからわたしを切り離すワタシ 

 

 

                                                      

意識の上で繋がりを断ってしまう

自我には「わたし」という自己意識を越えた、特有の性質があります。特有の性質には主に4つあります。1つ目は自我の基本的な性質である、わたしを苦しめるということです。2つ目は「自分でできる。自分でしている。自分でしたい」「思い通りにできる。思い通りにしている。思い通りにしたい」と思っていることです。3つ目は「わたしに事実を見せない。わたしに実在するものを見せない」ということです。4つ目は切り離せないものからわたしを切り離すということです。それでも実際に切り離す訳ではありません。意識の上で切り離します。

 

故意に設定された系統は存在できない

自我と同化したわたしたちは繋がりを断ってしまいます。それでも実際に断つことはできません。繋がりを断って存在することは不可能です。意識の上で繋がりを断ちます。わたしたちは繋がりの中に存在するわたしたちをなかなか自覚することができません。

繋がりは様々です。例えば祖先との繋がりがあります。わたしが祖先との繋がりを感じられるのは近くの祖先に限ります。途切れることのない脈々と続く繋がりを感じることはできません。わたしは血の話をすることがあります。血筋、血統、家系の話です。「あの人は由緒正しい家系である」「あの人は優秀な血筋である」「純血の何々民族が」と言ったりします。それはあり得ません。それは故意に設定された系統です。繋がりは意図されたものだけでは収まりません。ルーツを辿れば故意に設定された系統を簡単に越えてしまいます。わたしたちは人類の誕生と進化の歴史だけではなく、生物の誕生と進化の歴史、地球の誕生と進化の歴史、太陽系の誕生と進化の歴史、宇宙の誕生と進化の歴史。それらのすべての歴史を持って今ここに存在しています。わたしたちのルーツは宇宙の始まり、そのひとつにまで遡ります。それでも自我と同化したわたしにはその事実が見えません。

故意に設定された系統はそれだけでは存在できません。切り取ることのできない全体の一部です。それは脈々と続く繋がりなしには存在できないものです。故意に設定された系統は幻のようなものです。それでも自我と同化したわたしたちはその幻を見ます。切り離せないものを切り離します。実在できない様々な系統を故意に設定し、他者を差別します。仮想した他者を下げて、自分を上げます。そこから消極的な満足感を得ます。自己承認します。ただ差別するだけではありません。暴力に訴え、排除しようとさえします。

 

人々の命の営みに囲まれる

繋がりは他にもあります。わたしたちは様々な物に囲まれています。例えば食べ物や着る物、家具や家電製品、家や車があります。わたしは自給自足の暮らしではありません。誰かが育ててくれた野菜や果物、牛や豚や鶏、誰かが獲ってくれた魚、誰かが調理してくれた物を食べています。電気やガスは田舎に住んでいる我が家にもやって来ます。蛇口を捻れば水が落ちます。外に出れば舗装された道路があります。信号や道路標識があります。バスや電車を乗り継いで行きたい所へ行けます。混沌としていたはずのところに秩序が与えられ、綺麗に整えられています。すべてわたし以外の誰かがもたらしてくれたものです。わたしは恵みの中に生きています。わたしは無自覚に受け取り、時には与えています。

そこにある物の背後には誰かがいます。誰かの思いや知識、技術、人生がそこにあります。わたしは人々の命の営みの中に生きています。わたしの知らない人たちの命の営みです。そこからもたらされた物を受け取っています。わたしたちは脈々と続く人たちの命の営みの中に生きています。誰かとの繋がりなしに生きることはできません。綺麗事を言う訳ではありません。これは事実です。それでもわたしたちは繋がりの中に存在している事実をなかなか実感できません。

 

孤独ではいられない

「途切れることのない脈々と続く繋がり」とはありきたりの言葉ではありません。事実を表す、これ以上ない重みを感じる言葉です。その繋がりとは人の繋がりだけではありません。わたしたちの思考や感覚さえも超越したありとあらゆるすべてとの繋がりです。

例えばあの日、あの時、あの場所であなたのお母さんが食べたあのトマトがなければ、あなたは今のあなたとして生まれることはできていないかもしれません。トマトはあの日、あの時、あの場所で、あの日光を浴びて、あの水分とあの養分を与えられて、あの成長をした、あの栄養価のあのトマトでなければなりません。トマトは、あのトマトを作ったあの人が、あの両親の間に生まれ、あのやり方で育てられ、あの人生を歩み、あの場所であの土を作り、あのトマトの種を植え、あのやり方で育て、あの状態であの瞬間に収穫したあのトマトでなければなりません。

あなたのお母さんがあの両親の間に生まれ、あのやり方で育てられ、あの人生を歩み、あの日、あの時、あの場所で食べたあのトマトがなければ、あなたはあなたとして存在していないかもしれません。

あのトマトが南米で栽培されていなければ…。コロンブスがアメリカ大陸を発見していなければ…。あのスペイン人がアメリカ大陸へ渡り、あのトマトを故郷に持ち帰らなければ…。あのトマトがイタリアへ渡り、その後トマトがヨーロッパ全土に広まらなければ…。あのトマトが江戸時代にあのポルトガル人によって日本に輸入されていなければ、あなたは存在していないかもしれません。

あの日、あの時、あの場所であなたのお母さんが食べたあのトマトだけでもその縦と横の繋がりを明らかにすることはできません。それほど繋がりは途方もないものです。それでもたった一つ何かが欠けてしまうだけで、存在するはずのものは存在できなくなってしまいます。太古のあの日、あの時、あの場所であの原始の海が生まれなければ、あの名もない生命は生まれません。太古のあの日、あの時、あの場所であの名もない生物が海から陸に上がらなければ、今のわたしたちは存在しません。たった一つ何かが欠けてしまうだけで歴史は変わってしまいます。わたしたちにとって都合の悪いことでも、気に入らないことでも、わたしたちの知らないことでも、わたしたちの思考や感覚を越えてどこかで関係を持っているためにわたしたちは今、存在しています。もしかするとあなたの足元にいる一匹の蟻が、誰からも気づかれずに生えている名もない草木が、そこに流れ込んだ一滴の雨粒が、無造作に積まれた何かが、他でもないあなた自身がこの世界を生かし、わたしたちを存在させているのかもしれません。

わたしたちは100%の確率で存在しています。宇宙創世以来、無数の選択肢がありました。わたしたちが生まれて来られない選択肢も無数にありました。それにもかかわらずわたしたちは無数に存在した岐路で、一度も間違えることはありませんでした。だからわたしたちは生まれて来ることができました。100%でなければ生まれて来ることはできません。生まれてからも同じです。100%でなければ今も生きてはいられません。

わたしたちは人智を超えて存在しています。わたしたちの思考や感覚を超越した所で起きる変化、繰り広げられている命の営み、得体の知れないものの命の営みがあったために、そして今もその命の営みがあるために、この世界は今も存在し、わたしたちも生きていられます。それでも自我と同化したわたしは、自分の理解と知覚の及ぶ範囲だけでこの世界が成立していると思っています。自分の思考と感覚で捉えられないものは存在さえしないと思っています。

自我と同化したわたしたちは、途切れることのない脈々と続く繋がりをなかなか感じることはできません。そのためにわたしたちは孤独を感じます。それでもそれは孤独感です。わたしたちに起きる負の感情は当てになりません。事実とは異なります。わたしたちは孤独ではいられません。繋がりなしに存在することはできません。

 

命、自然、宇宙、世界から分離するワタシ

自我は切り離せないものからわたしたちを切り離します。実際に切り離す訳ではありません。意識の上で切り離します。例えばわたしは「わたしの命」と言います。わたしはその時に全く違和感を覚えません。わたしは命なくして存在できません。わたしと命は一体のものです。それでも意識の上でわたしと命を切り離します。命から分離したわたしとは何でしょう?それは実在できない幻です。

わたしは「自然はいいね。自然は素晴らしい」と称賛します。「自然を相手にするのは大変だ」と言います。その時のわたしはどこか他人事のようです。まるでわたしは自然から離れた存在で、自然から離れた人工的な社会に生きているようです。わたしは自然そのものです。自然の内側にしか存在できません。わたしたちの手から生まれた最先端の科学や文明も、無機質な人工物もすべてが自然から生まれたものです。自然界を離れて存在できるものは何もありません。それでも意識の上ではわたしと自然を切り離しているようです。

わたしは一秒たりとも太陽の恩恵なしに生きることはできません。夜になれば星々や月はそこにあります。それでもわたしは宇宙に馴染みがありません。どこか遠くの話に思えます。「宇宙を感じる。宇宙を生きる」。その言葉を聞いた途端に違和感さえ覚えます。「普通はそういう言い方をしない」と反論したい気持ちになります。わたしには宇宙という言葉が大袈裟で、どこか宗教的な怪しささえ持っているように感じられます。

わたしは宇宙空間に存在する地球に生まれ、生きています。わたしは地球や宇宙、自然界から離れて存在することはできません。それが事実です。それでも「わたしはこの街で、この地方で、この国で、社会に生きてはいても、地球という天体に生きていて、宇宙に生きていて、自然界に生きている」という実感がなかなか持てません。自我と同化したわたしは宇宙に思いを馳せたり、夜空を見上げたりするようなことはあまりしません。

 

自然界の中の社会

ところで自然界と社会は別々に存在するものでしょうか?社会は自然界から分離しても存在できるものでしょうか?あなたは自然界に存在していますか?それとも社会に存在していますか?社会は自然界なしには存在できません。人間は自分たちにとって便利な仕組みを自然界に作りました。それを社会と呼んでいるに過ぎません。

 

 

②価値と意味

 

 

 

価値や意味を持たない世界

自然界に予め与えられた価値や意味は存在するのでしょうか?自然界を見渡しても「善や悪」「良い、悪い」は存在しません。食う、食われるという関係性も生も死も、善でもなければ悪でもありません。良い訳でも悪い訳でもありません。そこにあるのは価値や意味といった情報を持たない、現象と存在です。

自然界には予め与えられた価値や意味は存在しません。「べき」「ねばならない」といった義務や絶対的な価値も存在しません。あるとすればある物事に対する解釈です。そもそも価値や意味は観念です。実在するものではありません。自然界は価値や意味を持たない存在の世界です。

設定された価値と意味を持つ世界

「自然界」という概念は社会が生まれてからできたものかもしれません。社会との対比で使われる「自然界」という言葉です。それでも自然界を離れて存在できるものは何もありません。その意味で「自然界」という言葉は「社会」という言葉との対比ではありません。「社会」を内側に含んだ、「世界」そのものを指す言葉です。人間は社会を築いてからその中を生きるようになりました。それでも人間は社会に存在すると同時に自然界に存在しています。自然界に存在することなしに社会は存在できません。自然界は価値や意味を持たない存在の世界です。その世界に後から作られたのが社会です。

社会には法律をはじめとするルールがあります。それは敢えて設定された価値や意味と言えます。設定された価値の世界ではその世界の内側にいる限り、その世界の価値が適用されます。

 

正しさ、間違い

設定された価値と意味の世界に存在する言葉があります。それは「正しさ」と「間違い」です。設定された価値基準に合えば正しい。合わなければ正しくない、間違いであるとされます。それはスポーツやゲームの世界と同じです。学校の勉強も同じようなものかもしれません。教科書という設定された価値、正しさに照らして判定されます。教科書や正しさ、ルールや法律という設定された価値は絶対的なものではありません。固定化されたものでもありません、相対的で流動的なものです。それらの設定された価値は一定の強制力を持ちながらも、必要に応じて改定されたり、変更されたりします。

 

ルールが及ぶのはどこか

設定された価値の世界、例えばスポーツやゲームの世界ではその設定された価値基準、ルールを引き受けない限りはその世界に参加できません。参加していながらそのルールを守らない場合は罰則を科されます。最も悪質な場合はその世界から追放されてしまいます。社会の場合はどうでしょう?わたしたちは現実的に国や社会の内側でしか存在できません。参加するか否かを問われないまま、設定された価値の世界の内側にすでに存在しています。その世界ではその世界の価値基準、ルールが適用されます。それが社会のルールや法律です。わたしたちは社会の様々なルールや法律に拘束されながらも、それらを守っている限りは自由です。厳密に言えば社会の内側にいても完全に自由です。ただし法を犯せば罰せられる可能性があります。

わたしたちは設定された価値の世界、社会の中では振る舞いにある程度の規制がかけられてはいても、心の中は自由でいられます。

 

「べき」「ねばならない」を心に中にまで引き受ける

自由なはずのわたしたちの心が不自由を感じているのはなぜでしょう?わたしたちには良心があります。良心に反することをすれば疚しさを感じます。良心があるために不自由を感じる部分もあるのかもしれません。それ以上にわたしたちが不自由を感じているのは、「べき」「ねばならない」、義務や絶対的な価値を必要以上に引き受けているからです。

自我と同化したわたしは事実ではないことを事実のように、実在しないことを実在するように見て、苦しみます。わたしは今ここという限られた唯一の空間にしか生きることができません。それでもわたしの意識は今ここではないどこかにあります。自我と同化したわたしは実在する世界に生きることがなかなかできません。わたしは今のわたしではない他の誰かになろうとします。

例えば他人や社会が求める理想像、価値観、「あるべき姿」と言われるものです。「男として、女として、責任のある社会人として」「何歳で仕事に就いて、結婚をして、家庭を持って、子どもをもうけて、家を手に入れて、年収いくらくらい稼いで」「良き母親とはこうで、良き父親とはこうで、一人前の男とはこうで、一人前の女とはこうで、人とはこうあるべきです」「20代、30代、40代、50代、60代、何十歳代でしておくべきことはこうで、何十歳代はこうあるべきで、それが当たり前で、普通はそういうもので、人とはそういうものです」。わたしはあるべき姿になろうとします。「そうすべき、そうしなければならない」と思い込んでいます。本心からそれを求めるというよりは、追い立てられるような気持からそれを求めます。わたしの心の軸はわたしにはありません。外側にあります。それだけでもわたしにとっては息苦しいものです。あるべき姿になれないわたしは焦ります。自分だけが置いて行かれるような気になります。「人はみんな違う。それぞれの人生がある」。その事実はわたしには見えません。わたしには気休めの言葉にもなりません。わたしは次第に劣等感や後ろめたさを覚えるようになります。自己嫌悪に陥るようになります。自己否定するようになります。自分に力を感じられなくなります。場合によっては外に出ることさえ難しくなってしまいます。

わたしがここでしていることは何でしょう?わたしは他人や社会が求める理想像、価値観、「あるべき姿」と言われるものを「当たり前だから、常識だから」と無条件に認めています。それは時代や場所が変われば変わる、流動的で相対的な価値です。わたしにはその事実が見えません。わたしはその価値を固定化し、絶対化し、心の中に引き受けます。わたしはさらにその引き受けた価値基準から外れて、苦しみます。そもそも社会の内側にいるわたしが守ることは社会の様々なルールや法律です。他人や社会が求める理想像、価値観、「あるべき姿」と言われるものではありません。わたしにはその事実が見えません。

社会の様々なルールや法律の及ぶ範囲は特定の振る舞いに関することです。それらの振る舞いが「べきこと」であり、「ねばならないこと」であり、義務と呼ばれることです。それ以外は自由です。特に心の中は自由です。どれだけ偉い人の発言であろうと、常識であろうと従わなければならないものは何もありません。

自由だったはずの心の中に「べき」「ねばならない」を引き受けた時に、わたしたちは苦しみます。心の中に引き受けなければならない「べきこと」「ねばならないこと」は存在しません。自我と同化したわたしたちは実在しない「べきこと」「ねばならないこと」を実在するように見て、心の中に引き受けます。自我と同化したわたしたちは「べき」「ねばならない」の多い人生を歩むことになります。それは不自由な苦しみの多い人生です。

 

道徳、品格

この世界は元々価値や意味を持たない存在の世界です。社会に存在するわたしたちは法律をはじめとするルールを守ってさえいれば、何をしてもいいのでしょうか?道徳はどうなるのでしょう?道徳は少し変わっています。法的拘束力がありません。「道徳的であるべき」「道徳的であらねばならない」「道徳的であれ」と相手に求める時、それはもはや道徳とは呼べません。社会の内側に存在するわたしたちが守るべきこと、守らなければならないことは法律をはじめとする社会のルールです。それ以外に守るべきこと、守らなければならないことは存在しません。「べきこと」「ねばならないこと」ではないにもかかわらず、「べき」「ねばならない」と言って相手に求める時、それは嘘をついていることになります。理不尽な暴力とさえ言えます。それは道徳ではありません。

品格も同じようなものかもしれません。相手にそうあって欲しいと期待はしても求めるものではありません。「そうあるべき」「そうあらねばならない」と言って相手に求める時、それはもはや品格のある行いとは言えません。

 

良心

それでは道徳や品格は存在しないのでしょうか?それらは存在します。わたしたちには良心があります。わたしたちにとってそれは本能的なものです。この世界もそれを知っています。「天網恢恢疎にして漏らさず」と言うのはそのためです。たとえ罰せられることはなかったとしても、逃げ切ることはできません。それなりの代償を払うことになります。 

わたしは知っています。嘘をつくことがどういうことなのか、嘘も方便だということも知っています。裏切ること、他人や何かを傷つけることがどういうことなのか、独占することや分け合うこと、自分や他人を大切にすること、思いやりや優しさ、勇気、真剣であること、素直になること、みんなで楽しむこと、ひたむきに努力すること、過ぎてしまえば及ばないこと、美しさ、綺麗にすること、時には上手くやること、ケチであること、恥をかかせること、耽ることはどういうことなのか、何が良くて、何が悪いのか、気持ちのいい人とはどういう人を指すのか、器の大きな人とはどういう人を指すのか、何をすればいいのか、どこへ向かえばいいのか、わたしはそれらの価値と意味を知っています。それらは誰かから直接教わったことでもあります。人生を通して色んな人の姿から学んだことでもあります。それと同時にそれらはわたしが元々知っていたことでもあります。何も知らないわたしがそれらの価値や意味を理解できる訳がありません。

 

事実を飛躍させるワタシ

わたしはそれらの価値や意味を知っています。それでもそれらは「べきこと」でも、「ねばならないこと」でもありません。わたしがそれらを理解し、行動に移すのは「そうすべきだから」「そうしなければならないから」ではありません。「そうした方がいい」と思っているからであり、そうしたいからです。それらは「そうあって欲しい」と相手に期待をしたり、「そうした方がいいかもしれないよ」と相手に勧めたりはしても、「べき」「ねばならない」と言って相手に求めるものではありません。

自我には「わたしに事実を見せない。わたしに実在するものを見せない」という特有の性質があります。自我は事実を飛躍させます。事実の飛躍はもはや事実ではありません。自我と同化したわたしはその事実の飛躍に気づきません。わたしには良心があります。それでもわたしの良心にあること、良心からもたらされることは「べきこと」でも、「ねばならないこと」でもありません。失ってしまった自由な心を取り戻すには、その事実を今一度自覚する必要があります。

 

自由な心を取り戻す 

社会は自然界なしには存在できません。わたしたちは社会に存在していると同時に自然界に存在しています。自然界は価値や意味といった情報を持たない、存在の世界です。その世界に敢えて作られたのが社会です。社会は設定された価値や意味の世界です。乱暴な言い方をすれば社会は必要性があったからとは言え、この世界は本来価値や意味を持たない存在の世界であるという、その事実に反して敢えて設定された価値や意味の世界です。「何もないところに何かが設定される」、その過程、そこで起きた事実は自覚しておいた方が良さそうです。なぜなら自我と同化したわたしたちは事実ではないことを事実のように見るからです。わたしたちは事実と事実ではないことの区別さえつきにくいからです。その上とても忘れやすいからです。自由なはずのわたしたちの心が必要以上に不自由を感じているのはそのためです。社会には守るべき法律とルールがあります。その法律とルールが適用される範囲は特定の振る舞いに関することです。「べきこと」「ねばならないこと」、義務はそれらに限ります。その他は自由です。社会の中でありのままの自分を生きることは時に難しく感じられます。それはわたしたちが自我と同化しているために事実が見えずに、心の中にまで「べき」「ねばならない」を引き受けているからです。

わたしは人目が気になります。体裁を気にします。高尚な生き方や低俗な生き方があると思い込んでいます。わたしは他人や社会が求める理想像、価値観、あるべき姿が存在すると思い込んでいます。わたしはそのあるべき姿から外れて苦しみます。自信を失います。自分に対して無価値感を覚えます。自分に力さえ感じられなくなってしまいます。わたしはやがて他人や社会と接触を持つことさえ難しくなってしまいます。

「逃げるべきではない、逃げてはならない」と思い込んでいるわたしは社会人としての自覚、自分の置かれた社会的立場や責任から逃げ場を失います。精神的にも肉体的にも追い込まれてしまいます。最悪の場合、自分で自分の人生にピリオドを打つこともあり得ます。

心の中に引き受ける「べきこと」「ねばならないこと」は存在しません。道徳や品格であっても、「べきこと」でも、「ねばならないこと」でもありません。それでも何でもいい訳ではありません。わたしたちには良心があります。ただしその良心にあること、良心からもたらされることでさえも「べきこと」でもなければ、「ねばならないこと」でもありません。良心はわたしたちの心を必要以上に縛り付けて、不自由にするものではありません。わたしたちはその事実を改めて自覚する時に来ているようです。心を解放して唯一無二のわたしたちを生きる時に来ているのかもしれません。心の中はわたしたちが社会を築く前から存在していた自然界のようです。そこには自由があります。そこはありのままのわたしたちが生きられる世界です。

 

 

③個人の問題としての自我

 

 

 

形を変える自我、自我のなすがままにしない

自我には主に4つの性質があります。1つ目は自我の基本的な性質である、わたしを苦しめるということです。この性質を持った自我は否定的傾向、消極的傾向、悲観的傾向そのものと言えます。2つ目は「自分でできる。自分でしている。自分でしたい」「思い通りにできる。思い通りにしている。思い通りにしたい」と思っていることです。この性質を持った自我は自分に固執し、自分を優先する傾向があります。自分勝手で自分の考えややり方に執着します。考えややり方を含めた広い意味での自分の持ち物と、自分の存在を重ね合わせます。他者との関係性で優位に立とうとします。そのことで喜びを感じ、満足感を覚えます。3つ目は「わたしに事実を見せない。わたしに実在するものを見せない」ということです。4つ目は意識の上で切り離せないものからわたしを切り離すということです。

あなたは自我と同調するほど、自我と同化します。あなたは自我と距離を取るほど、自我と同調しなくなります。自我と同調しないためには自我のなすがままにしないことが重要です。「自我のなすがままにしない」とは、自我特有の4つの性質がもたらす負の感情や思考のままにあなたが同調しない、負の感情や思考のままにあなたが行動しないということです。仮に同調したとしても同調していることに気づいて、そこから離れるということです。

自我は形を変えて日常の至る所に姿を現わします。影を潜めてあなたに近づき、あなたが気づかないうちにあなたと同化します。ここでいくつかの例を挙げます。1章で述べたことと重複しますが、これらは誰にでも当てはまる事柄です。「自我に囚われる者」という意味でわたしたちはみなエゴイストなのかもしれません。あなたにも心当たりがあるなら、自我と距離を取るように心掛けて下さい。そうすれば必要以上に心の苦しみを抱えずに済みます。思い込みや固定観念から自由になれます。創造的にあなたらしく生きるきっかけになります。

社会や政治への関心は大切なことです。それでも政治の腐敗、官僚の汚職、企業の不正、スポーツマンや芸能人のスキャンダルに囚われて、ぼやきや嘆きが止まらないあなたがいるとすれば、それはあなたが自我と同化している現れかもしれません。あなたはテレビを見ては、「世も末だ」と嘆き、政治家や官僚、財界人、スポーツマン、芸能人、マスコミの批判をしながら、テレビからも抱いている負の感情からも離れられないでいます。

一見もっともらしいことを言いながら、具体的なあなたの人生を主体的に生きるよりも、他者の批判や抽象論、一般論を繰り返しているあなたがいないでしょうか?

周りの人たちや聞き手の気持ちを考えずに、否定的発言や不平不満、愚痴を繰り返しているあなたがいないでしょうか?

他人や社会に対して冷笑的な態度に出てしまうあなたがいないでしょうか?

孤独感に囚われ続けるあなたがいないでしょうか?

すぐに大声を上げて怒鳴り散らすあなた、物や誰かに当たり散らすあなた、怒りの感情に引きつけられやすいあなたがいないでしょうか?

「心配だ、大変だ、もうダメだ、敵わない、気をつけないと」。恐れからの言葉や弱音が口をついて出て来るあなたがいないでしょうか?

今、起きてもいない、これから起きるかどうかも分からないことに囚われて心を暗くしたり、行動的になれずに思い悩んだりしているあなたがいないでしょうか?

実在しないものに囚われて、心を暗くしているあなたがいないでしょうか?実在しないものとは例えば分かれた恋人やパートナー、失った若さや健康、過去の失敗です。

せっかちなあなたや止めどなく現れる思考の流れ、空想に囚われやすいあなた。つまりあなたの実在している、今ここに集中できないあなたがいないでしょうか?

自我と同化したわたしたちは自分たちの勝手な意図から、実在できない系統を作り出します。その系統を使って他者を差別します。例えばそれは“都合のいい”血の繋がりであり、肌の色であり、民族です。故意に設定された系統はそれだけでは存在できません。繋がりの中に存在する全体の一部です。わたしたちは理解を越えた繋がりの中に存在しています。差別しているあなたもその差別している対象なしには存在できません。それにもかかわらず実在できないそれらの系統を見て、差別したり、差別されたりしているあなたがいないでしょうか?

他人を否定することで相手を下げて、自分を上げます。そこから消極的な満足感を覚えているあなた、自己承認しているあなたがいないでしょうか?

優秀であることに拘るあなた、比較の中に生きるあなたがいないでしょうか?

実在しない「みんな」を見て、それと比べて劣等感を抱いたり、焦ったりしているあなたがいないでしょうか?

気の重さや怠惰な気持ち、つまり実際に起きたこととは異なる、当てにならない負の感情や思考に囚われて、あなたにとって大切なことを後回しにしているあなたがいないでしょうか?

高尚な生き方や低俗な生き方があると思い込んでいるあなたがいないでしょうか?

人生の歩むべき道やレールは実在しないにもかかわらず、それがあると思い込んでいるあなたがいないでしょうか?実在しないそれらの価値を他者に押しつけているあなたがいないでしょうか?実在しないそれらの価値を心に引き受けて、「わたしはレールから外れてしまった。もう人生は終わりだ」と悲観しているあなたがいないでしょうか?

社会を生きるわたしたちに必要な「べきこと」「ねばねらないこと」は、法律をはじめとする社会のルールです。それは特定の振る舞いに関することです。それにもかかわらず、引き受ける必要のない、「べき」「ねばならない」を無自覚のうちに引き受けているあなたがいないでしょうか?

「べきこと」「ねばならないこと」は実はあまり多くありません。それにもかかわらず口をついて「べき」「ねばならない」が出て来るあなたがいないでしょうか?なぜそうすべきなのか、なぜそうしなければならないのか、その理由を明らかにすることもなく(明らかにされることもなく)、「べき」「ねばならない」と相手に求めたり、受け入れたりしているあなたがいないでしょうか?

自我は実在しない物事を実在するように見せて、あなたを苦しめます。真面目な人ほど、「べき」「ねばならない」に囚われて苦しむものかもしれません。「親としてこうあるべき、こうあらねばならない」。その思考が強迫観念のようにまでなっているあなたがいないでしょうか?「教わった通りにならなければいけない。本に書いているようにならなければいけない。誰それさんが言ったようにならなければいけない」「思ったようにならなければいけない」。その観念が観念を持っている当人を精神的に追い詰めてしまうことがあります。それだけではありません。その当人の周りにいる人たちをも破滅に追いやってしまうことがあります。特にまだ生きる力の弱い幼い子どもたちが犠牲になることがあります。

いつまでも怒りの感情に囚われ続けるあなたがいないでしょうか?例えば夫や妻や恋人、友人や職場の同僚に対して苛立っているあなたがいるとします。そこには一見正当な理由があります。それでも苛立ちという負の感情に囚われ続けているあなたがいるとすれば、それは自我があなたを負の感情に繋ぎ止めているのかもしれません。なぜあなたが苛立っているのか、客観的に自分を見て下さい。そこに相手が自分の思い通りにならずに苛立っているあなたが、少なからずいるのではないでしょうか?あなたには怒りたくないと思うあなたがいる一方で、いつまでも怒りに引きつけられるあなたもいます。あなたはその相手に囚われます。口には出さなくても、そこに相手がいなくても、あなたは頭の中でその相手に囚われて怒りの感情を抱いています。

自覚してもらいたいことは、負の感情と思考に囚われているあなたはあなたであり、あなたではないということです。あなたは自我のもたらす負の感情と思考に同調しています。それでもあなたには負の感情と思考に同調しているあなたを、自覚しているあなたもいるはずです。そのあなたが自我ではない、存在としてのあなたです。

あなたが自我と同調しないためには、自我がもたらす負の感情と思考の起きるままにしないことが重要です。それでも特別に何かをする必要はありません。することは負の感情と思考が自分に起きていることに気づいて、意識的にそこから離れることです。

 

自我から行動しない

テレビや新聞で目にする政治の腐敗や官僚の汚職、企業の不正、痛ましい事件や事故、日常で遭遇する理不尽な出来事、つまり負の感情が起きて当然だと思われるような情報や出来事に対して、わたしたちはどう接すればいいのでしょうか?それには負の感情とわたしたちを切り離して、その情報や出来事からも負の感情を切り離して、事実として接する必要があります。負の感情を除いた情報として、負の感情を除いた出来事として、事実として接すれば自我を増長させることはありません。

負の感情から接すれば、解決に向かうはずのエネルギーは発散されて消え去ります。何の生産性もないまま忘れ去られるだけです。わっと怒鳴って終わります。ぶつぶつ言って終わります。悲嘆に暮れて終わります。葛藤して終わります。他人に不快感を与えるだけで終わります。出来事に直面します。そこに問題があります。直接的ではなくても、小さなことでもわたしたちとの接点があります。考えが浮かびます。できることがあります。それを実行に移すだけです。

相手の至らない所を指摘したり、指導したりする場面でも、自我がもたらす負の感情をあなたから切り離してそれをする必要があります。あなたが怒りの感情からそれをすれば、相手の怒りを誘うことになります。自我からの行動は相手の自我を刺激して同調させます。

 

 

④全体の問題としての自我

 

 

 

負の感情は連鎖する

自我は個人を越えて影響します。自我からの行動は他者の自我を刺激して同調させます。怒り、悲しみ、不安、恐れ、後悔。負の感情は感情を抱いている当人を越えて、周りにいる他者にも影響します。

例えば車の運転中に無理な割り込みをされることがあります。それまで穏やかな気持ちでいても、瞬間的に怒りの感情が湧き起こります。しばらくの間相手に反撃をしたい衝動に駆られます。

騒音を上げて暴走するバイクの音に苛立つこともあります。単に大きな音に対して苛立つのではありません。例えば工事現場から発生する騒音も大きな音です。それでも瞬間的な苛立ちが起きたとしても、怒りの感情に繋ぎ止められることはありません。なぜならそれが怒りからの行動ではないからです。怒りからの行動であれば他者の怒りを誘います。わたしたちはたとえ一定の距離があったとしても他者の自我を感じ取ることができます。

自我からの言葉、例えばぼやきや嘆きはその言葉の内容が聞こえなかったとしても、その人が発した言葉のトーンでさえも他者の自我を刺激して、同調させます。

口論をしている二人を見ていても分かります。二人のうちのどちらか一方が大声を上げて怒鳴りつけます。すると今まで落ち着いていたもう一人も同調して、大声で応えます。

 

全体としての自我、道徳の系譜

わたしの自我と隣人の自我が、隣人の自我とそのまた隣人の自我が、わたしたちの自我はわたしたちの自覚を越えて影響し合うのかもしれません。自覚を越えた、無意識の集合意識とでも呼べるようなものを、個人の自我を越えた“全体の自我”を形成しているのかもしれません。その全体の自我が社会の根底にあります。社会を取り巻く雰囲気のようなもの、「べき」「ねばならない」という観念がわたしたちの心から自由を奪います。

道徳が仮に「べきもの」「ねばならないもの」であるとすれば、その道徳を作り上げ、定着させているのは個人を越えた全体の自我かもしれません。そうでもなければ事実ではないものがここまで社会全体に浸透するとは思えません。わたしたちの心を縛り付けるものはありません。わたしたちが守るべきこと、守らなければならないことは法律をはじめとする社会のルールです。それは心に適用されるものではありません。一定の振る舞いに適用されるものです。心に引き受ける「べきこと」「ねばならないこと」は実在しません。わたしたちには良心があります。何が良くて、何が悪いかは分かっています。それでもわたしたちの良心にあること、良心からもたらされることは「べきこと」でもなければ、「ねばならないこと」でもありません。

自我は事実を飛躍させます。事実ではない物事を事実のように、実在しない物事を実在するようにわたしたちに見せます。心に引き受ける「べきこと」「ねばならないこと」は実在しません。それにもかかわらずわたしたちは実在するように見て、心の中にまで引き受けます。

社会に浸透した理由は他にもあります。「集団を壊す者が現れるかもしれない。集団を維持できないかもしれない」という個人の恐れを越えた全体の恐れがあったからです。その恐れもまたわたしたちの自覚を越えています。

他者に「道徳的であれ」と求める時にそこにはどんな感情があるのでしょう?「道徳を使って相手を抑えたい。相手をコントロールしたい」という気持ちが、心の深層に少なからずあるのではないでしょうか?その感情の出所も恐れの出所も同じです。個人を越えた全体の自我です。

 

自我は全体の問題にまでなっている

自我は切り離せないものからわたしたちを切り離します。実際に切り離す訳ではありません。意識の上で切り離します。命なくしてあり得ないわたしたちが「わたしの命」と言います。意識の上で命から切り離されたわたしたちが命を奪っています。

自然なくしてあり得ないわたしたちが「自然はいいね。自然は素晴らしい。自然を相手にするのは大変だ」と言います。意識の上で自然から切り離されたわたしたちが自然を壊しています。

優位に立つことで喜びを感じ、比較することでしか自己承認できない、途切れることのない脈々と続く繋がりが見えないわたしたちが、実在できない系統を故意に設定します。そして「わたしたちは他と違って優れている」と他者を差別します。

怒り、悲しみ、恐れそのものになったわたしたちが、事実が見えずに思い込み、憶測、仮想から暴走します。侵攻します。暴力を振るいます。

思い通りでなければ気が済まない、利己主義的なわたしたちが搾取します。独占します。負の遺産を後世に先送りします。

命にも世界にも調和できないわたしたちの自我が命を奪い、世界を壊しています。自我はもはや個人の問題だけではありません。全体の問題にまでなっています。

 

 

⑤事実が発揮される世界へ 

 

 

 

万物の根源

古代から万物の根源、世界の起源について議論されて来ました。水、空気、原子、火、土、数、分けられないもの、限りのないもの、諸説あります。「愛であり、光である」と言う人もいるのかもしれません。

わたしは創造の力、進化そのものだと確信しています。なぜなら人類の歴史、生物の歴史、地球の歴史、宇宙の歴史、歴史そのものがそれを証明しているからです。ヒトが生きるものを創り上げることは未だにできていません。単純な細胞でさえも創り出すことは奇跡だと言います。その細胞が生まれただけではありません。命を存続させ、成長し、その数を増やして行きます。その細胞は永い年月をかけて肉体を持ち、心を持ち、言葉を持つまでに進化しました。世界は地球さえもなかったところから今ある文明までも築き上げてしまったのです。

わたしにはある出来事が矛盾と破壊に見えます。それでもそれはわたしの判断、解釈、わたしの考えに過ぎません。この世界は諸行無常です。すべてが一瞬の停止も静止もなく、変化の中にあります。その変化は全体として見れば、進化の中にあります。

「宇宙の拡大速度は落ちる」。科学者たちの予測を裏切り、宇宙の拡大速度は上昇しています。この瞬間も世界は拡がります、新種の生物、新しい命が生まれます。わたしたちの手から瞬間、瞬間新しいものが生まれます。

地球を誕生させ、太陽を存在させ、宇宙を拡げ、新たな命を生み出し、それらを生かし、成長させ、進化に向かわせているもの。わたしたちを生み出し、生かし、成長させ、違いを与えて唯一無二の存在にしているもの。わたしたちの背後にあるもの、わたしたちの目には映らないエネルギー、目には映らない命がわたしたちを通して、新たなものをこの世界にもたらします。自我と自由意志を持ったわたしたちにはその自覚がないだけです。

この世界は無限に湧き上がる創造の力そのもの、進化そのもの、命そのものです。

 

今が目覚めの時

心の中に引き受ける「べきこと」「ねばならないこと」は実在しません。その事実を再認識する時に来ています。その事実を頭で理解するのではなく、自覚することができた時にわたしたちは自由な心を取り戻します。そしてわたしたちはようやく唯一無二のわたしたちを生きられるようになります。その先にあるものは何でしょう?それは事実が遺憾なく発揮される世界です。

わたしたちは唯一無二の存在です。多様であるという事実が阻害されることなく、そのまま発揮されます。この世界は創造の力そのもの、進化そのものです。わたしたちも成長そのものです。その事実が阻害されることなく、そのまま発揮されます。

他人や社会が求める理想像、価値観、「あるべき姿」と言われるもの。普通、平均、一般、標準、時代の流行り廃り、自分ではない外側を軸にしたあり方は多くの抵抗と摩擦を生みます。唯一無二の存在が生かされることはありません。型に入らないものを既存の型に無理矢理押し込めるようなあり方です。「そこにいるはずの人がそこにいません。それをするはずの人がそれをしません。そこにいなくてもいい人がそこにいます。それをしなくてもいい人がそれをします」。そういう状況を生み出してしまいます。その状況下で創造性は飛躍しません。

「監視の目がなければできない。不正を働く。手抜きをする」。それは単に倫理観の欠如とは思えません。その人がする仕事ではないからです。その人は自分のことを知っているとは思えません。その人がする仕事であれば監視の目は必要ありません。放っておかれても没頭してやります。納得が行くまでやります。

事実が遺憾なく発揮される世界では自分を知った者たちが自分を生かします。自分の仕事をします。唯一無二の存在者たちが唯一無二でありながら成長します。それは抵抗と摩擦を生まない自然の姿です。最も創造的な姿です。多様で高度に発達したものがわたしたちの手からもたらされます。世界は多様でありながら、創造性が飛躍します。世界の進化速度は過去にないほど上昇します。今、人類が自我からの目覚めの時に来ているのは恐らくそのためです。「創造性を飛躍させる。進化速度を上げる」。そのためには自我を克服する必要があります。人類の進化、ひいては世界の進化を阻むもの、それがわたしたちの自我に他ならないからです。

 

3章を始める前に

わたしがこれから話すことは常識を越えています。圧倒的大多数が何と言おうと自分がどう感じたのか、自分に起きた感情や自分の体験を信じる少しの勇気が必要です。それでも一度体験してしまえば、それが常識を越えていようと科学を越えていようとあなたにとっての事実になります。事実は強力です。受け入れ難いものであっても、受け入れるより他にないからです。事実にはわたしたちを納得させるだけの力があります。

わたしがこれから話すことはわたしの主義や主張ではありません。大昔からあった事実の話であり、自我の強かったわたしには知ることのできなかった、自然が持っている別の側面についての話です。わたしが「太陽はそこにあります」と言った時に、あなたは「そういう考え方もあるね」とは言わないはずです。「それはそうだ」と言うはずです。わたしがする話はそういう話です。