事実の力 実在する力 

心の苦しみから抜け出してわたしを生きる    Taro

2章 自由な心を取り戻す2

2価値と意味

 

価値や意味を持たない世界

自然界に予め与えられた価値や意味は存在するのでしょうか?自然界を見渡しても「善や悪」「良い、悪い」は存在しません。食う、食われるという関係性も生も死も、善でもなければ悪でもありません。良い訳でも悪い訳でもありません。そこにあるのは価値や意味といった情報を持たない、現象と存在です。

自然界には予め与えられた価値や意味は存在しません。「べき」「ねばならない」といった義務や絶対的な価値は存在しません。あるとすればある物事に対する解釈です。そもそも価値や意味は観念です。実在するものではありません。自然界は価値や意味を持たない存在の世界です。

 

設定された価値と意味を持つ世界

「自然界」という概念は社会が生まれてからできたものかもしれません。社会との対比で使われる「自然界」という言葉です。それでも自然界を離れて存在できるものは何もありません。その意味で「自然界」という言葉は「社会」という言葉との対比ではありません。「社会」を内側に含んだ、「世界」そのものを指す言葉です。人間は社会を築いてからその中を生きるようになりました。それでも人間は社会に存在すると同時に自然界に存在しています。自然界に存在することなしに社会は存在できません。自然界は価値や意味を持たない存在の世界です。その世界に後から作られたのが社会です。

社会には法律をはじめとするルールがあります。それは敢えて設定された価値や意味と言えます。設定された価値の世界ではその世界の内側にいる限り、その世界の価値が適用されます。

 

正しさ 間違い

設定された価値と意味の世界に存在する言葉があります。それは「正しさ」と「間違い」です。設定された価値基準に合えば正しい。合わなければ正しくない、間違いであるとされます。それはスポーツやゲームの世界と同じです。学校の勉強も同じようなものかもしれません。教科書という設定された価値、正しさに照らして判定されます。教科書や正しさ、ルールや法律という設定された価値は絶対的なものではありません。固定化されたものでもありません、相対的で流動的なものです。それらの設定された価値は一定の強制力を持ちながらも、必要に応じて改定されたり、変更されたりします。

 

ルールが及ぶのはどこか

設定された価値の世界、例えばスポーツやゲームの世界ではその設定された価値基準、ルールを引き受けない限りはその世界に参加できません。参加していながらそのルールを守らない場合は罰則を科されます。最も悪質な場合はその世界から追放されてしまいます。社会の場合はどうでしょう?わたしたちは現実的に国や社会の内側でしか存在できません。参加するか否かを問われないまま、設定された価値の世界の内側にすでに存在しています。その世界ではその世界の価値基準、ルールが適用されます。それが社会のルールや法律です。わたしたちは社会の様々なルールや法律に拘束されながらも、それらを守っている限りは自由です。厳密に言えば社会の内側にいても完全に自由です。ただし法を犯せば罰せられる可能性があります。

わたしたちは設定された価値の世界、社会の中では振る舞いにある程度の規制がかけられてはいても、心の中は自由でいられます。

 

「べき」「ねばならない」を心に中にまで引き受ける

自由なはずのわたしの心が不自由を感じているのはなぜでしょう?わたしには良心があります。良心に反することをすれば疚しさを感じます。良心があるために不自由を感じる部分もあるかもしれません。それ以上にわたしが不自由を感じているのは、「べき」「ねばならない」、義務を必要以上に引き受けているからです。

自我と同化したわたしは事実ではないことを事実のように見て、苦しみます。実在しないことを実在するように見て、苦しみます。わたしは「今ここ」という限られた唯一の空間にしか生きることができません。それでもわたしの意識は今ここではないどこかにあります。自我と同化したわたしは実在する世界に生きることがなかなかできません。わたしは今のわたしではない他の誰かになろうとします。

例えば他人や社会の求める理想像、価値観、「あるべき姿」と言われるものです。「男として、女として、責任のある社会人として」「何歳で仕事に就いて、結婚をして、家庭を持って、子どもをもうけて、家を手に入れて、年収いくらくらい稼いで」「良き母親とはこうで、良き父親とはこうで、一人前の男とはこうで、一人前の女とはこうで、人とはこうあるべきです」「20代、30代、40代、50代、60代、何十歳代でしておくべきことはこうで、何十歳代はこうあるべきで、それが当たり前で、普通はそういうもので、人とはそういうものです」。わたしはあるべき姿になろうとします。「そうすべき、そうしなければならない」と思い込んでいます。本心からそれを求めるというよりは、追い立てられるような気持からそれを求めます。わたしの心の軸はわたしにはありません。外側にあります。それだけでもわたしにとっては息苦しいものです。あるべき姿になれないわたしは焦ります。自分だけが置いて行かれるような気になります。「人はみんな違う。それぞれの人生がある」。その事実はわたしには見えません。わたしには気休めの言葉にもなりません。わたしは次第に劣等感や後ろめたさを覚えるようになります。自己嫌悪に陥るようになります。自己否定するようになります。自分に力を感じられなくなります。場合によっては外に出ることさえ難しくなってしまいます。

わたしがここでしていることは何でしょう?わたしは他人や社会の求める理想像、価値観、「あるべき姿」と言われるものを「当たり前だから、常識だから」と無条件に認めています。それは時代や場所が変われば変わる流動的で相対的な価値です。わたしにはその事実が見えません。わたしはその価値を固定化し、絶対化し、心の中に引き受けます。わたしはさらにその引き受けた価値基準から外れて、苦しみます。そもそも社会の内側にいるわたしが守ることは社会の様々なルールや法律です。他人や社会の求める理想像、価値観、「あるべき姿」と言われるものではありません。わたしにはその事実が見えません。

社会の様々なルールや法律の及ぶ範囲は特定の振る舞いに関することです。それらの振る舞いが「べきこと」であり、「ねばならないこと」であり、義務と呼ばれることです。それ以外は自由です。特に心の中は自由です。どれだけ偉い人の発言であろうと、常識であろうと従わなければならないものは何もありません。

自由だったはずの心の中に、「べき」「ねばならない」を引き受けた時にわたしは苦しみます。心の中に引き受けなければならない、「べきこと」「ねばならないこと」は存在しません。自我と同化したわたしは実在しない「べきこと」「ねばならないこと」を実在するように見て、心の中に引き受けます。自我と同化したわたしは「べき」「ねばならない」の多い人生を歩むことになります。それは不自由な苦しみの多い人生です。

 

道徳 品格

この世界は元々価値や意味を持たない存在の世界です。社会に存在するわたしたちは法律をはじめとするルールを守ってさえいれば、何をしてもいいのでしょうか?道徳はどうなるのでしょう?道徳は少し変わっています。法的拘束力がありません。「道徳的であるべき」「道徳的であらねばならない」「道徳的であれ」と相手に求める時、それはもはや道徳とは呼べません。社会の内側に存在するわたしたちが守るべきこと、守らなければならないことは法律をはじめとする社会のルールです。それ以外に守るべきこと、守らなければならないことは存在しません。「べきこと」「ねばならないこと」ではないにもかかわらず、「べき」「ねばならない」と言って相手に求める時、それは嘘をついていることになります。理不尽な暴力とさえ言えます。それは道徳ではありません。

品格も同じようなものかもしれません。相手にそうあって欲しいと期待はしても求めるものではありません。「そうあるべき」「そうあらねばならない」と言って相手に求める時、それはもはや品格のある行いとは言えません。

 

良心

それでは道徳や品格は存在しないのでしょうか?それらは存在します。わたしには良心があります。わたしにとってそれらは本能的なものです。この世界もそれらを知っています。「天網恢恢疎にして漏らさず」と言うのはそのためです。たとえ罰せられることはなかったとしても、逃げ切ることはできません。それなりの代償を払うことになります。 

わたしは知っています。嘘をつくことがどういうことなのか、嘘も方便だということも知っています。裏切ることや他人や何かを傷つけることがどういうことなのか、独占することや分け合うこと。自分や相手を大切にすること。思いやりや優しさ、勇気、真剣であること。素直になること。みんなで楽しむこと。ひたむきに努力すること。過ぎてしまえば及ばないこと。美しさ、綺麗にすること。時には上手くやること。ケチであること。恥をかかせること。耽ることはどういうことなのか、何が良くて、何が悪いのか、気持ちのいい人とはどういう人を指すのか、器の大きな人とはどういう人を指すのか、何をすればいいのか、どこへ向かえばいいのか、わたしはそれらの価値と意味を知っています。それらは誰かから直接教わったことでもあります。人生を通して色んな人の姿から学んだことでもあります。それと同時にそれらはわたしが元々知っていたことでもあります。何も知らないわたしがそれらの価値や意味を理解できる訳がありません。

 

事実を飛躍させるワタシ

わたしはそれらの価値や意味を知っています。それでもそれらは「べきこと」でも、「ねばならないこと」でもありません。わたしがそれらを理解し行動に移すのは、「そうすべきだから」「そうしなければならないから」ではありません。「そうした方がいい」と思っているからであり、そうしたいからです。それらは「そうあって欲しい」と相手に期待をしたり、「そうした方がいいかもしれないよ」と相手に勧めたりはしても、「べき」「ねばならない」と言って相手に求めるものではありません。

自我には、「わたしに事実を見せない。わたしに実在するものを見せない」という特有の性質があります。自我は事実を飛躍させます。事実の飛躍はもはや事実ではありません。

自我と同化したわたしはその事実の飛躍に気づきません。わたしには良心があります。それは確かに存在します。それでもわたしの良心にあること、良心からもたらされることは「べきこと」でも、「ねばならないこと」でもありません。義務ではありません。失ってしまった自由な心を取り戻すには、その事実を今一度自覚する必要があります。

 

自由な心を取り戻す 

社会は自然界なしには存在できません。わたしたちは社会に存在していると同時に自然界に存在しています。自然界は価値や意味といった情報を持たない、存在の世界です。その世界に敢えて作られたのが社会です。社会は設定された価値や意味の世界です。乱暴な言い方をすれば社会は必要性があったからとは言え、この世界は本来価値や意味を持たない存在の世界であるという、その事実に反して敢えて設定された価値や意味の世界です。「何もないところに何かが設定される」、その過程、そこで起きた事実は自覚しておいた方が良さそうです。なぜなら自我と同化したわたしは事実ではないことを事実のように見ます。わたしは事実と事実ではないことの区別さえつきにくいからです。その上わたしはとても忘れやすいからです。自由なはずのわたしの心が必要以上に不自由を感じているのはそのためです。社会には守るべき法律とルールがあります。その法律とルールが適用される範囲は特定の振る舞いに関することです。「べきこと」「ねばならないこと」、義務はそれらに限ります。その他は自由です。社会の中でありのままの自分を生きることは時に難しく感じられます。それはわたしが自我と同化しているために事実が見えずに、心の中にまで「べき」「ねばならない」を引き受けているからです。

わたしは人目が気になります。体裁を気にします。高尚な生き方や低俗な生き方があると思い込んでいます。わたしは他人や社会の求める理想像、価値観、あるべき姿が存在すると思い込んでいます。わたしはそのあるべき姿から外れて苦しみます。自信を失います。自分に対して無価値感を覚えます。自分に力さえ感じられなくなってしまいます。わたしはやがて他人や社会と接触を持つことさえ難しくなってしまいます。

「逃げるべきではない、逃げてはならない」と思い込んでいるわたしは、社会人としての自覚、自分の置かれた社会的立場や責任から逃げ場を失います。精神的にも肉体的にも追い込まれてしまいます。最悪の場合、自分で自分の人生にピリオドを打つこともあります。

心の中に引き受ける、「べきこと」「ねばならないこと」は存在しません。道徳や品格であっても、「べきこと」「ねばならないこと」ではありません。それでも何でもいい訳ではありません。わたしには良心があります。わたしは人生を通して何が良くて、何が悪いかを学びます。同時にそれらは元々わたしが知っていたことでもあります。それでもそれらは「べきこと」でもなければ、「ねばならないこと」でもありません。わたしの心を必要以上に縛り付けて、わたしを不自由にするものではありません。わたしたちはその事実を改めて自覚する時に来ているようです。心を解放して唯一無二のわたしたちを生きる時に来ているのかもしれません。心の中はわたしたちが社会を築く前から存在していた自然界のようです。そこには自由があります。そこはありのままのわたしたちが生きられる世界です。