事実の力 実在する力 

心の苦しみから抜け出してわたしを生きる    Taro

3章 唯一無二のわたしを生きる

ありのままの心

 

                                

 

思考よりも自然傾向、思考よりも実在するもの

わたしたちに必要なことは自分の考えや自分でコントロールしようとする意図、つまりまだ現実には現れていない頭の中の思考に頼るのをやめて、現実に現れているもの、実在するものを頼りにすることかもしれません。

実在するものには、例えばわたしたちに元々備わっている自然傾向があります。わたしたち一人一人が自然傾向に沿えば、唯一無二のわたしたちを生きることになります。

実在するものには他に、この世界の自然傾向とこの世界の仕組みがあります。わたしたちがこの世界の自然傾向と仕組みに沿えば、わたしたちと世界の飛躍に繋がります。自然は過不足のない完璧な秩序です。最も合理的なシステムです。世界の仕組みを跳ね除けて、自分たちのやり方で思い通りにやろうとしても物事の質は上がりません。

それでも自我を持ったわたしは自分の考えとやり方に固執します。例えば当初の予定が途中で変更されることを嫌います。段取りが変わることは悪いことだと思い込んでいます。それは予定や段取りが変わって現れた現実よりも、自分の思考を頼りにしている現れかもしれません。わたしたちに必要なことは自分の思考よりも現れた現実を重視することです。現実は本来わたしたちの思考よりも説得力があります。なぜなら現実はすでに結果として現れているもの、実在するものだからです。わたしたちに必要なことは思い通りに行くかどうかよりも、思い通りではなくても結果として現れた現実、実在するものを、「これでいい」と信頼し、受け入れることです。言い換えればそれは自分に執着するのをやめて、現実、実在するものを信頼して、それに任せるということです。

実在するもの(実在して来たもの)には他に、過去から未来へ流れるわたしたちの人生の流れと、進化して来た世界の歩みがあります。わたしたちは人生の流れの中に、世界の歩みの中に生きています。人生の流れと世界がわたしたちを存在させます。わたしたちの思考がわたしたちを存在させているのではありません。実在するもの(実在して来たもの)はわたしたちの思考よりも頼りになるものです。

わたしたちは世界から離れて存在することは不可能です。わたしたちにできることは、わたしたちを生み出し、生かし、成長させ、他でもない唯一無二のわたしたちにしている、世界の自然傾向と仕組みに沿うことです。自我さえなければ自然を受け入れることは本来とてもシンプルなことです。なぜならわたしたちはすでに自然そのものだからです。抵抗しているのはわたしたちの自我です。

 

唯一無二のわたしを生きる

「べき」「ねばならない」から解放された時にわたしたちは自由な心を取り戻します。自由な心を取り戻した時にようやく唯一無二のわたしたちを生きることができます。わたしたちは唯一無二のわたしたちでありながら成長することができます。それはとても創造的な生き方です。それでも今まで外側を重視して生きて来たわたしたちです。例えば他人や社会が求める理想像、価値観、「あるべき姿」と言われるもの、普通、平均、一般、標準、時代の流行り廃りです。いきなり「唯一無二の自分を生きろ」と言われても何をすればいいのか分かりません。わたしたちは何をすればいいのでしょう?それを知るにはどうすればいいのでしょう?そもそも「唯一無二の自分を生きる」とはどういうことでしょう?

それはありのままの自分を生きるということです。「ありのままの自分を生きる」とはどういうことでしょう?それはわたしたちに備わった自然傾向に沿って生きるということです。ありのままの自分をどうやって知るのでしょう?それはわたしたちの心が教えてくれます。

 

心が中心

何をするかは問題ではありません。ありのままの心で生きることが重大です。何をするかに意識が向いていたわたしたちは自分の心に意識が向くようになります。わたしたちは自分の心の状態をモニタリングするようになります。ありのままの心を追求しているうちにやることは変わるかもしれません。それは自然なことです。この世界は諸行無常です。変わらないものは何もありません。それが自然の姿です。唯一無二の自分を生きるというのは事実に沿った自然な生き方です。ありのままの心にありのままの自分がいます。ありのままの心をどうやって知るのでしょう?それもまたわたしたちの心が、感情が教えてくれます。

 

重大なこと

わたしたち現代人の多くは心の重要性に気づいていないようです。わたしたちの人生は心が創り上げていると言っても過言ではありません。ありのままの心で生きること。それは重大なことです。

ありのままの心から離れた時に良からぬことが起こります。それは「ありのままの心に戻りなさい」というわたしたちへのサインです。「べき」「ねばならない」に心を許した時にありのままの心を失って行きます。わたしたちがわたしたちでなくなって行きます。これは比喩的な表現ではありません。シンプルな事実です。「わたしたちがわたしたちでなくなって行く」とはわたしたちが消滅して行くということです。消滅して行く過程で何が起きるのでしょう?わたしたちの人生を暗くする、思いつく限りのことが起こります。

 

悦びの感情を追求する

ありのままの心をどうやって知るのでしょう?それは感情が教えてくれます。

穏やかさの中にある気持ちの高まり、悦び、抵抗感のない状態、やりたいことをやる時の気持ちです。そこにありのままの心があります。そこにありのままの自分がいます。些細なことでも構いません。気持ちが向くこと。一番やりたいことではなくても、我を忘れて没頭できること。なぜかあまり労せずにできること。それをしていて悪い気がしないこと。何よりも優先してそれを追求して下さい。何をするかではなく、感情、気持ちを追求して下さい。今までやりたかったことでも気持ちが変わったのなら、感情、気持ちを追求して別のことをして下さい。「飽き性はダメなことだ」とは思わないで下さい。わたしたちは目に映らないこと、科学的根拠のないこと、常識では測れないことを甘く見ています。自分の心を後回しにします。他人に気配りをするように自分の心に気配りをして下さい。自分の心と体を自分だけのものだとは思わないで下さい。わたしたちは意外に自分の心を知りません。何に心が悦ぶのか自覚できていません。他人に贈り物をする時に相手が何に喜ぶのか、わたしたちは慎重になって考えます。他人と接するように自分の心と接して下さい。「これはどうだ?これは気に入るか?」と自分の心に聞いて下さい。

わたしたちには「べきこと」「ねばならないこと」、義務があります。それは社会人としての振る舞いに関することです。振る舞いには振る舞いの大切な仕事があります。それとは別に心には心の大切な仕事があります。心の仕事はありのままの心でいることです。社会生活を送りながらありのままの心でいることは、難しいと感じるかもしれません。可能なところから始めて、ありのままの心でいられる割合を増やして下さい。始めは気持ちが少し穏やかになった程度で変化が見られません。それでも続けているうちに状況は好転します。ありのままの心で生きることが気休めや甘え、現実逃避ではないことに気づきます。それは大きな気づきです。

 

 

心と現実の関係 

 

 

 

タイムラグ

ありのままの心で生きることは気休めや甘え、現実逃避ではありません。なぜでしょう?それは心の状態が現実に反映されるからです。心の状態と現実との関係に気づいているでしょうか?心と現実の関係が分かりにくいのは、そこにタイムラグがあるからです。

現実を作っているのは現在のわたしたちではありません。過去のわたしたちです。過去のわたしたちの心の状態が現在の状況である現実に反映されました。現在のわたしたちの心の状態がこれからやって来る現実、つまり未来に反映されます。今のわたしたちの心の状態がこれからやって来る現実に反映されるということです。心が現実を創ります。

 

広い意味での感情、背後にある感情

心の状態とは「広い意味での感情」「背後にある感情」と言ってもいいのかもしれません。生きる上でのモットーや信条、何をよしとするのか、あなたの価値観、価値基準、人生観、あなたの信じていること、あなたの信念の背後にある感情です。あなたの思い、考えの背後にある感情です。あなたの行動、習慣の背後にある感情です。

自分が持っている信念、思考、自分の行動、習慣が悦びからのものなのかどうか、それを自覚する必要があります。「人生というのは厳しくて辛いものである。人生は甘くない」。こういう信念の背後にある感情は苦しみです。苦しみからの信念を無自覚に持っていれば、現実はそれを反映したものになります。他人の視線を気にしての行動や義務感からの行動であれば、その背後にある感情は悦びを伴っていません。今どんな心の状態にあるのか、それが重大です。何をするかが問題ではありません。自分がそれをしていてどう感じているかが問題です。

 

心の現実化は速くなっている

今、心の現実化速度は上昇しています。それを感じるでしょうか?なぜ現実化の速度が上がっているのか、それは分かりません。それでも今が人類の進化にとって重要な時期にあることを多くの人たちは感じています。その人たちは地域や国を越えて繋がり、同じ情報を共有しています。インターネットの発達が人類の進化を促しています。そのことがテレビや新聞で伝えられることはありません。

心の現実化速度が上昇することは夢のようなことです。なりたいわたしたちになれます。ありのままの自分で生きて行けます。その一方で心の状態が負の状態であれば、その現実化も速まります。「べき」「ねばならない」の多い人、恐れの強い人、苦しみからの信念を持っている人。その人たちがどのような目に遭うかは明らかです。そのような人たちにとっては辛い時代に入ります。今、自分の心と向き合い、不要な信念、思考、感情を捨てる時に来ています。

 

現実は過去

今の心の状態がこれからやって来る現実に反映されることに気づけば、現実と格闘することは減ります。現実は過去のわたしたちの心の状態が反映されたものです。現実は過去の現れです。妙な言い方をすれば、現実が気に入らなくてもそれは過去のことです。

現実と格闘する時にそこにはどんな感情があるのでしょう?もどかしさ、悔しさ、悲しみ、怒りでしょうか?今の心の状態がそれらの負の感情であれば、これからやって来る現実はそれらの感情を反映したものになります。今だけではなく、それらの負の感情をまた体験することになります。今の現実を変えることはできません。これからやって来る現実は変えられます。それは今の心の状態を変えることです。

 

二重取りする自我

自我の罪はわたしたちの現実を暗いものにすることです。わたしたちに負の感情をもたらし、負の感情に繋ぎ止め、わたしたちを苦しめ、わたしたちを弱らせ、堕落させます。罪はそれだけではありません。わたしたちが現実で苦しみを味わう時、同時にこれからやって来る未来までも苦しみで染めることになります。自我の罪はわたしたちの今を奪うだけではなく未来までも奪うことです。自我はわたしたちから幸せの二重取りをします。

 

見えるものよりも見えないものを信じられるか、当てにできるか

わたしたちにとって見えないものは価値を持たないも同然です。それに対して見えているものは絶大な力を持ちます。見えているものはわたしたちにとってのすべてと言ってもいいほどです。わたしたちに必要なことは現実に現れているもの、実在するものを重視することです。それでも見えている現実がわたしたちにとって辛いものである場合、その現実に囚われて苦しんでいては、悦びのある未来はやって来ません。よりよい未来を築くために必要なことは今に悦びを感じることです。見えている辛い現実に囚われるよりも、「見えていない未来がよいものになる」と信じて、現実に悦びを感じることです。それはわたしたちにとってとても難しく感じられます。何も見えていないものを疑いの心を入れずに信じた上で、悦びを感じられない現実に「悦べ」と言うのは修行のようなものです。それでもそれがこの世界の仕組みです。異議を唱えたところで何も変わってはくれません。わたしたちが世界の仕組みに沿うより他に方法はありません。

世界はわたしたちの心を読みます。「心」というよりも「本心」と言った方が適切かもしれません。いくら口先で感謝の言葉を唱えても、本心からの感謝でなければ何も変わりません。世界は口先の言葉ではなく、心の表層からの言葉でもなく、心の深層である本心からの言葉を読みます。そのために誤魔化しや嘘は通用しません。

本心の力や信じる力も見えないものです。本心と世界との繋がり、信じる力と現実化の関係。それは科学的根拠のないものです。それでも何もない訳ではありません。体験すれば分かります。科学的アプローチをする現代のアスリートでさえも、過酷なトレーニングを積んで試合に臨む際にはこう言います。「自分を信じて」。どんなに偉大な選手でもこの言葉を口にします。それが科学的根拠のないものであっても、その力を感じて知っているからです。

「見えないものは信じられない」「心の力は信じられない」「科学的根拠のないものは信じられない」。そう言う人が沢山います。その人たちは一方でこう言います。「誠意が感じられない」「意気込みが感じられない」「思いやりがない」。「あの人は薄情だ」「愛情が無くなった」「寂しい」「わたしを信じて欲しい」。わたしたちは心の力をちゃんと知っています。それが科学的根拠のないものでも信じています。

見えないものを信じられるかどうかが鍵です。それでも一度体験として知れば、それがいくら常識や科学を越えていてもわたしたちにとっての事実になります。体験や経験にはそれだけの力があります。

 

心の状態を負から正に変えるには、感謝

今の心の状態が負の状態にある時に、心の状態を正の状態に変えるにはどうすればいいのでしょう?格闘しなければならないような現実に直面した時に、わたしたちは負の感情に捕らわれます。一時的に捕らわれても、耽らないようにする必要があります。わたしたちと負の感情を意識的に切り離します。負の感情を離れた所から見ます。「ああ、わたしに負の感情が現れているな」「またわたしを苦しめようとしているのだな」。負の感情に対するその気づきが負の感情を小さくしてくれます。

それから現実をよく見ることも大切です。「何もいいことがない」と思える現実でも何か見つかります。自我のなすがままにしないことが重要です。自我は否定的傾向、消極的傾向、悲観的傾向そのものです。自我と同化したわたしたちはある物事を否定的に、消極的に、悲観的に見ます。否定的で消極的で悲観的な色を黒だとすれば、ある物事を黒一色に染めようとします。事実をできる限り偏りなく、ありのままによく見て下さい。いいこと、明るい要素が見つかります。見つかったことがどんなに小さなことでも事実として受け入れて下さい。自我と同化したわたしたちは明るいものを見ようとはしません。暗いものに引きつけられます。自我の好きなようにはさせずに明るいものも事実として見て下さい。受けている恵みや学びを事実として認めて下さい。自我と同化したわたしたちは足りないものばかり見ます。在るものには目もくれません。「こんなものは大したものではない」と勝手に判断をしないで下さい。受けている恵みや学びを事実として受け入れて下さい。小さなものかもしれません。それでもそこに感謝が生まれます。事実をありのままに見ることが習慣化すれば、受けている恵みや感謝できることの多さに気づきます。その気づきが習慣化すれば心の状態は変わります。穏やかさの中にある気持ちの高まり、悦びを感じられるようになるはずです。

 

意識のもたらす世界の凄さに改めて感心する

感謝することが難しければ感心することはどうでしょう?感心は感謝よりも強いものかもしれません。感心は驚きです。感心は感動ほど大きな驚きではありません。それでも日常で意図的に呼び起こすことができます。できるだけ意味や情報を与えずにあなたの世界をよく見て下さい。固定観念や常識、あなたの判断、解釈を極限まで減らして冷静に見て下さい。わたしたちは普段何かをすることに、何かを獲得することに意識が向いています。元々持っていたものに、意識そのものに意識が向くことはありません。世界がそこに存在して、わたしたちの意識がその世界を映し出すのか、わたしたちの意識がわたしたちの世界を創り出すのか、それはわたしたちには分かりません。なぜならわたしたちは自分の意識の外側に立つことができないからです。

いずれにせよそれはどちらでも構いません。あなたの意識がもたらす世界はよくできていませんか?あなたがどれだけ疲れていても、どれだけ体調不良でも、あなたの意識の世界は乱れもなく、欠落もなく、果てもないはずです。そこには完璧な世界が広がっているのではないでしょうか?「そう言えばよくできている」。そう思えないでしょうか?口に出す必要はありません。感謝も感心も本心からそう思えるかどうかです。

これからやって来る現実をよりよいものにしたいのであれば、自我がもたらす負の感情に捕らわれても、耽らないようにする必要があります。起こった出来事、実在する物事をできる限り偏りなく、ありのままによく見て下さい。どんなに小さなことでも受けている恵みや学びを事実として認めて下さい。そこに感謝が生まれます。

感謝することが難しければ、あなたの意識がもたらす世界をありのままによく見て下さい。普段は決して気にすることのない意識そのものに注意を払って下さい。「ヒトは最も神に似ている」と言われます。それはどういう意味でしょう?神に似ているというのは「完璧なところがある」という意味かもしれません。ヒトが持つ完璧なものとは何でしょうか?それは意識かもしれません。

 意識がもたらす世界で新しい命が生まれています。意識がもたらす世界にありとあらゆる命の営みがあります。意識がもたらす世界ですべてが変化しています。その変化は全体として見れば進化の中にあります。意識がもたらす世界で人智を超えたあらゆる法則が働いています。意識がもたらす世界で宇宙は拡がっています。

意識の凄さを実感した時に感心から来る驚きが生まれます。そこに穏やかさの中にある気持ちの高まり、悦びがあるはずです。その感情がこれから現れる現実に反映されます。これからやって来る現実は今から変えられます。今からしか変えられません。

 

わたしよりも信頼のできるものに委ねるということ 

今の心の状態がこれからやって来る現実に反映されることを知れば、今を大切にするようになります。実際に起きたことや実際に存在すること。つまり事実を重視して実在する世界に生きるようになると、頭の中の過去と未来は重要ではなくなります。わたしたちは今に生きるようになります。過去や未来、ここではないどこか、今の自分ではない他の誰かに向いていた意識が今ここという一点に集中するようになります。今ここという意識の空間を生きるようになれば人生がシンプルになります。心にゆとりが生まれます。

事実に沿った生き方は、「知らない。理解できない。把握できない。コントロールできない」という事実を認める生き方でもあります。幼い子は「わたしがやる!」と言って、できもしないことでも何でも自分でやりたがります。自我と同化したわたしも同じです。自分だけでやろうとします。それでもあまりにも巨大で圧倒的なものを前にした時にわたしは諦めます。諦めることを悲観したり、恥じたりすることもありません。もはや自分の力で何とかしようとは思いません。わたしはその状況に委ねることしかできなくなります。

存在としてのわたしたちはわたしたちの理解、意図、自覚を越えています。わたしは今どうやって生きているのか、今までどうやって生きて来たのか、それを説明することはできません。なぜ生きているのか、生命力とは何か、体の仕組みも心の仕組みも意識の仕組みも理解していません。把握していません。わたしはこの命をコントロールできていません。わたしはなぜか生きているのです。それが事実です。

わたしの人生は過去から未来へ進んで行きます。その中で様々な出来事が展開されます。瞬間、瞬間に出来事が起こります。誰かが現れて、何かが起こります。その具体的な出来事、現実はわたしが意図してもたらしたものではありません。なぜか現れた現実です。その出来事の展開、人生の流れ方はわたしの理解、意図、自覚を越えています。わたしはなぜか現れた現実から学び、成長します。

この世界では地球の内側でも外側でも様々なことが起きています。一瞬の停止も静止もなく、すべてが変化の中にあります。しかもその変化は全体として見れば進化の中にあります。すべてが生きています。わたしもその中を生きています。わたしは地球の内側で起きていることも外側で起きていることも把握していません。地球の外側のことなど理解することさえも不可能です。わたしの思考と感覚を完全に超越しています。それでもわたしの思考と感覚を遥かに越えた所で起きる変化、得体の知れない命の営みがあるために、この世界は今も存在し、わたしも生きていられます。

 

存在に生きれば気楽さが出て来る

 存在としてのわたしたちは人智を超えています。わたしたちの理解が追いつかなくても存在としてのわたしたちは理解しています。存在としてのわたしたちはいわば“全知全能”です。まだ科学では解明されていないこの宇宙の法則や仕組みを理解し、この世界にどう順応すればいいかを知っています。知っているだけではありません。まさに順応し、生きて、存在しています。

わたしたちは身近な既知の脅威に怯えます。それでも遠くにある未知の脅威には気づきもしません。理解と知覚が及ぶ範囲だけでこの世界が成り立ち、理解と知覚が及ぶ範囲だけで生きていると思えば、ヒトは深刻になります。それでも理解と知覚を越えた世界に存在し、わたしたちが人智を超えて存在していることを自覚すれば、気楽さが出て来ます。なぜなら人智を超えたことに深刻になっても仕方がないからです。わたしたちに起きる負の感情と思考に意識の重点を置くよりも、存在としてのわたしたちに意識の重点を置けば深刻さは薄れます。

わたしは自分の生きる体も心も意識もわたしの人生の流れも、進化するこの世界のことも理解できていません。それらはわたしの意図と自覚を越えています。それでもそれらはわたしを生かし、わたしを守り、わたしを成長させます。わたしがいくら負の感情に捕らわれて苦しんでいたとしても、わたしを生かし、わたしを守り、わたしを成長させます。それらはわたしの負の感情を越えています。

わたしたちを生かし、成長させるもの。世界を生かし、進化させるもの。それらはわたしたちの手には負えません。わたしたちを越えた、わたしたちの外側にある巨きなものがわたしたちを存在させます。わたしたちがわたしたちを存在させるのではありません。その事実を自覚できれば、わたしたちは自分たちを当てにするよりも、自分たちの外側にある巨きなものを当てにするようになります。自分たちを越えた外側の巨きなものを信頼し、委ねるようになります。信頼できるものに委ねることができた時に深刻さは薄れます。気楽さが出て来ます。

今の心の状態がこれからやって来る現実に反映されます。思い描いた現実を意図してもたらすことも不可能ではないかもしれません。それでも思い描いた人や状況を意図してもたらすことはなかなかできません。現実はわたしたちの意図を越えています。思い描いたことの背後にある感情はこれからやってくる現実に反映されます。わたしたちの今の心の状態にゆとりや気楽さがあれば、これからやって来る現実はその心の状態を反映したものになります。わたしたちは今、ゆとりや気楽さを感じて過ごせているだけではなく、この次もゆとりや気楽さを感じて過ごすことができるようになります。わたしたちの人生は以前よりもシンプルでスムーズになります。

 

 

行動と現実の関係

 

 

 

願望実現

今の心の状態がこれからやって来る現実に反映されます。具体的な現実、例えば思い描いた人や状況を意図してもたらすことはなかなかできません。それでは望みを叶えることはできないのでしょうか?望むものはまず求めなければ得られません。望むものが本心からの思いであれば現実化します。ただ望むだけではなかなか現実化しません。本心からの思いを行動に移すことで現実化は速まります。

 

最大限に尽くす時に物事は達成に向かう

最大限に尽くす時に物事は達成されます。その最大限には閃き、熟考、行動、できることのすべてが含まれます。今日も世界中の人々が仕事をします。それは一番難しい類の仕事です。なぜなら今日が進化するこの世界の一番先端にあるからです。経験したことのない仕事をします。望んで仕事をする人たちもいれば、望まない仕事をする人たちもいます。いずれにしても仕事は簡単ではありません。人々はベストを尽くします。仕事を前にして寝ていては何も進みません。ふざけてやっていても進みません。最大限に尽くす時に仕事は終わりに向かいます。途中でトラブルやアクシデントが続いても、最大限に尽くす時にどこかで収束します。世界中の人々がそれを証明しています。世界中の人々は今日も一番難しい仕事に向かいます。そして今日も一番難しい仕事を終えて帰ります。わたしはいつまで経っても帰られない人を見たことがありません。

 

 

世界はわたしに反応する

振り返って気づくことがあります。わたしの人生が大きく変化した時には共通点があります。それは行動した時です。誰かに思いを伝えることも行動です。思いを行動に移す時に人生は展開します。動き出すのはわたしだけではありません。現実世界も動き出します。本心から望んだことを達成しようとわたしが最大限に尽くします。すると現実世界も望みの現実化に向けて展開します。世界はわたしの状態に反応します。わたしの信念、感情、思考、行動に反応します。わたしの行動というサインが世界に伝わります。その時に世界は展開します。その展開はわたしの意図を越えています。わたしはどこに、どうやって運ばれているのか分かっていません。どこかに運ばれているという自覚さえもありません。展開の仕方は読めません。理解できません。それでもわたしが到着する最終地点はわたしが本心から望んだ場所です。「そう言えば望みが叶っている」と後になって思えるほど、わたしの自覚を越えています。寧ろ望んだことを忘れているくらいの方が現実化は進みます。「まだ現れないのか?」と執着するほど現実化は遅れます。

 

現実化の過程で

本心からの望みが現実化する過程で、望まないことや気の進まないことが起こります。その場合はどうすればいいのでしょう?望まないことや気の進まないことに取り組むとしても、“凌ぐ”やり方はよくありません。我慢して切り抜けるやり方は苦しみを生みます。その苦しみがまたこれからやって来る現実に反映されてしまいます。望みが現実化する過程で現れる望まないことや気の進まないこと。それらは望みが現実化するために必要なことです。「望まない」や「気の進まない」はわたしたちの判断や解釈、わたしたちの負の感情に過ぎません。望まないことや気の進まないことが現れても、「これは望みの現実化に必要なことである。望みの現実化は進んでいる。これでいい」と思って引き受けます。引き受けなければならない訳ではありません、引き受けようと思った時に引き受けます。そうすれば安心して現れた現実に没頭することができます。そうすることで望まないことや気の進まないことと同時に現れた負の感情も小さくなって行きます。

 

今やる、今なる

わたしたちは一気に、思い通りにやろうとします。わたしたちは実在しないものを見ます。実在しないものを想像通りに実在すると考えます。それはわたしたちに起きる思考の癖かもしれません。わたしたちは「たら」と言います。「たら」がその表れです。

「時間ができたら、お金ができたら、仕事が片付いたら、実力が付いたら、自信が付いたら、目処が立ったら」。わたしは自分が動き出すよりも先に自分や状況が変わるのを待ちます。自分の思うような自分や状況になってからやろうとします。

「たら」と言う時は比較的困難な時です。なぜなら不足している状態だからです。困難な状態から現実を変えるのは大変です。それでも変えるには実在する世界から、つまり今この瞬間からしか変えることはできません。今この瞬間に変わったことがどんなに小さなことでも、未来の今になります。完全でなくても構いません。後回しにせずに今やることが大切です。

わたしたちの負の感情や思考は当てにならないところがあります。「あれをするにはこれくらいかかる」「今更もう遅い」「策は尽きた。八方塞だ。もうダメだ」。わたしはこれらの感情と思考を事あるごとに体験します。それでも振り返れば事は過ぎています。現実はわたしのすることを越えています。「あれをするにはこれくらいかかる」「今更もう遅い」「策は尽きた。八方塞だ。もうダメだ」。わたしはそう思っていたことさえも忘れています。なりたい自分がいるなら、それが本心からの思いなら、自分の負の感情や思考を当てにはせず、なれる範囲のなりたい自分に今なることが大切です。今この瞬間になったなりたい自分、その分だけ未来の自分はなりたい自分になっています。

 

思い通りでなくても構わない、分析すること、計画すること

「思い通りでなくても構わない」と思えることは重要です。現実はわたしたちの思い通りには行きません。それでもわたしたちは生かされ、守られ、成長します。唯一無二のわたしたちとして存在します。わたしたちはわたしたちの思いを越えて生きています。わたしたちを生かし、存在させているものに比べれば、わたしたちの負の感情も思考も当てにはなりません。

それでは分析も計画もせずに、何も考えずに生きればいいのでしょうか?極論はするほどの価値がありません。分析も計画も大切です。最大限に尽くす時に物事は達成に向かいます。その最大限にはわたしたちの分析も計画も含みます。わたしたちが何かを達成する時に考えや計画は必要です。それよりも重要なことは「考えた通りでなくても構わない。計画倒れでも構わない。思い通りでなくても構わない」ということです。「思い通りに行かなかった。うまく行かなかった」と解釈して止めてしまってはそこで終わりです。わたしたちの判断、解釈、考えは当てになりません。現実はわたしたちの思い通りを越えています。思い通りではなくても現実化のためにはやり続ける必要があります。現実化に向けての展開はわたしたちには分からなくても始まり、進んでいます。

 

わたしを越える

自我には思い通りにしたい性質があります。自我と同化したわたしたちは思い通りにしようとします。思い通りでなければ気が済みません。それでも現実はわたしたちの思いを越えています。その時に「わたしの思い通りではない」と苛立ったり、やる気をなくしてしまったり、「本当に望みの現実化は進んでいるのか?」と疑いの気持ちに囚われていては、またその負の感情を抱かなければならないような現実が現れます。本心からの望みの現実化には「思い通りでなくても構わない」と思えるかどうかが重要です。

「思い通りでなくても恵みを感じる。思い通りでなくても感謝できることがある。思い通りでなくても体を持っている。思い通りでなくても心を持っている。思い通りでなくても意識を持っている。思い通りでなくても生きている。存在するにはあまりにも過酷なはずの宇宙になぜか存在している。思い通りでなくても何となく嬉しい。思い通りでなくても何となく楽しい。思い通りでなくても何となく幸せを感じる」。そう思えるかどうかが重要です。

思い通りに拘れば、思い通りのものしか受け取ることはできません。思い通りのものでなければ、やって来た恵みを恵みと認識することもできません。思い通りに拘らなければ、やって来たものを恵みとして受け取ることができます。思い通りに拘れば人生の幅も可能性も狭くしてしまいます。

「思い通りでなくても構わない」というのはわたしを当てにするのではなく、わたしの思いを越えてわたしを生かし、成長させ、わたしを唯一無二のわたしにしているものを当てにして、委ねるということです。それはわたしがわたしでありながら、「わたしを越える」ということかもしれません。

 

記録する

本心からの望みが現実化する過程で望まない現実が現れた時に、「この現実は過去のわたしの心の状態が反映されたものである」。そう自覚できるかどうかも大切な点です。そのためには記録することをお勧めします。例えば「今日は負の感情に囚われ過ぎずに割と穏やかな気持ちで過ごせた」と記録します。そうすれば現実と過去の自分の心の状態の関係性を客観視することができます。そして必要以上に望まない現実と格闘せずに済みます。

 

信念

 

 

 

本心

世界はわたしたちに反応します。そのことを体験として知れば、わたしたちの意識は外側ではなく、自分に向かいます。わたしたちは自分の持っている価値観、広い意味での信念の世界を生きています。わたしたちは信念を通して世界と接しています。信念はわたしたちと世界との間にあるフィルターのようなものです。そのフィルターがたとえあなた以外の誰かにとって素晴らしいものであっても、たとえ常識的なものであっても、あなたに調和しないものであれば、あなたにもたらされる世界はあなたに調和しないものになります。

わたしたちは自分に調和しない固定観念や思い込み、言い換えれば悪い意味での信念を無自覚に持っているものです。自分の本心はよほど自分と向き合わない限りは分かりません。わたしたちが日常的に自覚しているのは心の表層です。心の深層である本心を自覚するのは容易いことではありません。それはわたしたちの意識には上りにくい、自覚を越えた深層意識だからです。

わたしには誰かの持ち物が羨ましく見えます。例えば収入、休日、家、恋人、友人、伴侶、家族です。羨ましく思っているのは自覚しているわたしです。それはわたしが心の表層で思っていることです。いざ手に入るチャンスが訪れた時に一瞬躊躇するわたしがそこにいます。それはなぜでしょう?あれほど欲しがっていたはずのわたしです。本心のわたしは誰かの持ち物や一般的なものや誰かの理想像、それらを欲しがってはいませんでした。わたしはその時になるまで自分の本心に気づくことができません。自分の本心というのはそれほど分かりにくいものです。それでも本心を自覚することは不可能ではありません。自分と向き合い、心の奥深くに入って行けば知ることができます。

 

気づきの力、腑に落ちる

無自覚に持ち続けていた固定観念や思い込み、言い換えれば悪い意味での信念に対する気づきは、わたしたちと世界との間にあるフィルターを変えます。「腑に落ちる」「得心する」、その頭で理解するだけではない、本心からの気づきには現実を変える力があります。持っていた固定観念や思い込みを新たなものに取り換える必要はありません。気づきそのものが固定観念を固定観念でなくしてしまいます。気づきそのものが思い込みを思い込みでなくしてしまいます。気づいた瞬間からわたしたちの世界は変わります。後戻りをすることはありません。

自分の本心と向き合うこと、無自覚に持ち続けていた固定観念や思い込みに気づくこと、それらは最も創造的なことです。本心で持ち続けていた信念が変わることでわたしたちの現実世界は変わります。

 

自分に調和した世界を生きる

わたしたちは「唯一無二の存在である。多様である」という事実を見ませんでした。「みんなが同じである」という事実ではないものを見て来ました。それを社会の礎にして来ました。こういう言葉を耳にします。「これからは個性の時代。個性を大切に」。まだ前提にあるのは「みんなは同じ」という考えです。「個の存在である」という事実を自覚できていません。「個」に「性」をつけることで事実はぼやけてしまいます。他人の価値観、他人の信念がわたしたちに調和する訳がありません。わたしたちは自分に調和した信念を持たなければ、唯一無二のわたしたちを生きることはできません。わたしたちがありのままの心で生きることができれば、わたしたちの信念もまた自分に調和したものになって行きます。わたしたちは自分に調和した信念の世界を生きるようになります。

 

 

⑤天職 使命 

 

 

 

一番やりたいことではない場合もある

ありのままの自分を生きているうちに、言い換えれば穏やかさの中にある気持ちの高まり、悦びを追求して生きているうちに、天職や使命と呼ばれる仕事に出会う人もいるかもしれません。天職や使命と呼ばれる仕事は本心からする仕事です。その仕事がすでに世の中で確立されているものとは限りません。お金の発生するものとも限りません。「我を忘れて没頭できること。なぜかあまり労せずにできてしまうこと。それをしていて悪い気がしないこと。ありのままのあなたでできてしまうこと」。それが天職や使命です。天職や使命は自分の持っている自然傾向に沿った仕事です。それは必ずしも一番やりたいことではありません。やりたいことは心の表層で思っていることです。それは自覚している部分です。心の深層である本心はなかなか自覚できません。やりたいと思っていることと本心から欲していることは違う場合があります。始めはやりたいことではなくてもやり進めるうちに、「これが本心から求めていたことだ」と気づくこともあります。

わたしの場合は何かを敢えて身に付ける必要はなかったようです。人生を通して無自覚に学び、無自覚に得たものを言葉にすることでした。天職や使命は敢えて自分ではない他の誰かになることではないのかもしれません。わたしたちが唯一無二の自分でいる時に果たされる仕事かもしれません。

 

世界が応援してくれる生き方

この世界には不思議な力があります。世界が応援してくれる生き方があります。それはお金、地位、名誉といった物質を重視する生き方ではありません。他人や社会が求める理想像、価値観、あるべき姿。普通、平均、一般、標準、時代の流行り廃り。他人からどう見られるか、格好がつくか、自分ではない外側を軸にした生き方。自分ではない他の誰かになろうとする生き方でもありません。奉仕する生き方です。自分や誰かのためになる、人類や世界のためになる生き方です。それをする時に世界は応援してくれます。

わたしも不思議な体験をしました。わたしがこの文章を書いていた時です。わたしは文章を書くような時間的、精神的、経済的余裕のある暮らしではありませんでした。それでもこの文章を書き始めると不思議なことに纏まった時間ができるようになりました。わたしがこの文章を書く上で邪魔になることを取り除いてくれたり、わたしをサポートしてくれたりしました。それでもわたしが疲れてしまったり、心を弱くしてしまったりした時には、数字の羅列や目の隅を流れる光、形になりきらない形でわたしにメッセージを伝えてくれたり、励ましてくれたりしました。わたしの進む道を形に見えない形で示し、導いてくれました。

わたしは人生を通して本心のわたし、ありのままのわたしを知ろうとして来たのかもしれません。それは知ることよりも寧ろ思い出しに近いことかもしれません。わたしには良心があります。それは生まれながらに持っていたものです。本心のわたし、ありのままのわたしとは、良心から生きるわたしのことかもしれません。

この世界はコントラストでできていると言われます。人は対照的な一方を知ることで初めてその反対側を知るのかもしれません。例えば反抗期に手に負えなかった青年が立派な大人になります。人は暴力や暗いものに魅せられる時期があっても、「このままではいけない」とやがては立ち直り、光を求めて歩み始めます。現実に打ちのめされて絶望し、永い間うずくまったままでいても、やがては立ち上がり、光を求めてまた歩み始めます。口先で「暴力がなくなることはない」と言っても、本心では平和を求めています。

わたしたちは光のある方へ、愛のある方へ向かいます。それはわたしたちが元々光そのもので、愛そのものだからかもしれません。本心からの望み、それは言い換えれば光と愛からの望み、良心からの望みかもしれません。それを行動に移す時に世界は後押しをしてくれます。

 

わたしを唯一無二のわたしにしたのは誰か

天職や使命は特別な仕事ではないのかもしれません。わたしたちが唯一無二のわたしたちであること。そのこと自体がわたしたちの天職であり、使命かもしれません。

わたしを唯一無二のわたしにしたのは誰でしょう?わたしではありません。両親でもありません。誰がわたしを他でもないこのわたしにしたのでしょう?考えてみれば不思議なものです。同じ人が何人かいても構いません。それでも同じ人はいません。「唯一無二である」ということは、わたしを唯一無二のわたしにしたものから、わたしに与えられた仕事かもしれません。「唯一無二のわたしを生きる。違いを持ったわたしを生きる。わたしに備わった自然傾向に沿って生きる」。そのこと自体が仕事です。「仕事」というのはその字の通り、「仕え事」です。お金を稼ぐだけの労働ではありません。わたしが唯一無二のわたしに仕えます。わたしたちが唯一無二のわたしたちに没頭し、専念します。その時にわたしたちを唯一無二のわたしたちにしたものの意図は果たされます。

 

自覚を越えた集合意識を生きる

わたしには自我があります。そのためにわたしは「自分でしている。自分でコントロールしている」「これはわたしの人生で、わたしの人生を生きている」、そう思っています。わたしたちには自由意志があります。自由意志からの人生があります。それはわたしたちの自覚している生き方です。それとは別にわたしたちの自覚を越えた生き方があるのかもしれません。それはわたしを構成する数十兆の細胞がそれぞれを生きていながら、同時に全体としての「わたし」という一つの意識を生きていることと同じです。わたしたちはそれぞれがそれぞれの日常に追われ、それぞれの幸せを追求して生きています。それと同時に自覚を越えた集合意識、全体を生きているのかもしれません。なぜならわたしたちは一見バラバラでありながら、全体は統一的なある方向性を示しているからです。例えばそれが進化という一つの方向性です。

わたしたちに自覚を越えた全体を理解することはできません。それでも意識的にその全体に参加することはできます。わたしたち一人一人がそれぞれに与えられた自然傾向に沿って生きること。それぞれが唯一無二の自分を生かしながら、成長し、創造的に生きること。それがわたしたちの自覚を越えた、全体に対する、この世界に対する仕え事の一つかもしれません。この世界は創造の力そのもの、進化そのものです。その世界の自然傾向に沿ってわたしたちが生きる時に、この世界の意志とわたしたちの意志は一つになります。

 

わたしはわたしのものか、背後にあるもの

全体を把握することはできません。それは人智を超えています。その全体をどう表現すればいいかも分かりません。それでもわたしたちを越えたわたしたちの背後にあるものが、わたしたちを唯一無二のわたしたちにし、わたしたちを生かし、成長させます。わたしたちの背後にあるものが世界を生み出し、世界を生かし、世界を進化させ、今も世界を拡げています。わたしたちの背後にあるものはわたしたちには見えません。それでも何もない訳ではありません。わたしたちには見えないだけです。

わたしたちを生かすものがわたしたちを通して生きています。経験します。わたしたちを使って仕事をします。形のあるこの現実世界に形のあるわたしたちを使って、形をもたらします。

わたしたちの心、体、わたしたち自身は誰のものでしょうか?わたしたちだけのものでしょうか?それをどう表現すればいいかは分かりません。言葉はそれを指す仮のものです。言葉や名前に拘る必要はないのかもしれません。わたしたちを生かし、成長させ、わたしたちを唯一無二のわたしたちにしているもの。わたしたちの背後にあるもの。目には映らないエネルギー、命、神、全体、世界。わたしたちはわたしたちのものであると同時に全体のもの、世界のものです。わたしたちは自我と自由意志があるために、世界の側から見れば暴走して来たのかもしれません。ようやく今が世界と調和して、一つになる時です。

 

 

⑤繋がりを思い出す 

 

自立しながら繋がり合う個人

「みんなが同じで、同じ空間で同じ物を食べ、同じことをし、同じ悦びを分かち合う」。共有することは大切です。それも大きな悦びや学びのうちの一つです。それでもそれを人生や世の中の中心に据える考え方があるとすれば、それは自我から来る利己的な考え方かもしれません。それは幻想のようなものです。

自我は切り離せないものからわたしたちを切り離します。実際に切り離す訳ではありません。意識の上で切り離します。自我と同化したわたしは孤独でした。それでもそれは孤独感です。孤独でいることは不可能です。繋がりなしに生きることはできません。「わたしたちは唯一無二の存在である。多様である」。その事実に沿った生き方は孤独を感じるかもしれません。なぜならそれは個人が個人の信念を生きる世界だからです。「夫がああ言ったから」「親がああ言ったから」「著名な誰かがああ言ったから」。それは通用しません。自分を悦ばせることができるのは自分だけです。他人に悦ばせてもらおうと期待しても無駄です。一人一人が精神的自立を求められます。それでも繋がりを断つことはできません。それぞれが個人を生きることを生活の中心としながらも、共有するところは共有する生き方です。

わたしたちは繋がりながらもそれぞれが唯一無二のわたしたちを生かします。わたしたちは多様でありながら成長します。多様で高度に発達したものがわたしたちの手からもたらされます。世界は多様でありながら、創造性が飛躍します。わたしたちはパズルのピースです。世界は一枚のパズルの絵画です。わたしたちが輝けば世界も輝きます。

 

形に見えないものとの繋がり  

心と現実の関係、行動と現実の関係を体験的に知ると、わたしたちと世界との繋がりを知るようになります。それは目には映らない、形に見えない繋がりです。それでも確かに存在する繋がりです。

自我が薄くなれば繋がりを知るようになります。「繋がりを知る」と言うよりは、「思い出す」と言った方が適切かもしれません。自我と同化したわたしたちは繋がりに気づけなかっただけです。形に見えないものとの繋がりは世界との繋がりだけではありません。その繋がり方も人によって様々です。例えば見えなかったものが見えるようになる人がいます。見るものは目の隅を流れる光かもしれません。空を飛ぶ不思議なものかもしれません。今まで見えなったものはこの現実世界とは別の世界の存在を教えてくれます。形に見えない現実世界とは別の世界がこの現実世界を支えているように感じる人もいます。

 

全身全霊

言葉はそれを指す仮のものです。曖昧で幅のあるものです。言葉や言葉の持つイメージが固定化されると実態からかけ離れてしまいます。これはわたしの体験です。わたしにとっての事実です。魂や霊という言葉を聞いたことがあるかもしれません。あれは一般的なイメージや概念とは異なります。魂や霊は目に映らないもの、目に映らないエネルギー、目に映らない命、そのくらいの意味で捉えた方が適当かもしれません。

自我が薄くなれば気づかなかった繋がりを感じるようになります。例えば目の隅を流れる光を頻繁に見るようになります。その光はわたしに優しく接します。わたしを勇気付け、励ましてくれるようです。それはまるであの擬人化された天使のようです。

光とは別に導きを感じるようにもなります。その導きは度々現れるものではありません。日常に広く深く関わるようになります。その導きはわたしに直接的な言葉で語りかけてはくれません。それは直感的なサインとしてわたしにやって来たり、あらゆる形を使ってわたしに何かを伝えたりします。例えば閃きや直感としてわたしにアイデアを与えます。インターネット上のホームページやブログ、目に入る数字の羅列や耳鳴り、わたし以外の誰かと誰かの会話、テレビやラジオから流れるフレーズ、立て看板や広告の文字を使ってわたしにメッセージを伝えます。導きはそれ自体では形に見えません。それでも世界全体からやって来るような感覚があります。

その導きは時にわたしに対して強烈なプレッシャーを与えます。それはわたしにとってはとても厳しいものです。その時のわたしにはそのプレッシャーの意味が分かりません。「なぜわたしにそれをするのか?」と反論したい気持ちになります。それでも後になればわたしのためになっていたことに気づきます。わたしはその導きが誰よりもわたしを知っていることに気づきます。その導きはわたしの一挙手一投足、わたしの思考と感情を見ています。わたしがいつどこへ行くかも知っています。わたしはその目に映らない命がわたしよりもわたしであることに気づきます。ありのままの心から離れた時に起きた良からぬこと、「ありのままの心に戻りなさい」というあのサインをくれたのも、その目に映らないわたしだったのかもしれません。

自我が薄くなれば目に映らないわたしと生きるようになります。それまで一人で生きていた感覚が、共同で生きるような感覚になります。一般的に言われる「あの世とこの世」についての話や「人は亡くなると魂になってあの世に昇る」と言われる話。それらはわたしの体験とは異なります。これはわたしの解釈です。「全身全霊」という言葉そのものがわたしの仕組みを表しているのかもしれません。わたしは現実世界のこの世に肉体を持って生きています。それと同時に形に見えない世界、敢えて言えばあの世に形に見えない形、敢えて言えば魂や霊として生きています。そして肉体としてのわたしと魂や霊としてのわたしは繋がっています。肉体としてのわたしは魂や霊としてのわたしなしには生きることさえできません。肉体としてのわたしは無自覚のうちに、魂や霊としてのわたしから様々な情報を得ます。自我がその繋がりを意識の上で遮断していたに過ぎません。わたしはこれまで気づけなかっただけです。わたしは亡くなってから魂や霊になる訳ではありません。魂や霊は尽きるものでも、果てるものでもありません。魂や霊としてのわたしは生まれも死にもしない、永遠の存在かもしれません。

 

 

形の背後にあるものに気づけるか、学びの場

目に映らない命は形を通してわたしに伝えます。形のあるものなら何でも使います。文字でも数字でも、インターネットでもテレビでも、人でも現象でもあらゆるものを使います。わたしへのメッセージは形を通してどこからでもやって来ます。それでもわたしは表面的な形や常識に囚われます。形の持つ名前や信憑性といった情報に拘ります。わたしは「権威の発言だから、年長者の意見だから、誰かの発言だから信用できる」と考えます。形に囚われているうちは本質が見えません。その形のあるものを使っている、形のあるものの背後にあるものを感じ取る必要があります。それができれば、鳥や虫、花や子どもたち、常識では考えられない宇宙存在や超常現象からも学びます。寧ろそれらが重要なことを教えてくれます。常識を越えたところに重要な情報があるものです。隠されることもなく堂々と置かれています。それがこの世界の面白いところです。この世界のユーモアを感じます。

表面的な形や常識に囚われることがなくなれば、わたしに現れた出来事の意味が変わります。すべての出来事にわたしにとっての意味があることを知ります。仕事も結婚も表面的なものかもしれません。その背後にある精神的な学びがわたしの求めていたものかもしれません。学びの場は深い山の奥や立派な建物の中にあるとは限りません。日常全体にあるのかもしれません。人生全体が目に映らない命、魂としてのわたしから与えられた学びの場かもしれません。人生全体が魂としてのわたしの導きかもしれません。人生全体がわたしの教育者です。わたしたちは何かを学ぶために、ありのままのわたしたちを思い出すために、一時的にこの現実世界にやって来ているのかもしれません。

 

小さなミス、今ここへの微かなサイン

わたしはせっかちです。わたしの意識は今ここにはなく、先にあります。「先」と言ってもそれはわたしの空想です。実在するものではありません。わたしが焦ると今ここにある体もつられます。わたしはその時に必ず小さなミスをします。それは些細なことです。何かをこぼしたり、どこかにつまずいたり、何かをし損ないます。意識が今ここになくても、致命的なことにはなりません。それでも物事はスムーズに行きません。意識が今ここにないことを小さなミスは教えてくれます。意識が今ここにある時にどうして物事はスムーズに行くのでしょう?小さなミスはどうして「今ここにあれ」と教えるのでしょう?それは今ここという意識の空間に今の常識や科学では測れない、重大な秘密が隠れているからかもしれません。「隠れている」と言っても、世界がそれを隠している訳ではありません。わたしたちの自我が実在するものに覆いをかけて見えなくし、鍵を掛けているに過ぎません。

 

創造性の源泉と繋がる

自我が薄くなれば不思議な現象が起きることがあります。シンクロニシティと呼ばれる現象やゾロ目、意味を感じさせる数字の羅列を頻繁に見るようになるかもしれません。今まで見聞きしていた言葉が違った意味に感じられることもあります。例えば「自分が変われば相手も変わる」という毎日見ていた立て看板の言葉、人権啓発の標語が違った意味を持つようになります。

時間の感覚が今までと違って感じられるかもしれません。過去の出来事に対する解釈が塗り替わって行くのを感じます。自分が誤解や勘違いの中に生きていたことに気づきます。それは今を起点に過去が変わるようなものです。

鳥や虫、花や草木、空、星や月や太陽、わたしたちの手からもたらされた人工物、それらが鮮明に生き生きと感じられるようになるかもしれません。その時に自我があなたにヴェールを掛けていたことに気づきます。

できなかったことができるようになるかもしれません。物事がスムーズに運ぶようになるかもしれません。創造的なアイデアが閃きとして頻繁にやって来るようになるかもしれません。閃きや直感の重要性を認識するようになるかもしれません。今まで知らなかった自分を生きているかもしれません。それでもそれは元々持っていたものです。自然から与えられた固有の部分が、唯一無二の部分が引き出されて、伸ばされるのを感じるかもしれません。今ここに意識が繋がることで創造性が飛躍するように感じられるかもしれません。

今ここには特別な力があるようです。それは限界を知らない、湧き上がる創造のエネルギーです。今ここからすべてが生まれます。今ここから世界が拡がります。今ここは命の源泉、創造性の源泉です。わたしたちは今までも今ここにいました。それでもそこにはわたしたちの体しかありませんでした。わたしたちの意識は今ここではない過去と未来に、ここではないどこかに、今のわたしたちではない他の誰かに向いていました。自我が薄くなることで今ここではないどこかに向いていた意識が、今ここにある体と繋がります。その時に扉は開きます。自我がわたしたちに鍵を掛けていたことに気づきます。扉の向こうには初めて見る見馴れた景色が拡がります。わたしたちが元々いた今ここという場所、わたしたちの足元には創造性の世界が広がっていたようです。

 

 

⑥今が進化の時

 

 

 

礎が替わる時

自我を持ったわたしたちは、頼りになるものがすぐそこにあるにもかかわらず、自分の力だけでやろうとして来たのかもしれません。わたしたちを生み出し、生かし、成長させるもの。わたしたちに違いを与え、唯一無二の存在にしているもの。わたしたちはそれとの繋がりを意識の上で断ち切り、自我を礎にして文化や文明を築き上げて来たのかもしれません。

「意識が繋がるだけで一体何が変わるのか?」。そう思われるかもしれません。わたしたちが自らのうちにある自我の存在に気づくことで、自我は力を失って行きます。その時に心の苦しみは小さくなって行きます。自我が薄くなれば意識は繋がります。事実や実在する物事が見えるようになります。

ヒトだけが例外ではないことを、ヒトもヒト以外の動物たちと同じ自然のサイクルの中に存在していることを自覚するようになります。自覚を越えてそのサイクルを構成する一員になっていたことに気づくようになります。

わたしたちよりも頼りになるもの、つまり人智を超えてわたしたちを生み出し、生かし、成長させ、わたしたちを唯一無二のわたしたちにしているもの、命、自然、宇宙、世界との繋がりを自覚するようになります。

自我が薄くなれば理解することに固執しなくなります。分からないことは分からなくても構わないことを自覚するようになります。分からなくても感じることができれば変化します。意識の繋がりが創造性を高めてくれることを知ります。もたらされる創造性の豊かさに驚くはずです。閃きや直感が冴えるようになります。目に映らないものに導かれるようになります。導きは日常的に積極的にわたしたちに関わるようになります。その目に映らないものがわたしたちよりもわたしたちであることに気づきます。それが先人たちの伝えて来た魂や霊的なものを指していたことに気づきます。それと同時に世の中に広まっている魂や霊的なものに対するイメージ、概念が実際に感じているものとは異なっていることにも気づきます。今までの文化や文明が自我を礎にしたものであったことに気づきます。

自我を礎にしていては、自然の持つ別の側面も、この世界の実態も、わたしたち自身の実態も知ることはできません。自我を礎にしていてはこの世界の創造性の力を受け取ることはできません。創造性の飛躍も見込めません。わたしたちよりも頼りになるもの、それとの繋がりを礎にした時に自我を礎にして来た文化や文明も昇華されるはずです。

この世界はわたしたちが自身の自我を乗り越え、わたしたちの意識と繋がる時を待っています。唯一無二のわたしたちが唯一無二のわたしたちに戻り、唯一無二のわたしたちが唯一無二のわたしたちを生きて、最大限に活躍する世界、多様でありながら創造性の豊かな世界になる。その時を待っています。なぜならこの世界は創造の力そのもの、進化そのものだからです。

 

 

 

 

おわりに

 

 

人事を尽くして天命を待つ

最後にもう一度簡単に振り返りたいと思います。唯一無二の自分を生きるにはどうすればいいのでしょう?わたしたちにできることは何でしょう?

それはわたしたちの中に自分を不幸にする自我があることを、自覚しておくことです。そして自我のなすがままにしないことです。負の感情や思考が現れてもなすがままに同調しない、空想の世界に引き込まれても、自分を堕落させるような空想にいつまでも耽らないことです。

自分の判断、思考に執着しないことです。言い換えれば、「思い通りでなくても構わない」と思えるようになることです。

思い通りでなくても悦びを感じられるようになることです。

思い通りに拘らなければ、実在する物事を固定観念や常識をできる限り入れずにありのままに見ることができれば、事実をありのままに受け入れることができれば、受けている恵みや学びに気づきます。そこに感謝が生まれます。

悦びを追求して生きることです。当てにできる感情は悦びの感情だけです。悦びはわたしたちに備わった自然傾向を表しています。悦びを追求しているうちにわたしたちの信念と思考はわたしたちに調和したものになって行きます。自然に唯一無二の自分が強調されて行きます。

自分の本心と向き合い、本心から自分が求めていることを自覚することです。

最大限に尽くす時に物事は達成に向かいます。わたしたちが悦びを追求する場所、本心からの要求に対して尽くす場所、意識の置き場所は今です。計画をしたり、予定を立てたり、理想を掲げたりするとしても、今ここに意識の重点を置く必要があります。

最大限に尽くした後はわたしたちよりも頼りになるものに任せます。思い通りになるかどうか、そのことに執着せずに信じることです。それがわたしたちにできることです。

 

元いた場所に帰る

わたしは遠回りをして来たのかもしれません。それでもわたしの理解、意図、自覚は当てになりません。わたしには遠回りに思えるだけかもしれません。わたしは元いた場所に帰ろうとしているのかもしれません。それでも実際に帰る訳ではありません。意識の上で帰ります。わたしはありのままのわたしに、わたしにはじめから備わっていた自然傾向に、わたしにはじめから備わっていた心の力に、わたしがはじめからいた今ここという場所に、わたしがはじめからいた自然に、宇宙に、世界に、肉体を持ったわたしが忘れていたわたしに帰ろうとしているのかもしれません。