事実の力 実在する力 

心の苦しみから抜け出してわたしを生きる    Taro

1章 心の苦しみから抜け出す5  

5事実を見せないワタシ 実在するものを見せないワタシ

 

事実が見えない 実在するものが見えない

自我には自己意識を越えた特有の性質があります。特有の性質には主に4つあります。1つ目は自我の基本的な性質である、わたしを苦しめるということです。2つ目は「自分でできる。自分でしている。自分でしたい」「思い通りにできる。思い通りにしている。思い通りにしたい」と思っていることです。3つ目は「わたしに事実を見せない。わたしに実在するものを見せない」ということです。自我と同化したわたしたちにはなかなか事実が見えません、実在するものが見えません。

わたしは恩恵を受けています。感謝できることが沢山あります。それは事実です。それでもわたしには事実が見えません。常に満たされない気持ちでいます。わたしは四六時中不平不満を言ったり、愚痴を言ったりして過ごします。わたしは足りないものばかり見ています。足りないものを実際に見ることはできません。頭の中のイメージとして見ています。わたしがなかなか感謝できないのは、わたしが自我と同化しているために、実在するものが見えないからかもしれません。

わたしは今あるものに意識が向きません。例えばいつも献身的に接してくれたり、支えてくれたりする家族や身近な人です。あるいは今持っているものです。わたしの意識が向くようになるのはそれらを失った時です。喪失感に苛まれ、失ったものや実在しないものに囚われるようになります。わたしはそこでもまた同じことを繰り返しています。あるものに意識が向かず、ないものに囚われています。

実在するものは見えます。実在しないものは見えません。それにもかかわらず自我と同化したわたしたちには実在するものが見えません。実在しないものが見えます。「実在しないものを見る」と言っても、頭の中の観念を見ているに過ぎません。

 

わたしの実在する今ここに意識がない

わたしたちは過去や未来へ行って生きることはできません。いつも今に生きています。その「今」は時計の中の今とは違います。時計の中の今は一秒が過ぎれば、また次の一秒がやって来ます。「今に生きる」とはその一秒一秒を今と認識して生きることではありません。わたしたちの認識する今とは意識の中の今です。それは時計の中の今と違って、幅のあるものです。例えば今、している作業がそれに当たります。

わたしたちが生きられるのは「今ここ」という限られた唯一の空間です。それでも自我と同化したわたしたちは、「今ここ」という実在する世界に生きることがなかなかできません。今ここにはわたしたちの体しかありません。わたしたちの意識はわたしたちが存在している所在地の、今ここではないどこかに、生きることのできない、実在することのできない世界にあります。例えばわたしたちの意識は頭の中の過去と未来、頭の中の目標や理想像の中にあります。

わたしの意識は実在しているここでは起きていない、どこかの世界に釘付けになります。例えばわたしは一日中テレビを見て過ごします。わたしの実在しているここでは起きていない、テレビの向こう側で今起きているかも分からない、その情報に対して怒りを露わにします。わたしは誰かに対してするようにテレビに向かって怒鳴り声を上げます。

 

自分の人生を主体的に生きることができない

わたしたちの意識は、今ここに実在する唯一のわたしたちではない、他の誰かに向かいます。わたしは他者の言動や他者の人生の評価、判定に多くの時間と労力を費やします。評価や判定であればいい所を取り上げて褒めたり、感心したりしても構いません。それでもあまりそうはなりません。自我は否定的傾向、消極的傾向、悲観的傾向そのものです。自我と同化したわたしは他者の言動や他者の人生を批判し、否定し、鼻で笑います。相手を下げることで自分を優位にします。そこから消極的な満足感を得ます。

わたしは自分の人生に対してどこか従属的で、抽象の中を生きているようです。評論するその対象なしには存在できない評論家のように、わたしは主体的に具体的な自分の人生を生きることがなかなかできません。

 

恐れ 

問題は意識が今ここにないことだけではありません。あなたの意識が、あなたの実在しない世界に向かうことであなたが悦びを得るなら、寧ろそれは歓迎できることかもしれません。問題は今ここにないことで、実在しないことであなたが心の苦しみを抱えるということです。自我は今ここにないことで、実在しないことであなたを惑わし、あなたを苦しめます。

自我は事実ではないことを事実のように、実在しないことを実在するようにわたしたちに見せます。見せるだけではありません。そこに心の苦しみ、負の感情を添えることもあります。自我と同化したわたしたちは事実ではないことを事実のように見て、苦しみます。実在しないことを実在するように見て、苦しむのです。

それには例えば恐れがあります。自我と同化したわたしたちは頭の中にしかない未来のことを実在するように見ます。「頭の中にしかない未来」と言っても、その未来はわたしたちの空想に過ぎません。わたしたちは今起きていないこと、起きるかどうかも分からないことを実在するように見て、心を暗くします。それが恐れです。

 

未来を現在の延長と考えてしまう

恐れが起きる原因はわたしたちの思考の癖とも関係します。わたしたちは未来を現在の延長と考えます。それは必ずしも事実ではありません。未来は現在の延長であり、延長ではありません。

「まさかこんなことになるとは思いもしなかった」。わたしたちは予測が外れることを経験的に知っています。未来が現在の延長であれば予測が外れることはありません。それにもかかわらずわたしたちは未来を現在の延長と考えるのです。わたしたちは起きるかどうかも分からないことを起きるに違いないと決めつけます。それはわたしたちの無自覚のうちになされる、事実に基づかない思考の癖です。

 

急かすワタシ

恐れは焦りとも関係します。わたしたちは今を基準にして、起きるかどうかも分からないことを近い未来で起きると想定します。その想定は条件反射のように瞬間的に起きる恐れです。その恐れがわたしたちに焦りをもたらします。焦りが起きることでかえってわたしたちの行動や仕事は停滞します。わたしたちは思い通りに行かず、苛立ちます。

たとえ急ぐことを求められていなくても、焦りは日常的に起こります。わたしたちは何者かに急かされているような気持ちになります。他人が急かしている訳ではありません。状況が急かしている訳でもありません。わたしたちの中にある何かがわたしたちを急かします。わたしたちの意識の焦点を今ここから逸らそうとします。

自我と同化したわたしたちは、今、していることに腰を据えて取り組むことがなかなかできません。気持ちは先に先にあります。気持ちがそわそわして浮足立って来ます。落ち着くことがなかなかできません。安らぐことができません。

 

後悔

自我と同化したわたしたちは頭の中にある過去を実在するように見ます。わたしたちは今起きていないこと、実在しないことを実在するように見て「ああしておけば良かった」と心を暗くします。それが後悔です。

わたしたちの過去は必ずしも事実ではありません。わたしたちの過去は記憶と言ってもいいのかもしれません。わたしは二週間前の今頃に何をしていたのかさえも思い出すことができません。それほどわたしの記憶は曖昧なものです。記憶は印象とイメージによるところが大きいものかもしれません。わたしは様々な体験をしました。楽しい体験も嬉しい体験も沢山しました。幸せも経験しました。それが事実です。それでも否定的傾向、消極的傾向、悲観的傾向そのものになっているわたしは、数ある過去の記憶の中からわざわざ苦しみの体験を引っ張り出して来て、今ここで実在しない苦しみの体験を実在するように見て、また苦しむのです。

後悔はわたしたちの思考の癖とも関係しています。人生は選択の連続です。わたしたちは岐路に立たされた時に、いくつかある選択肢の中から一つを選びます。わたしたちは苦しい現実を体験する時に、「ああしておけばよかった」と後悔します。わたしたちの思考の“おかしさ”は自分が選択したものとは別の選択肢が、自分が想像したように存在している(存在していた)と考えるところです。何かを失っている現実、例えばパートナーや若さや健康な体を失っている現実を前に、「ああしておけば失わずに済んだ。今頃幸せに過ごしていたに違いない」と考えます。わたしたちは実在しないものを実在するように見て苦しみます。それでも実在しないものは実在しません。実在しないものを想像通りに実在すると考えることは事実に基づかないわたしたちの思考の癖です。

 

比較の中で自己承認する

心の苦しみには悲しみがあります。悲しみには比較の中で覚える自分に対する無価値感や惨めな気持ちがあります。自我と同化したわたしたちは誰かと比較することで自分の立ち位置を知ります。自己承認します。

わたしたちは誰かよりも優秀であろうとします。誰かよりも持とうとします。なぜでしょう?それはわたしたちが誰かよりも優位に立つことで喜びを感じ、満足感を覚えるからです。「誰かよりも優位に立つことで自分に価値が出て来る。自分の価値が上がる。自分が認められる」。そう思っているからです。もしそうだとすればわたしたちは自分よりも劣る人間、下位の人間、自分よりも持っていない人間をわざわざ作り出さなければ、満たされないのでしょうか?自己承認できないのでしょうか?

 

悲劇のヒロイン

優位に立つことができないわたしは、誰かよりも劣っていることで自己承認することもできます。「わたしは誰よりも劣ります。誰よりも持っていません。わたしはもう手遅れです。どうしようもありません。何て可哀想なわたしでしょう。わたしは悲劇のヒロインです」。わたしは惨めな気持ちになりながら、同時にどこかで喜びを感じています。誰かよりも特別であることに消極的な満足感を覚えています。

 

持ち物とわたしを重ね合わせる

わたしたちは何かを持ったり、失ったりすることでも自分の価値が上下すると思っています。例えば肩書き、順位、収入、家、家族、能力、学歴や希少価値のあるもの、ブランド品もそうかもしれません。体に関すること、若さや美貌、健康もそうかもしれません。

プロフィール欄に経歴を羅列する人がいます。「わたしは名門校出身です。中退です。首席で卒業しました。有力企業に在籍したことがあります。要職に就いていました。責任のある立場です。アドバイスや意見を求められる立場です。有数の権威から認められています。一番になりました」。あるいはこういうことをしきりに言う人がいます。「わたしは有名な誰それさんと親しい間柄です」「わたしは有力者の誰それさんと知り合いです」。これらは一体何を意味するのでしょう?ただ事実を伝えているだけかもしれません。それでもそこに別の意図はないでしょうか?「わたしは優秀です。わたしは力を持っています。わたしは特別です。他の人とは違います」。こういう意図がないでしょうか?あるいは自分を高く、大きく見せようとはしていないでしょうか?その人は自分の持ち物の価値と自分の存在価値を重ね合わせているのかもしれません。その人は持ち物を失えば、自分が損なわれると思い込んでいるのかもしれません。

 

わたしの価値とは何か

そもそも自分の価値とは何でしょう?それは実在するものでしょうか?わたしたちには生まれながらに価値があります。その価値は何かを持つことで上がり、何か失うことで下がります。わたしたちは価値を上げることで自己承認されます。何かを持つことで自分が認められ、何か失うことで認められなくなります。それは事実でしょうか?

できていたことができなくなるというのは寂しいものです。わたしは小さくなったような気持ちになります。自信がなくなります。自分を認められなくなります。能力や持ち物が足りないために他人から認めてもらえないのは辛いことです。その感情や誰かにテストされるような場面は存在します。それでもわたしの能力や持ち物、わたしに起きる感情と存在としてのわたしの間にはあまり関係性がありません。

誰かよりも優秀であったとしても、劣等であったとしても、理想のものを手に入れたとしても、大切にしていたものを失ったとしても、誰かに認められたとしても、認められなかったとしても、嬉しかったとしても、悲しかったとしても、自信を得たとしても、自信を失ったとしても、存在としてのわたしたちは増えも減りもしません。価値や情報という観念の世界や感情の世界で変化はあっても、存在の世界では何も変わりません。それが事実です。

 

思い込みの世界で苦しむ

自我と同化したわたしは他人に嫉妬し、自分を卑下します。わたしが嫉妬しているその人は実在するその人ではありません。わたしはその人のある一部分しか知りません。わたしはある一部分からその人のイメージを膨らませます。わたしは仮想したその人を見ています。わたしは実在しない思い込みの世界で実在しない仮想した相手と比較して、自分に対する無価値感を覚えたり、惨めな気持ちになったりします。

わたしがしていることは同じです。事実ではないことを事実のように見て、実在しないことを実在するように見て、苦しんでいるということです。

 

「みんな」を見せるワタシ

比較の対象は抽象的な観念である場合もあります。例えば「みんな」というものがそうです。「わたしはみんなよりも劣っている」「わたしはみんなよりも遅れている」。わたしたちはみんなと比較して劣等感を覚えたり、焦ったりします。「みんな」を観察してみれば分かります。「みんな」というものは実在しません。誰一人同じ人はいません。それぞれ事情も違います。それが事実です。それでもわたしたちは誰一人同じではない人たちを同じように見て、それと比較して苦しみます。

 

ワタシの“おかしさ”

わたしたちは現実と頭の中ですることとの区別がつきにくいのかもしれません。現実と頭の中の“物語”を混同します。実在しない物事を実在するように見ます。見るだけではありません。負の感情に囚われます。実在しない物事を実際に見ることはできません。頭の中のイメージとして見ます。問題はそのことに対する自覚がほとんどないということです。

冷静に考えれば、起きてもいない、実在しないことを考えて心を暗くするというのは少し奇妙です。なぜなら何も起きていない、実在しない訳ですから。それでもわたしは嫉妬し、劣等感を覚え、焦ります。不安になり、心配し、恐れ、後悔します。そのことを当たり前のことだと疑う余地もありません。

自我の“おかしさ”は評論家たちの討論からも窺えます。経済や政治の評論家たちが出演しているテレビ番組があります。司会者と評論家たちが白熱した議論をしています。先ほど電撃的に行われた他国の首脳会談や、先日行われた自国の選挙結果について話をしています。どういう思惑で今回の会談が行われたのか?今後どういったことが予想されるのか?政府のトップシークレットとも言える情報です。専門家といえどもそれを知っている訳がありません。当事者ではない人たちが現場から遠く離れた場所で議論をします。

「何々党が選挙に勝っていたとしたら」「あの局面であの政治家があの発言をしていなかったとしたら」「その後の展開はどうなっていたと思いますか?」「今回何々党が勝ちましたが、何々政権ではまだ安泰とは言えないのではないでしょうか?」「何々の問題が懸念されます」「経済の先行き不透明感は一層強まっています」。

話の大半は「もしこうだったら」という仮定や憶測です。仮定や憶測の話が悪い訳ではありません。自分がしていることを自覚できているかどうかが問題です。話している人がどれだけ輝かしい肩書きを持っていたとしても、そこで話されていることがどれほど素晴らしい話に聞こえたとしても、そこで行われていることは空想の話です。

わたしたちは現在の状況を基準にして近い未来でそれが起きると想定します。それはわたしたちの思考の癖です。実際のところ未来は現在の延長とは言えません。「先行き不透明、先の見えない時代」というのは今も太古も同じです。それはとても自然なことです。わたしたちには一瞬先のことさえも分かりません。なぜならわたしたちは一瞬未来でも、一瞬過去でもなく、今という限られた唯一の空間にしか生きることができないからです。

わたしたちは頭の中で行う仮定や憶測を現実で起きているように見ます。そうでもなければ教養の高い大人たちが仮定や憶測の議論に終始したりはしません。「空想の話はそろそろ止めにしませんか?」とは誰一人言い出しません。それどころか知識人と言われる人たちが空想の話に夢中になります。起きてもいないこと、起きるかどうかも分からないことに終始するあなたがいるとすれば、それはあなたが自我と同化している現れかもしれません。

 

過去と現在と未来は同じか

 わたしたちには事実が、実在するものがなかなか見えないのかもしれません。またそのことに対する自覚もできていないのかもしれません。先程のテレビ番組の中である人が言いました。「これは前例のないことです」「過去から判断すると信用できません」「どうなるか疑わしいですね」。

わたしたちは過去を教訓にします。経験値を参考にします。過去に重きを置きます。それがわたしたちにできることです。それでも過去と未来は違います。前例ないものを拒めば世界は進化しません。この世界は前例のないものばかりです。過去と現在と未来の違いを自覚している人は、過去から判断して退けたり、不必要に疑いの念に囚われたりはしません。わたしたちは過去や未来へ行って生きることはできません。いつも今にしか生きられません。未来のことは一瞬先のことでさえも分かりません。それが事実です。それでもわたしたちは事実を無視してまでも、事実に沿わない自分たちの思考を優先しているのかもしれません。事実を捻じ曲げてまでも未来をコントロールしたい、あるいはコントロールできると思っているのかもしれません。

 

唯一無二である事実を見せないワタシ

自我と同化したわたしたちには一人一人が違った存在であるという事実が見えません。わたしたちは同じようなものとして見ます。わたしはわたしで、あなたはあなたです。似ていても違う存在です。それが事実です。そもそも比較の対象を持たない存在だということです。それでもわたしたちはその事実を自覚することができません。

わたしは誰かとの間に存在する僅かな共通点に意識の焦点を合わせます。わたしはその僅かな共通点だけを取り出して大袈裟に扱います。わたしはその僅かな共通点だけで比較して優越感や劣等感を覚えます。わたしは全体が見えません、とても視野が狭く、近視眼的です。

わたしたちは誰かと比較することで自分の立ち位置を知ります。自己承認します。どうしてわざわざ誰かを用意しなければ自己承認できないのでしょうか?どうして「わたしはわたしである。唯一無二のわたしである」というその事実を受け入れることができないのでしょうか?自我と同化したわたしたちは唯一無二の自分を生きることができません。比較の中で生きるようになります。優秀であろうとします。比較の中で苦しみます。

 

普通、平均、一般、標準、観念を実在するように見せるワタシ

自我と同化したわたしたちには事実が見えません。わたしたちは唯一無二の人たちを同じようなものとして扱います。それはわたしたち自身に対しても同じです。わたしたち自身も同じようなものだと思って過ごします。

世の中には若くして亡くなる方が大勢います。その原因は様々です。わたしが仮に交通事故で夭折した人であったとします。夭折したわたしに平均寿命や「人生80年」という考え方や、「普通は」という話は何の関係性もありません。交通事故で亡くなったわたしにとって、死因の上位を占める国民病は何の関係性もありません。何万人に一人が罹ると言われる難しい病があります。その難しい病を患っている人にとって、「何万に一人」という確率の話は何の関係性も価値もありません。

わたしはわたし以外の他の者になることはできません。いくらわたしと近しい人でも、仮にわたし以外の圧倒的大多数が同じであったとしても、わたしとわたし以外の人とは根本的に違う存在です。それでもわたしにはその事実が見えません。わたしは他人と自分を重ね合わせます。重ね合わせるのは実在する他人だけではありません。自分を普通、平均、一般、標準という観念と重ね合わせます。わたしは固有の存在である自分を一般化して生きることになります。

わたしは一瞬未来でも、一瞬過去でもなく、「今ここ」という限られた唯一の空間にしか生きることができません。わたしはやり直しや巻き戻しの利かない、過去から未来へと向かう時間の流れの中に生きています。一度きりの「今ここ」という瞬間を生きています。わたしという今生、一回きりの具体的な個人を生きる上で、普通、平均、一般、標準とは根本的に関係性がありません。わたしは次の瞬間にどうなっているのかさえも分からないのです。わたしは次の瞬間にこの世からいなくなっているのかもしれません。それはいくら若くても、いくら年老いていても、屈強でも、病弱でも例外はありません。わたしは普通、平均、一般、標準とは無関係のわたしです。それが事実です。

 それでもわたしにはその事実が見えません。20歳のわたしは「人生はこれからだ」と言います。40歳を過ぎたわたしは「人生の折り返し地点を過ぎた」と言います。80歳を過ぎたわたしは「もう老い先が短い」と言います。いくつまで生きるかも分からないわたしがそう言います。わたしは事実が見えずに普通、平均、一般、標準の中を生きることになります。それはまるで事実を知らずに幻を見て生きるようなものです。

自我と同化したわたしは普通や平均、一般的なもの、標準的なものを追いかけます。それらは雰囲気のようなものかもしれません。実在するようで実在しないものです。乱暴な言い方をすれば幻のようなものです。わたしたちは二つとして同じではありません。唯一無二の存在者たちです。その当人たちではない第三者が、固有の存在者たちを頭の中で平均化したもの。それが結果的に現れた、普通、平均、一般、標準という観念です。それらの観念が先にあった訳ではありません。普通、平均、一般、標準をまさに体現している人がいた訳ではありません。唯一無二の、固有の存在者たちがいました。そして今もいます。それが事実です。それでもわたしにはその事実が見えません。わたしは普通、平均、一般、標準を追いかけます。わたしはいくら追いかけても掴めません。それらは頭の中にしか存在しない観念だからです。わたしは実在しない観念を実在するように見て追いかけます。固有の存在であるわたしはそれらの観念になろうとさえするのです。それは不可能なことです。わたしは自分を見失い、やがては疲弊してしまいます。

 

安定を見せるワタシ

 わたしは実在しない観念を実在するように見ます。例えば安定がそれです。わたしが見ている安定は留まっているものです。わたしは安定を求めます。それでもそれは手に入りません。なぜならそれは実在するものではないからです。

この世界は諸行無常です。変化しないと思う物でさえ、見えない速さで静かに朽ちて行きます。すべては移り行きます。それが事実です。一瞬の停止も静止もなく、変化しています。その変化は全体として見れば、進化の中にあります。停止や静止を知っているのはわたしの思考と感覚です。変化はこの世界の自然の姿です。それでもわたしは自分や他人の心変わり、決意の揺らぎ、人生の方向転換に対して抵抗感を覚えます。他人に対するものであれば許すことができません。

特にこの国では変化はあまり好まれません。転々とすることは悪いことだと思われます。長く続けることが良いことです。定住することが当たり前です。飽き性は悪いことだと言われます。それが望む生き方かと言えばそうは見えません。

わたしたちの思考と感覚、わたしたちのすることは事実、実在するもの、この世界、自然とどこか調和しません。

 

実在するものよりも思考に囚われる、理屈に囚われる 

思考は実際に存在するもの、つまり事実とは異なるという意味で当てにならないところがあります。それでもわたしは実在するものよりも思考に囚われます。

わたしは理屈に魅せられます。世界情勢を分析する評論家のその巧みな語り口に心を奪われます。彼らの言う「何々主義」や「何々イズム」、思考の枠組み、分類の枠組みが実際の世界に存在する訳ではありません。「何々主義」や「何々イズム」、その理屈が世界に働きかけるきっかけや、ある方向性を決めるきっかけにはなっても、それらが世界を動かしている訳ではありません。実際の世界はわたしたちには掴めません。知りもしない人たちの知りもしない人生と人生の繋がりが世界を作ります。人間だけではありません。ありとあらゆる命の営みが世界を作ります。

人間だけが世界から分離して人間の世界を作り上げることはできません。実際の世界がどうやって展開されているのか、それを知ることはできません。それを知るには存在するすべての視点、神の視点が必要です。それでも自我と同化したわたしは人間が世界を動かし、世界を変えられると思っています。自分のことも世界のことも知ることができる、理解することができると思っています。自我と同化したわたしは「真理は一つ」などと言います。生まれてから死ぬまで、自分の視点しか持つことのできないわたしが真理や真実を知ることは不可能です。それでも自我と同化したわたしはそのことを知りません。

わたしは科学を妄信します。得体の知れないものを突き付けられると反射的に反論します。「科学的根拠はあるのですか?」と。わたしにとって科学は完成されたものです。これ以上ない信頼のできる確かなものです。わたしは科学的根拠さえあれば納得してしまいます。科学的根拠がないだけで完全に跳ね除けてしまいます。わたしは忘れています。事実が見えていません。科学は完成されたものでも、固定化されたものでもありません。現在進行形の進化の中にあります。科学が世界を作った訳ではありません。医学がヒトを作った訳ではありません。医学がわたしを生かしている訳ではありません。世界もわたしも人智を超えてすでに存在しています。

存在するものが先にあります。そこから見出された法則性が理論や理屈です。その理論や理屈はわたしたちが作りだした道具です。それにもかかわらず、いつしか道具の方が中心になります。わたしは理論や理屈を通して存在する世界を見ます。理論や理屈を通した世界を生きるようになります。

わたしは理屈に囚われます。先に存在するものよりも後付けの理屈の方が重要になります。理屈が音楽や絵画を作った訳ではありません。製作者がいくら「理屈で製作した」と言っても出来上ったものは理屈を越えているものです。美しい音楽や絵画が先にありました。そこに法則性を見出して理屈を作りました。その理屈は存在しているものを過不足なく表現できるものではありません。それでも使えるものです。ここまでは問題ありません。問題はわたしが存在するものよりも理屈を重視するようになることです。

わたしは理屈を知らなければならないと考えます。「理屈を知らなければ音楽をやってはいけない。絵をやってはいけない」と考えます。理屈を知らないことに後ろめたさや劣等感を覚えます。わたしは先に存在するものよりも後付けの理屈に囚われます。その理屈はわたしたちが作り出した道具です。ヒトは自分で思考の枠組みという道具を作り出しておきながら、道具が主人のようになってしまいます。

 

道具が主人になる

道具がわたしの主人になるという例は他にもあります。お金、時間や曜日、ルール、あるべき姿、価値観、習慣や伝統です。

お金は物々交換の延長から生まれたものです。欲しいものを得るための手段が、わたしの不安や恐れと結び付いて目的になってしまいました。わたしはビジネスで「結果がすべて」と言います。「結果」と言うだけでそれがお金を指すまでになりました。わたしは今やお金集めのために生きているようなものです。わたしはお金の奴隷です。

腹の減らないわたしは「何時だから」と食べ物を詰め込みます。眠気に襲われているわたしは「まだ何時だから」と起きています。心と体が悲鳴を上げていても、社会人としての自覚と責任からわたしは逃げ場を失います。精神的にも肉体的にも追い込まれて行きます。理屈が生身のわたしよりも優先されるようになります。

伝統を作り出したのは今を生きるわたしたちと同じ人間です。それでも「伝統だから」という理由だけで後世の人たちは伝統に縛られます。今を生きる人たちよりも先人や伝統が優先されるようになります。伝統は見方によれば、先人の後世に対する支配でもあります。

 

存在するそのものが見えない

ヒトは存在するものに与えた意味や情報の世界を生きているのかもしれません。あるものをあるがままに見ることがなかなかできません。例えば太陽を見る時に太陽に与えた情報を見ます。「暖かい」「暑い」「赤く燃えている」「野菜や果物を育ててくれる」「光合成の役に立つ」「洗濯物を乾かしてくれる」。わたしは日常で太陽をそのようなものとして見ます。「太陽」という名前がすでに情報です。わたしは太陽を見る時に、「それが地球から約1億5千万㎞離れている天体で、水素とヘリウムからできていて、核融合反応が起きて、大量の水素が消費されてヘリウムに変わる過程で光と熱が生まれている」とは見ません。水素とヘリウムというわたしと同じように不安定な存在であるにもかかわらず、わたしは太陽の心配をしません。わたしは身の回りの些細なことは心配しても、遠くにある重大なことは心配どころか意識さえも向きません。わたしは太陽に全幅の信頼を寄せています。と言うよりも無関心、無自覚です。わたしはそこにあるものに与えた(与えられた)情報を見ています。

 

当てにならない思考と感情

自分が何をすればいいのか、何をすることが自分を大切にすることなのか、わたしはそのことを凡そ分かっています。それでもわたしはやる前から気が重くなります。やる気が出ずに億劫になります。やれば自分のためになることでも、今すぐできることでも、なかなか取り掛かることができません。わたしは横道に逸れてしまいます。自分の人生の本題ではないことに、怠惰に耽ってしまいます。怠惰は心の苦しみとまでは呼べないものかもしれません。それでもわたしたちのためになるものではありません。その意味でわたしたちを不幸にするようなものです。

取り掛かる前は難しく感じます。「面倒臭い。じっとしていたい。もう少ししてからにしよう。今度やろう」。特に不慣れなことに対しては余計に難しく感じます。「これをするにはあれくらいかかるだろう。これは難しいかもしれない。厄介なことになりそうだ。これは敵わない。どうしてわたしがこんなことをしなければならないのか?」。わたしは何もしないうちから起きてもいないことを考えます。嫌気がさして来ます。苛立ちます。苦痛を感じます。それでもわたしは仕方なく事に取り掛かります。やり始めはまだ気が重いものです。次第に気の重さは薄れています。わたしは没頭しているうちにいつしか事を終えます。現実は実際に行動を起こして、それに取り掛からなければ分からないものです。取り掛かる前の思考と取り掛かってから分かることとは違います。実際に起きたこととは違うという意味で、わたしの思考は当てにならない所があります。気の重さや怠惰な気持ちも当てにならない感情です。過ぎてしまえばその感情を抱くほどではなかったことに気づきます。

それは恐れの感情と似ています。わたしは新しい仕事をする度に恐れます。「この仕事はうまく行くだろうか?わたしにできるだろうか?大丈夫だろうか?」。わたしは程度差こそあれ、必ず恐れの感情に捕らわれます。それでも「いつまで経っても仕事が終わらずに困った」という経験がありません。トラブルやアクシデントが続くことはあります。それでもどこかで収束します。わたしは仕事が終わらなかったことは一度もありません。それにもかかわらず、新しい仕事をする度に恐れに捕らわれます。

恐れは自覚していないだけで日常の至る所で起きています。外出すれば「まだお金があったかな?足りるだろうか?」と財布の中身が気になります。少し雲が出て来ただけで、「雨が降らないだろうか?大丈夫かな?」と心配になります。相手からの電子メールの返信が少し遅いだけで、「わたしは何か悪いことをしたのだろうか?あの時のあの言い回しはよくなかったのかもしれない」と不安になります。それでも恐れの指す内容と実際に起きたことが同じかと言えば、そうとは言えません。恐れの指す内容と実際に起きたことが一致するかどうかという意味で、恐れが持つ感情の精度はあまり高いものではありません。仮に恐れの指す内容と実際に起きたことが同じであったとしても、事が過ぎてしまえば恐れるほどではなかったことに気づきます。

 

忘却するわたし

事が終わる頃に恐れがいかに当てにならない思考や感情であったか、それは暴露されるところです。それでもそうはなりません。自我と同化したわたしはこの過程を振り返ることはありません。恐れや懸念は無責任に起きるだけ起きて、それで終わりです。恐れの指す内容が起きる時に、わたしは何に恐れていたのかさえも忘れようとしています。そしてわたしはまた新しい恐れに捕らわれようとするのです。

自我と同化したわたしは離れた所からこの状況を見ることができません。わたしは自我のもたらす負の感情の罠に気づけません。そしてわたしは自我のもたらす苦しみにまた囚われるのです。

 

偉大な記録

気の重さや怠惰な気持ち、不安や恐れの感情が現れた時に記録することをおすすめします。現れた日時、どういう感情で感情の指す内容は何かを記録します。そうすれば感情の指す内容と実際に起きたこととの違いが明確になります。それらの感情がいかに事実とは異なるか、いかに当てにならない感情か、いかにわたしがそれらの感情に囚われやすいかが明確になります。それを自覚することで一時的にそれらの感情に捕らわれても、耽ることは減ります。

記録することで、気の重さや怠惰な気持ちに対してはそれらの感情に捕らわれても、とりあえずは行動を起こすことで解消できるようになります。行動はどんなことでも構いません。できることをやります。例えば朝の起きがけに感じる辛さ、気の重さは起きて一歩踏み出すことで解消されます。それと同じです。不安や恐れの感情に対してはそれらの感情に捕らわれても、「これもやがては過ぎ去る」と心に余裕を持てるようになります。あなたはあなたに起きるそれらの負の感情と距離を取るようになります。

 

声のない独りごと 相手のいない会話

わたしを怠惰にさせるものに思考の流れがあります。わたしはこの声のない独り言、相手のいない会話をいつから始めたのでしょう?2、3歳頃から自我が芽生えると言います。ほとんど年齢と変わらないくらいの間続けて来ました。わたしは何かに取り掛かっていてもいつしか散漫になります。絶えず現れる思考の流れ、空想の世界に引き込まれます。それは人生の本題とは無関係の怠惰そのものです。自我はわたしの実在する、今ここにわたしの意識を集中させません。今ここから意識を逸らそうとします。

私的なことや他人のこと。過去のことやこれから起きるかどうかも分からないこと。現実的なことや突飛なこと。思考は脈絡がなく、ランダムに現れます。いつの間にか始まっています。相手のことをほとんど知らないわたしが、過去に起きた相手との些細な出来事に意識の焦点を合わせます。わたしは相手を判定します。批判し、否定し、見下します。そして「わたしの方が優れている」と言います。「あの一言、あの表情、あの態度が気に入らない」と言い、相手に反撃します。憎しみや恨み、怒りや不満の類は握りしめて離そうとはしません。何度も執拗に繰り返します。食傷気味でウンザリしているわたしもいます。それでも止めません。起きたこと以上に話は発展して行きます。

事実はどうだったのでしょう?あの時の相手はどういう意図だったのでしょう?あの一言もあの表情もあの態度も分かりません。わたしの想像に過ぎません。わたしが作り上げた相手と物語です。目の前にはいつも誰もいません。現実ではありません。事実でもありません。空想に過ぎません。

自我は事実ではないことを事実のようにわたしに見せます。実在しないことを実在するようにわたしに見せます。見せるだけではありません。そこに心の苦しみ、負の感情を添えます。わたしは思い込みや空想の世界で憎しみ、恨み、嫉妬し、怒り、悲しみ、恐れ、後悔します。それだけではありません。脈絡のない思考はわたしの中を四六時中流れています。わたしはまるでその思考の流れの中に生きているようです。わたしは脈絡のない思考に気づかないうちに捕らわれて、耽ります。わたしは人生で優先することを後回しにして堕落します。わたしの中を流れる止めどない思考の流れとわたしを捕らえて離さない負の感情。それらに比べれば街の喧騒でさえも静かなものです。自我が薄くなれば分かるようになります。この世界そのものはとても静かです。

自我はわたしたちに負の感情をもたらすだけではありません。わたしたちの日常全体に広く、深く影響を及ぼしています。