事実の力 実在する力 

心の苦しみから抜け出してわたしを生きる    Taro

2章 自由な心を取り戻す1

1切り離せないものからわたしを切り離すワタシ 

                                                       

意識の上で繋がりを断ってしまう

自我には「わたし」という自己意識を越えた、特有の性質があります。特有の性質には主に4つあります。1つ目は自我の基本的な性質である、わたしを苦しめるということです。2つ目は「自分でできる。自分でしている。自分でしたい」「思い通りにできる。思い通りにしている。思い通りにしたい」と思っていることです。3つ目は「わたしに事実を見せない。わたしに実在するものを見せない」ということです。4つ目は切り離せないものからわたしを切り離すということです。それでも実際に切り離す訳ではありません。意識の上で切り離します。

 

故意に設定された系統は存在できない

自我と同化したわたしたちは繋がりを断ってしまいます。それでも実際に断つことはできません。繋がりを断って存在することは不可能です。意識の上で繋がりを断ちます。わたしたちは繋がりの中に存在するわたしたちをなかなか自覚することができません。

繋がりは様々です。例えば祖先との繋がりがあります。わたしが祖先との繋がりを感じられるのは近くの祖先に限ります。途切れることのない脈々と続く繋がりを感じることはできません。わたしは血の話をすることがあります。血筋、血統、家系の話です。「あの人は由緒正しい家系である」「あの人は優秀な血筋である」「純血の何々民族が」と言ったりします。それはあり得ません。それは故意に設定された系統です。繋がりは意図されたものだけでは収まりません。ルーツを辿れば故意に設定された系統を簡単に越えてしまいます。わたしたちは人類の誕生と進化の歴史だけではなく、生物の誕生と進化の歴史、地球の誕生と進化の歴史、太陽系の誕生と進化の歴史、宇宙の誕生と進化の歴史。それらのすべての歴史を持って今ここに存在しています。わたしたちのルーツは宇宙の始まり、そのひとつにまで遡ります。それでも自我と同化したわたしにはその事実が見えません。

故意に設定された系統はそれだけでは存在できません。切り取ることのできない全体の一部です。それは脈々と続く繋がりなしには存在できないものです。故意に設定された系統は幻のようなものです。それでも自我と同化したわたしたちはその幻を見ます。切り離せないものを切り離します。実在できない様々な系統を故意に設定し、他者を差別します。仮想した他者を下げて、自分を上げます。そこから消極的な満足感を得ます。自己承認します。ただ差別するだけではありません。暴力に訴え、排除しようとさえします。

 

人々の命の営みに囲まれる

繋がりは他にもあります。わたしたちは様々な物に囲まれています。例えば食べ物や着る物、家具や家電製品、家や車があります。わたしは自給自足の暮らしではありません。誰かが育ててくれた野菜や果物、牛や豚や鶏、誰かが獲ってくれた魚、誰かが調理してくれた物を食べています。電気やガスは田舎に住んでいる我が家にもやって来ます。蛇口を捻れば水が落ちます。外に出れば舗装された道路があります。信号や道路標識があります。バスや電車を乗り継いで行きたい所へ行けます。混沌としていたはずのところに秩序が与えられ、綺麗に整えられています。すべてわたし以外の誰かがもたらしてくれたものです。わたしは恵みの中に生きています。わたしは無自覚に受け取り、時には与えています。

そこにある物の背後には誰かがいます。誰かの思いや知識、技術、人生がそこにあります。わたしは人々の命の営みの中に生きています。わたしの知らない人たちの命の営みです。そこからもたらされた物を受け取っています。わたしたちは脈々と続く人たちの命の営みの中に生きています。誰かとの繋がりなしに生きることはできません。綺麗事を言う訳ではありません。これは事実です。それでもわたしたちは繋がりの中に存在している事実をなかなか実感できません。

 

孤独ではいられない

「途切れることのない脈々と続く繋がり」とはありきたりの言葉ではありません。事実を表す、これ以上ない重みを感じる言葉です。その繋がりとは人の繋がりだけではありません。わたしたちの思考や感覚さえも超越したありとあらゆるすべてです。

例えばあの日、あなたのお母さんが食べたあのトマトがなければ、あなたは今のあなたとして生まれることはできていません。トマトはあの日、あの時、あの場所で、あの日光を浴びて、あの成長をした、あの栄養価のあのトマトでなければなりません。トマトは、あのトマトを作ったあの人が、あの場所であの土を作り、あの水とあの肥料をあの量やり、あのトマトの種を植え、あのやり方で育て、あの状態であの瞬間に収穫したあのトマトでなければなりません。

トマトは、トマトを作ったあの人があの両親の間に生まれ、あのやり方で育てられ、あの人生を歩み、あの場所であのトマトを栽培し、あの日、あの瞬間に収穫されなければあのトマトではありません。トマトを食べたあなたのお母さんがあの両親の間に生まれ、あのやり方で育てられ、あの人生を歩み、あの日、あの時、あの場所であの体調のあなたのお母さんがあのトマトを食べなければ、あなたはあなたとして存在していません。

トマトが江戸時代にあのポルトガル人によって日本に輸入されていなければ…、コロンブスがアメリカ大陸を発見し、トマトがイタリアへ渡り、その後ヨーロッパ全土に広まらなければ…、トマトが南米で栽培されなければ、あなたは存在しません。

あの日、あの時、あの場所であなたのお母さんが食べたあのトマトだけでもその縦と横の繋がりを明らかにすることはできません。それほど繋がりは途方もないものです。それでもたった一つ何かが欠けてしまうだけで、存在するはずのものは存在できなくなってしまいます。太古のあの日、あの時、あの場所で原始の海が生まれなければ、あの名もない生命は生まれません。太古のあの日、あの時、あの場所であの名もない生物が海から陸に上がらなければ、今のわたしたちは存在しません。たった一つ何かが欠けてしまうだけで、歴史は変わってしまいます。わたしたちにとって都合の悪いことでも、気に入らないことでも、わたしたちの知らないことでも、わたしたちの思考や感情を越えてどこかで関係を持っているためにわたしたちは今、存在しています。もしかするとあなたの足元にいる一匹の蟻が、誰からも気づかれずに生えている名もない草が、そこに流れ込んだ一滴の雨粒が、無造作に積まれた何かが、他でもないあなた自身がこの世界を生かし、わたしたちを存在させているのかもしれません。

わたしたちは100%の確率で存在しています。宇宙創世以来、無数の選択肢がありました。あっちであればわたしたちが生まれて来られない選択肢が無数にありました。それにもかかわらずわたしたちは無数に存在した岐路で、一度も間違えることはありませんでした。だからわたしたちは生まれて来ることができました。100%でなければ生まれて来ることはできません。生まれてからも同じです。100%でなければ今も生きてはいられません。

わたしたちは人智を超えて存在しています。わたしたちの思考や感覚を超越した所で起きる変化、繰り広げられている命の営み、得体の知れないものの命の営みがあったために、そして今もその命の営みがあるために、この世界は今も存在し、わたしたちも生きていられます。それでも自我と同化したわたしは、自分の理解と知覚の及ぶ範囲だけでこの世界が成立していると思っています。自分の思考と感覚で捉えられないものは存在さえしないと思っています。

自我と同化したわたしたちは、途切れることのない脈々と続く繋がりをなかなか感じることはできません。そのためにわたしたちは孤独を感じます。それでもそれは孤独感です。わたしたちに起きる負の感情は当てになりません。事実とは異なります。わたしたちは孤独でいることは不可能です。繋がりなしに存在することはできません。

 

命、自然、宇宙、世界から分離するワタシ

自我は切り離せないものからわたしたちを切り離します。実際に切り離す訳ではありません。意識の上で切り離します。例えばわたしは「わたしの命」と言います。わたしはその時に全く違和感を覚えません。わたしは命なくして存在できません。わたしと命は一体のものです。それでも意識の上でわたしと命を切り離します。命から分離したわたしとは何でしょう?それは実在できない幻です。

わたしは「自然はいいね。自然は素晴らしい」と称賛します。「自然を相手にするのは大変だ」と言います。その時のわたしはどこか他人事のようです。まるでわたしは自然から離れた存在で、自然から離れた人工的な社会に生きているようです。わたしは自然そのものです。自然の内側にしか存在できません。わたしたちの手から生まれた最先端の科学や文明も、どれほど手を加えられた人工物も、どれほど無機質に見えるものであっても自然から生まれたものです。自然界を離れて存在できるものは何もありません。それでも意識の上ではわたしと自然を切り離しているようです。

わたしは一秒たりとも太陽の恩恵なしに生きることはできません。夜になれば星々や月はそこにあります。それでもわたしは宇宙に馴染みがありません。どこか遠くの話に思えます。「宇宙を感じる。宇宙を生きる」。その言葉を聞いた途端に違和感さえ覚えます。「普通はそういう言い方をしない」と反論したい気持ちになります。わたしには宇宙という言葉が大袈裟で、どこか宗教的な怪しささえ持っているように感じられます。

わたしは宇宙空間に存在する地球に生まれ、生きています。わたしは地球や宇宙、自然界から離れて存在することはできません。それが事実です。それでも「わたしはこの街で、この地方で、この国で、社会に生きてはいても、地球という天体に生きていて、宇宙に生きていて、自然界に生きている」という実感がなかなか持てません。自我と同化したわたしは宇宙に思いを馳せたり、夜空を見上げたりするようなことはあまりしません。

 

自然界の中の社会

ところで自然界と社会は別々に存在するものでしょうか?社会は自然界から分離しても存在できるものでしょうか?あなたは自然界に存在していますか?それとも社会に存在していますか?社会は自然界なしには存在できません。人間は自分たちにとって便利な仕組みを自然界に作りました。それを社会と呼んでいるに過ぎません。