事実の力 実在する力 

心の苦しみから抜け出してわたしを生きる    Taro

1章 心の苦しみから抜け出す2

2わたしを苦しめるワタシ 

 

自我

「自我が強い。自我が弱い。自我が薄い」。こういう言葉を聞いたことがあるかもしれません。それらの言葉は何を意味するのでしょう?「わたし」という自己意識が強い、弱い、薄いということではありません。自己意識は強くなったり、弱くなったり、薄くなったりするものではありません。一定のものです。ただ他者ではない「わたし」という意識と認識があるだけです。「自我が強い。自我が弱い。自我が薄い」というのは、「わたし」という単なる自己意識を越えた、特有の性質を持った自我が強い、弱い、薄いということです。

それでは「自我からの目覚め」とはどういうことでしょう?それは「わたし」という単なる自己意識を越えた、特有の性質を持った自我に気づくということです。わたしは今まで自分と思っていたものだけが自分ではないことに気づきます。今まで自分と思って来たものに苦しめられ、自分を乗っ取られて生きて来たことに気づきます。それが自我からの目覚めです。自我から目覚めたわたしは単なる自己意識としての自我を持ちながらも、特有の性質を持った自我とたやすく同調したり、同化したりしなくなります。わたしはわたしでありながらわたしの中にある、特有の性質を持った自我と適度な距離を取るようになります。

「自我」という言葉が分かりにくいのは、「わたし」という単なる自己意識としての自我と、単なる自己意識を越えた特有の性質を持った自我という、異なった二つの意味を持っているからです。

 

自分が何かに乗っ取られていると思えるか

ヒトは2、3歳頃から自我が芽生えると言います。「わたし」という単なる自己意識を持つようになるだけではありません。同時に特有の性質も併せ持つようになります。自我が芽生えてから自我からの目覚めを経験するまでの間、わたしは特有の性質を持った自我を生きることになります。それはわたしと特有の性質を持った自我が一体化したような状態です。別の言い方をすれば、わたしは特有の性質を持った自我に自分を乗っ取られているような状態です。生まれて間もなく自分を乗っ取られてしまいます。そのために自分が何かに乗っ取られているとは思いもしません。わたしが初めて特有の性質を持った自我に気づくのは、自我からの目覚めを経験する時です。

 

自己意識と自我

わたしには「わたし」という自己意識、自我があります。自我には単なる自己意識を越えた特有の性質があります。その性質はわたしにとってはあまりいいものではありません。わたしを不幸にするようなものです。その性質はわたしが同調することでわたしの中でより強化されて行きます。その性質がわたしそのものになったかのように、その性質とわたしが同化したようになって行きます。

「自我特有の性質がわたしを不幸にする」「自我特有の性質はわたしが同調することでわたしの中でより強化されて行く」。この言い回しは少し奇妙に感じられるかもしれません。わたしを不幸にするものがわたしの中にあります。わたしにはわたしとわたしを不幸にするわたしがいるのでしょうか?わたしには2つの自我があるのでしょうか?明確に分けることはできないかもしれません。それでも敢えて2つの自我に分けるとすれば、単なる自己意識としての自我と、単なる自己意識を越えた特有の性質を持った自我に分けることができます。

異なった二つの意味を持つ「自我」という言葉を、ここでは混同しないために表現方法を二つに分けます。「わたし」という単なる自己意識としての自我を「自己意識」、単なる自己意識を越えた特有の性質を持った自我を「自我」と表現して、統一します。

 

否定的傾向、消極的傾向、悲観的傾向そのもの

自我は総じてわたしを不幸にするようなものです。それでもその“やり方”や“形”は異なります。それは主に4つに大別できます。1つ目は自我の基本的な性質である、わたしを苦しめるということです。

自我はわたしの中でどこまでも大きくなります。どこまでもわたしを苦しめます。自我はわたしに負の感情が起きるようなことを見せます。わたしに負の感情が起きるように仕向けます。わたしを負の感情に繋ぎ止めようとします。この性質を持った自我は否定的傾向、消極的傾向、悲観的傾向そのものと言えます。

わたしには肯定的で、積極的で、楽観的なわたしがいます。自分や他人の幸せを願い、創造的であろうとします。その一方で、苦しみや暗いものに引きつけられるわたしもいます。自分を大切にしたいと思うわたしがいる一方で自分を見捨てようとするわたしもいます。自我と同化したわたしはある物事を否定的に、消極的に、悲観的に見ます。否定的で消極的で悲観的な色を黒だとすれば、ある物事を黒一色に染めようとします。物事にはその解釈の仕方で、良い面と悪い面があります。一見状況や状態が悪いと思えることでも“収穫”と言えるような明るい要素はあるものです。それでも自我と同化したわたしは悪い面や暗い面だけを大袈裟に強調しようとします。物事を深刻にしようとします。目先の事柄で良くないことがいくつかあっただけでも、「何もかもが全部ダメだ」というような言い方をします。

自我と同化したわたしは否定的で、消極的で、悲観的な物事に引きつけられます。かつてと違いテレビのチャンネル数は格段に増えました。スポーツ、芸能、映画、音楽、国内外の情報、歴史や文化、この世界には楽しいことや美しい物事が沢山あります。それでも自我と同化したわたしにはそういう物事が見えません。世の中の深刻な部分、社会の歪み、有名人のスキャンダル、不安を煽るような暗い情報に引きつけられます。自ら意識の焦点をそれらに合わせます。そして四六時中ぼやいたり、嘆いたり、腹を立てたりして過ごします。わたしには自由意志があります。怒りに囚われたその状態を抜け出すこともできます。それでもわたしはそこに留まり続けます。文句を言いながらもわたしはチャンネルを変えたり、テレビを消したりすることがなかなかできません。わたしは怒りの感情に繋ぎ止められてしまいます。

自我と同化したわたしは他人や社会に対して批判的で冷笑的です。褒めたり、感心したりすることはあまりありません。わたしはリラックスをしたり、笑みを浮かべたりすることもあまりありません。笑うことや楽しむことに対してどこか否定的です。体の具合が悪い訳ではありません。それでも険しい顔ばかりして過ごします。大らかさがありません。わたしの姿は神経質で縮こまったように緊張しています。

自我がもたらす負の感情になすがままにしているとわたしは負の感情に同調しやすくなってしまいます。最後には負の感情と同化したようになってしまいます。自我がもたらす負の感情は様々です。わたしはその様々なマイナス傾向を示すようになります。怒りっぽくなります。心配性になります。過去のことや失った物事に執着して心を弱くします。それらがわたしの性格や人格の一部になってしまうほどです。わたしは乗っ取られてしまいます。自我がわたし自身になってしまいます。わたしは無自覚のうちに自我がもたらす苦しみを引き受けるようになります。わたしは無自覚のうちに不幸になって行きます。

 

当人も周囲も誰もこの事態に気づけない 外的要因ではない

自我と同化したわたしは自我がもたらす負の感情に無抵抗のまま囚われます。例えば自我がもたらす負の感情には怒りがあります。怒りに同調したわたしは怒りに取り憑かれたようになります。わたしは物を破壊し、自分を傷つけます。他人に危害を加え、人間関係を崩壊させます。わたしには、「自分が自分にとっても、周りの人たちにとっても悪いことをしている」「わたしは自分をダメにしている」と自覚しているわたしがいます。その一方で、「もうどうなっても構わない」と自棄になるわたしもいます。初めのうちのその段階ではまだ歯止めが利くかもしれません。まだ自分の状態を客観化し、無意識のうちに自分と自我とを切り離せている状態です。それでも自我がもたらす怒りの感情になすがままにしていると、自分と自我とが同化したようになってしまいます。そうなってしまえば事態はより深刻化します。わたしはますます暴力的になってしまいます。心を病んでしまう場合もあるかもしれません。最悪の場合、自分や他人の人生を破滅させることもあり得ます。突発的な怒りから衝動的に、自分の命や他人の命を奪ってしまう可能性さえ出て来ます。

自我と同化したわたしは、怒りに囚われてしまうわたしのその原因が自分の中にある自我だとは思えません。「わたしの生まれ持った性格や人格、過去の失敗やつまずきが原因なのではないか?」「わたしの置かれた環境や周囲の人たちに原因があるのではないか?」と考えます。わたしの周囲にいる人たちも同じように考えます。「あの子は優しいところもあるのにどうして暴力的なのだろう?」「わたしたちに問題があるのではないだろうか?」「愛情が不足していたのだろうか?」と考えます。原因がそれらにある場合もあるかもしれません。それらにはない場合もあるかもしれません。自我と同化したわたしはストレスを発散しようとしたり、環境を変えようとしたり、怒りを抑える試みをしたりします。それで問題解決する場合があるかもしれません。それでも根本的な解決には至らない場合もあります。「わたしの心の苦しみの原因はわたしとは別のものにある」「それはわたしの中にある特有の性質を持ったものである」。そのことを自覚するまで解決するのは難しいかもしれません。

怒り、悲しみ、不安、恐れ、後悔、わたしに負の感情をもたらすのは誰でしょう?他人でしょうか?状況でしょうか?わたしでしょうか?負の感情は突発的に現れることがあります。例えば瞬間的に苛立つことがあります。それでもあまり長続きはしないはずです。負の感情に囚われ続けるのはなぜでしょう?負の感情にわたしを繋ぎ止めるのは誰でしょう?それはわたしを苦しめる性質を持った自我かもしれません。それと同時に負の感情を引き受けているわたしもそこにいます。わたしの中には負の感情に引きつけられやすいわたしもいます。そのためにわたしは自我と同化しやすいのかもしれません。

 

わたしと自我との間にある “微かな接点”

ところでわたしと自我は本当に同化しているのでしょうか?自我が負の感情をわたしにもたらします。わたしは負の感情を引き受けます。そこに “微かな接点”があります。

「わたしに負の感情が現れている」。そのことに気がつけるわたしもいます。「わたしに負の感情が現れている」という気づき、「現れた負の感情に同調しやすいわたしがいる」という気づき、その気づきがわたしと自我との結びつきを弱くしてくれます。

 

わたしと心の苦しみを切り離す  

心の苦しみには色々あります。それが起きる過程も様々です。重要なことは心が苦しいかどうか、それを知ることです。わたしは幸いにも苦しみを感じる心を持っています。心が苦しいと言っているのなら、そこにわたしの単なる自己意識を越えた、わたしを苦しめる性質を持った自我が現れているということです。わたしに対して自我が苦しみをもたらしているということです。

これは乱暴な言い方かもしれません。それでもあなたと心の苦しみを意識的に切り離してはどうでしょう?あなたの心が苦しい時に「ああ、わたしを苦しめる自我が現れているな」と考えてはどうでしょう?そうすることであなたは自我のもたらす苦しみに一時的に捕らわれても、耽ることは減ります。それと同時に心が苦しいと感じていたあなたと、別のあなたがいることも自覚できるようになります。そのあなたが存在としての単なる自己意識を持ったあなたです。