事実の力 実在する力 

心の苦しみから抜け出してわたしを生きる    Taro

1章 心の苦しみから抜け出す4

4自分でしていると思っているワタシ   

 

思いを越えているわたし 思い通りのワタシ

なぜ生きているのか、生命力とは何か、それは理解しようとしても到底できるものではありません。存在としてのわたしはわたしの知識や常識、わたしの理解、わたしの思考をすでに越えています。わたしはこの命をコントロールできていません。わたしはわたしの思いを越えて生きています。その一方で「わたしは思い通りに生きている。自分の力で生きている」。そう思っているわたしもいます。なぜでしょう?それはわたしがある特有の性質を持った自我と同化しているからです。

自我には自己意識を越えた特有の性質があります。特有の性質には主に4つあります。1つ目は自我の基本的な性質である、わたしを苦しめるということです。2つ目は「自分でできる。自分でしている。自分でしたい」「思い通りにできる。思い通りにしている。思い通りにしたい」と思っていることです。この性質を持った自我は自分に固執し、自分を優先する傾向があります。一般的に言われるエゴイズムという言葉のイメージがこの自我です。自分勝手で自分の考えややり方に執着します。考えややり方を含めた広い意味での自分の持ち物と、自分の存在とを重ね合わせます。他者との関係性で優位に立とうとします。そのことで喜びを感じ、満足感を覚えます。

1つ目の性質を持った自我、つまり否定的傾向、消極的傾向、悲観的傾向を持った自我は弱くても、この2つ目の性質を持った自我が強い人もいます。快活で肯定的、積極的で楽観的な人でも自我の強い人はいます。

 

捕らえるワタシ 捕らわれるわたし

自我と同化したわたしはあまり他者のことを考えません。会話の相手がどんな気持ちで自分の話を聞いてくれているのか、退屈していないか、苦痛を感じていないか、相手は忙しくないか、そのことをあまり考えようとはしません。仮に相手の気持ちや事情が分かっていたとしても自分の欲求を満たそうとします。わたしの話は会話というよりも一方的な話です。負の感情からのぼやきや嘆き、他者の批判です。自分の主張を延々とすることもあります。「わたしはこんなことも知っている」「こんなことも考えることができる」「あの人は間違っている。わたしは正しい」「わたしの話には説得力がある」。わたしは得意になって話し続けます。話が終わる頃に「はっ」とします。ヒートアップしている自分と相手との温度差、自分だけが延々と話をしていたことに気づきます。そこにわたしを捕らえる自我と捕らわれる(存在としての)わたしがいます。わたしは無自覚のうちに自我に囚われて身勝手な行動に出ます。

 

他人を尊重しない 他人を自分と同じようなものだと思い込む

自我と同化したわたしは思い通りにしようとします。そしてそのことに対してあまり自覚がありません。他人に意見を求める場面や「(何かを)しようか?」と尋ねる場面でも、一見他人に意見を求めているようで他人を尊重するようなことはしません。返って来た答えが気に入らなければ、相手をねじ伏せようとします。自我と同化したわたしは相手の意見に対してすぐさま、「というよりも」と切り返します。他人の意見を受けようとさえしません。相手が「何もしないでいて欲しい。このままでいいよ」と言っても、「いいじゃないか、やっておくよ」と手をつけようとします。後になってから「先日のあの件、こっちでやっておいたから」と言ったりします。本人に悪気はないのかもしれません。それでも相手に質問を投げ掛けておきながら、相手の答えそのものを認めないことは、相手の存在を認めないことと同じです。

自我と同化したわたしは他人の意見に耳を貸そうとはしません。耳を貸すのはわたしの認めた人の意見だけです。事がうまく行くかどうかよりも、他人の意見を尊重することよりも、自分の思い通りにできるか、自分の気が済むかどうかが優先されます。

自我と同化したわたしたちは自分の価値観が他の人にも当て嵌まると思い込んでいます。例えば環境の違う家庭で生まれ育った夫婦が、価値観の違いからぶつかるのはそのためです。お互いが自分の持っている価値観が当たり前で正しいと思い込んでいます。相手の価値観を受け入れることがなかなかできません。

 

今の自分を保持しようとする

自我と同化したわたしたちは今の自分の考えややり方を保持しようとします。相手のいい所や自分の非をなかなか素直に認めようとはしません。

政治家や官僚、企業経営者や教育者、虚偽や隠蔽のニュースは連日世間を騒がせます。間違いを認められないのはなぜでしょう?素直に謝ることができないのはなぜでしょう?虚偽や隠蔽はモラルだけの問題ではありません。それは今の自分の考えややり方ではないもの、例えば相手の考えややり方、自分の過ちを認めることが自己否定に繋がると思い込んでいるからです。自分が自分であるところの大切な何かが、今の自分の考えややり方ではないものを認めることで、損なわれると思い込んでいるからです。それでも存在の世界で変化はありません。職を失ったり、地位や名誉を失ったりしたとしても、わたしたちは増えも減りもしません。

この傾向は個人だけに留まりません。集団でも同じことが言えます。この世界には学会や流派が乱立しています。様々な所に顔を出してみれば分かります。そのどれもが自分たちの主義や主張、自分たちで作り出した思考の枠組み、理論、理屈、やり方、方法を頑なに守ろうとします。他を認めるということはあまりしません。なぜなら他を認めることで自分たちの存在意義がなくなると思っているからです。他の方が優れている所もあります。他の意見も取り入れた方が質は高まります。それでも自前で賄おうとします。たとえ自分たちに至らない所があったとしても、なかなか認めようとはしません。変えようとはしません。変えた方がいいと思っていても保持しようとします。そこに無理や矛盾、過ちが生まれます。

 

怒る

自我は自分の思いを越えて生きている自覚がありません。自我は「自分の力で、自分で生きている」「思い通りにできる。思い通りにしている。思い通りにしたい」と思っています。自我と同化したわたしはよく怒ります。自分の行いや他人の些細な言動に対してさえも苛立ちます。相手のちょっとした仕草や言葉遣いが気に入りません。癇に障ります。それはわたしの思い通りではないからかもしれません。思い通りにならない時にもわたしは怒ります。それは「わたしが思い通りになって当然だ」と思っている現れかもしれません。

自我と同化したわたしは自分の考えややり方、広い意味での自分の持ち物と自分の存在とを重ね合わせます。自分の仕草ややり方、自分の持ち物について他人から指摘されるだけで怒ります。「わたしを侮辱するのか!わたし(の人生)を否定するのか!」。「自分の存在そのものが損なわれる。否定される」と思っているわたしは、奪われた分を取り戻そうと必死になって抵抗し、反撃します。自分よりも弱い者から受けた行為に対しては抵抗したり、反撃したりはしません。例えば子どもに対しては反撃をしようという気持ちさえも起こりません。人は自分に力を感じられない時にも怒ります。

 

手に負えると思っているワタシ

自我は「自分の心や体、意識の仕組みを理解している。把握している。コントロールしている」と思っています。自我と同化したわたしはよく分析をします。到底理解できるようなことではありません。存在としてのわたしは人智を超えています。それでも気がつけば分析をしています。「わたしの体のあの辺がああなっていてこうなっていて、ああなっているに違いない」。分析をし始めても結局わたしは分かりません。分析も計画も大切です。何も考えずに生きることはできません。極論はするほどの価値がありません。それにしてもわたしはよく考えます。「よく考える」と言っても、わたしの考えは浅いものかもしれません。わたしは分かったつもりでいるだけかもしれません。

「無知の知」と言えばソクラテスを思い浮かべます。自分が知らないことを自覚していたソクラテスは、彼が接した賢者や知者と呼ばれる政治家や詩人、職人たちよりも自我とは同調しない、自我の薄い人だったのかもしれません。

自我と同化したわたしはコントロールしようとします。到底コントロールできるようなものではありません。それでもわたしは命を、人生を死さえもコントロールしようとします。わたしが人生設計をしたり、「終い方」「終活」と呼んで自分の最期を管理しようとしたりするのはその現れかもしれません。

自我と同化したわたしは自分の思考と知覚の及ぶ範囲がこの世界のすべてで、自分の思考と知覚の及ぶ範囲だけで世界が成立していると思っています。

わたしたちはコントロールしようとします。人智を遥かに超えたこの世界です。それでもわたしたちが世界の中心で、わたしたちが世界を動かしていて、わたしたちの手で世界は変えられると思っています。

 

自前でやろうとする 常識を越えられないわたし

わたしの存在そのものがわたしの手には負えません。わたしの理解を越えています。それでも自我と同化したわたしは手持ちのものだけで賄おうとします。わたしの存在そのものが常識を越えているにもかかわらず、わたしにはその事実が見えません。わたしは常識だけで自分を理解しようとします。理解したつもりになります。わたしは相対的で流動的な常識を絶対化し、固定化します。わたしは既存の常識の内側に納まってしまいます。

偉業を成し遂げた人たちや素晴らしい仕事をする人たちに共通の言葉があります。「常識にとらわれずに」。偉人たちは出し惜しみをせずにコツを教えてくれます。それでもわたしはその言葉の重要性を感じ取ることができません。わたしはすでにあるものを習得しようとします。すでにあるものや教科書は間違いないと信じ切っています。

わたしは進化の途中にあるものに対して、それが完成されていないものであるにもかかわらず、「本来はどうなのですか?」「正しくはどうなのですか?」と尋ねます。進化の途中にあるものに、「本来は」「正しくは」というものは存在しません。わたしにはその事実が見えません。わたしは進化の途中にある常識を完成されたものとして見ます。わたしは常識を越えて考えることがなかなかできません。