事実の力 実在する力 

心の苦しみから抜け出してわたしを生きる    Taro

2章 自由な心を取り戻す4

4全体の問題としてのワタシ

 

負の感情は連鎖する

単なる自己意識を越えた、特有の性質を持った自我は個人を越えて影響します。自我からの行動は他者の自我を刺激して同調させます。怒り、悲しみ、不安、恐れ、後悔、負の感情は感情を抱いている当人を越えて、周りにいる他者にも影響します。

例えば車の運転中に無理な割り込みをされることがあります。それまで穏やかな気持ちでいても、瞬間的に怒りの感情が湧き起こります。しばらくの間相手に反撃をしたい衝動に駆られます。

騒音を上げて暴走するバイクの音に苛立つこともあります。単に大きな音に対して苛立つ訳ではありません。怒りからの行動は他者の怒りを誘います。わたしたちはたとえ一定の距離があったとしても他者の自我を感じ取ることができます。

自我からの言葉、ぼやきや嘆きはその言葉の内容が聞こえなかったとしても、その人が発した言葉のトーンでさえも他者の自我を刺激して、同調させます。

口論をしている二人を見ていても分かります。二人のうちのどちらか一方が大声を上げて怒鳴りつけます。すると今まで落ち着いていたもう一人も同調して、大声で応えます。

 

自我の一塊 道徳の系譜

わたしの自我と隣人の自我が、隣人の自我とそのまた隣人の自我が、わたしたちの自覚を越えて繋がり合うのかもしれません。自覚を越えた自我の一塊を形成しているのかもしれません。その一塊が社会の根底にあります。社会を取り巻く雰囲気のようなもの、「べき」「ねばならない」という観念がわたしたちの心から自由を奪います。

道徳が仮に「べきもの」「ねばならないもの」であるとすれば、その道徳を作り上げ、定着させているのは個人を越えた自我の一塊かもしれません。そうでもなければ事実ではないものがここまで社会に浸透するとは思えません。わたしたちの心を縛り付けるものはありません。わたしたちが守るべきこと、守らなければならないこと、従うべきこと、従わなければならないことは法律をはじめとする社会のルールです。それは心に適用されるものではありません。一定の振る舞いに適用されるものです。心に引き受ける「べきこと」「ねばならないこと」は実在しません。わたしたちには良心があります。何が良くて悪いかは分かっています。それでもわたしたちの良心にあること、良心からもたらされることは「べきこと」でもなければ、「ねばならないこと」でもありません。

自我は事実を飛躍させます。事実ではない物事を事実のように、実在しない物事を実在するようにわたしたちに見せます。心に引き受ける「べきこと」「ねばならないこと」は実在しません。それにもかかわらずわたしたちは実在するように見て、心の中にまで引き受けます。

社会に浸透した理由は他にもあります。「集団を壊す者が現れるかもしれない。集団を維持できないかもしれない」という恐れです。その個人の恐れを越えた全体の恐れがあったからかもしれません。その恐れもまたわたしたちの自覚を越えています。

他者に「道徳的であれ」と求める時にそこにはどんな感情があるでしょう?「道徳を使って相手を抑えたい。相手をコントロールしたい」という気持ちが、心の深層に少なからずあるのではないでしょうか?その感情の出所も恐れの出所も同じです。個人を越えた自我の一塊です。

 

自我は全体の問題にまでなっている

自我は切り離せないものからわたしを切り離します。実際に切り離す訳ではありません。意識の上で切り離します。

命なくしてあり得ないわたしが、「わたしの命」と言います。意識の上で命から切り離されたわたしが命を奪います。

自然なくしてあり得ないわたしが「自然はいいね。自然は素晴らしい。自然を相手にするのは大変だ」と言います。意識の上で自然から切り離されたわたしが自然を壊します。

優位に立つことで喜びを感じ、比較することでしか自己承認できない、途切れることのない脈々と続く繋がりが見えないわたしが、実在できない系統を故意に設定します。そして「わたしたちは他と違って優れている」と他者を差別します。

怒り、悲しみ、恐れそのものになったわたしが、事実が見えずに思い込み、憶測、仮想から暴走します。侵攻します。暴力を振るいます。

思い通りでなければ気が済まない、利己主義的なわたしが、搾取します。独占します。負の遺産を後世に先送りします。

命にも世界にも調和できない自我が命を奪い、世界を壊しています。自我はもはや個人の問題だけではありません。全体の問題にまでなっています。