事実の力 実在する力 

心の苦しみから抜け出してわたしを生きる    Taro

3章 唯一無二のわたしを生きる2

2心と現実の関係 

 

タイムラグ

ありのままの心で生きることは気休めや甘え、現実逃避ではありません。なぜでしょう?それは心の状態が現実に反映されるからです。心の状態と現実との関係に気づいているでしょうか?心と現実の関係が分かりにくいのは、そこにタイムラグがあるからです。

現実を作っているのは現在のわたしたちではありません。過去のわたしたちです。過去のわたしたちの心の状態が現在の状況である現実に反映されました。現在のわたしたちの心の状態がこれからやって来る現実、つまり未来に反映されます。今のわたしたちの心の状態がこれからやって来る現実に反映されるということです。心が現実を創ります。

 

広い意味での感情 背後にある感情

心の状態とは「広い意味での感情」「背後にある感情」と言ってもいいのかもしれません。生きる上でのモットーや信条、何をよしとするのか、あなたの価値観、価値基準、人生観、あなたの信じていること、あなたの信念の背後にある感情です。あなたの思い、考えの背後にある感情です。あなたの行動、習慣の背後にある感情です。

自分が持っている信念、思考、自分の行動、習慣が悦びからのものなのかどうか、それを自覚する必要があります。「人生というのは厳しくて辛いものである。人生は甘くはない」。こういう信念の背後にある感情は苦しみです。苦しみからの信念を無自覚に持っていれば、現実はそれを反映したものになります。他人の視線を気にしての行動や義務感からの行動であれば、その背後にある感情は悦びを伴っていません。今どんな心の状態にあるのか、それが重大です。何をするかが問題ではありません。自分がそれをしていてどう感じているかが問題です。

 

心の現実化は速まっている

今、心の現実化速度は上昇しています。それを感じるでしょうか?なぜ現実化の速度が上がっているのか、それは分かりません。それでも今が人類の進化にとって重要な時期にあることを多くの人たちは感じています。その人たちは地域や国を越えて繋がり、同じ情報を共有しています。インターネットの発達が人類の進化を促しています。そのことがテレビや新聞で伝えられることはありません。

心の現実化速度が上昇することは夢のようなことです。なりたいわたしたちになれます。ありのままの自分で生きて行けます。その一方で心の状態が負の状態であれば、その現実化も速まります。「べき」「ねばならない」の多い人、恐れの強い人、苦しみからの信念を持っている人。その人たちがどのような目に遭うかは明らかです。そのような人たちにとっては辛い時代に入ります。今、自分の心と向き合い、不要な信念、思考、感情を捨てる時に来ています。

 

現実は過去

今の心の状態がこれからやって来る現実に反映されることに気づけば、現実と格闘することは減ります。現実は過去のわたしたちの心の状態が反映されたものです。現実は過去の現れです。現実が気に入らなくてもそれは過去のことです。

現実と格闘する時にそこにはどんな感情があるのでしょう?もどかしさ、悔しさ、悲しみ、怒りでしょうか?今の心の状態がそれらの負の感情であれば、これからやって来る現実はそれらの感情を反映したものになります。今だけではなく、それらの負の感情をまた体験することになります。今の現実を変えることはできません。これからやって来る現実は変えられます。それは今の心の状態を変えることです。

 

二重取りする自我

自我の罪はわたしたちの現実を暗いものにすることです。わたしたちに負の感情をもたらし、負の感情に繋ぎ止め、わたしたちを苦しめ、わたしたちを弱らせ、堕落させます。罪はそれだけではありません。わたしたちが現実で苦しみを味わう時、同時にこれからやって来る未来までも苦しみで染めることになります。自我の罪はわたしたちの今を奪うだけではなく未来までも奪うことです。自我はわたしたちから幸せの二重取りをします。

 

見えるものよりも見えないものを信じられるか、当てにできるか

わたしたちにとって見えないものは価値を持たないも同然です。それに対して見えているものは絶大な力を持ちます。見えているものはわたしたちにとってのすべてと言ってもいいほどです。わたしたちに必要なことは現実に現れているもの、実在するものを重視することです。それでも見えている現実がわたしたちにとって辛いものである場合、その現実に囚われて苦しんでいては、悦びのある未来はやって来ません。よりよい未来を築くために必要なことは今に悦びを感じることです。見えている辛い現実に囚われるよりも、「見えていない未来がよいものになる」と信じて、現実に悦びを感じることです。それはわたしたちにとってとても難しく感じられます。何も見えていないものを疑いの心を入れずに信じた上で、悦びを感じられない現実に「悦べ」と言うのは修行のようなものです。それでもそれがこの世界の仕組みです。異議を唱えたところで何も変わってはくれません。わたしたちが世界の仕組みに沿うより他に方法はありません。

世界はわたしたちの心を読みます。「心」というよりも「本心」と言った方が適切かもしれません。いくら口先で感謝の言葉を唱えても、本心からの感謝でなければ何も変わりません。世界は口先の言葉ではなく、心の表層からの言葉でもなく、心の深層である本心からの言葉を読みます。そのために誤魔化しや嘘は通用しません。

本心の力や信じる力も見えないものです。本心と世界との繋がり、信じる力と現実化の関係。それは科学的根拠のないものです。それでも何もない訳ではありません。体験すれば分かります。科学的アプローチをする現代のアスリートでさえも、過酷なトレーニングを積んで試合に臨む際にはこう言います。「自分を信じて」。どんなに偉大な選手でもこの言葉を口にします。それが科学的根拠のないものであっても、その力を感じて知っているからです。

「見えないものは信じられない」「心の力は信じられない」「科学的根拠のないものは信じられない」。そう言う人が沢山います。その人たちは一方でこう言います。「誠意が感じられない」「意気込みが感じられない」「思いやりがない」。「あの人は薄情だ」「愛情が無くなった」「寂しい」「わたしを信じて欲しい」。わたしたちは心の力をちゃんと知っています。それが科学的根拠のないものでも信じています。

見えないものを信じられるかどうかが鍵です。それでも一度体験として知れば、それがいくら常識や科学を越えていてもわたしたちにとっての事実になります。体験や経験にはそれだけの力があります。

 

心の状態を負から正に変えるには 感謝

今の心の状態が負の状態にある時に、心の状態を正の状態に変えるにはどうすればいいのでしょう?格闘しなければならないような現実に直面した時に、わたしたちは負の感情に捕らわれます。一時的に捕らわれても、耽らないようにする必要があります。わたしたちと負の感情を意識的に切り離します。負の感情を離れた所から見ます。「ああ、わたしに負の感情が現れているな」「またわたしを苦しめようとしているのだな」。負の感情に対するその気づきが負の感情を小さくしてくれます。

それから現実をよく見ることも大切です。「何もいいことがない」と思える現実でも何か見つかります。自我のなすがままにしないことが重要です。自我は否定的傾向、消極的傾向、悲観的傾向そのものです。自我と同化したわたしたちはある物事を否定的に、消極的に、悲観的に見ます。否定的で消極的で悲観的な色を黒だとすれば、ある物事を黒一色に染めようとします。事実をできる限り偏りなく、ありのままによく見て下さい。いいこと、明るい要素が見つかります。見つかったことがどんなに小さなことでも事実として受け入れて下さい。自我と同化したわたしたちは明るいものを見ようとはしません。暗いものに引きつけられます。自我の好きなようにはさせずに明るいものも事実として見て下さい。受けている恵みや学びを事実として認めて下さい。自我と同化したわたしたちは足りないものばかり見ます。在るものには目もくれません。「こんなものは大したものではない」と勝手に判断をしないで下さい。受けている恵みや学びを事実として受け入れて下さい。小さなものかもしれません。それでもそこに感謝が生まれます。事実をありのままに見ることが習慣化すれば、受けている恵みや感謝できることの多さに気づきます。その気づきが習慣化すれば心の状態は変わります。穏やかさの中にある気持ちの高まり、悦びを感じられるようになります。

 

意識のもたらす世界の凄さに改めて感心する

感謝することが難しければ感心することはどうでしょう?感心は感謝よりも強いものかもしれません。感心は驚きです。感心は感動ほど大きな驚きではありません。それでも日常で意図的に呼び起こすことができます。できるだけ意味や情報を与えずにあなたの世界をよく見て下さい。固定観念や常識、あなたの判断、解釈を極限まで減らして冷静に見て下さい。わたしたちは普段何かをすることに、何かを獲得することに意識が向いています。元々持っていたものに、意識そのものに意識が向くことはありません。世界がそこに存在して、わたしたちの意識がその世界を映し出すのか、わたしたちの意識がわたしたちの世界を創り出すのか、それはわたしたちには分かりません。なぜならわたしたちは自分の意識の外側に立つことができないからです。

いずれにせよそれはどちらでも構いません。あなたの意識がもたらす世界はよくできていませんか?あなたがどれだけ疲れていても、どれだけ体調不良でも、あなたの意識の世界は乱れもなく、欠落もなく、果てもないはずです。そこには完璧な世界が広がっているのではないでしょうか?「そう言えばよくできている」。そう思えないでしょうか?口に出す必要はありません。感謝も感心も本心からそう思えるかどうかです。

これからやって来る現実をよりよいものにしたいのであれば、自我がもたらす負の感情に捕らわれても、耽らないようにする必要があります。起こった出来事、実在する物事をできる限り偏りなく、ありのままによく見て下さい。どんなに小さなことでも受けている恵みや学びを事実として認めて下さい。そこに感謝が生まれます。

感謝することが難しければ、あなたの意識がもたらす世界をありのままによく見て下さい。普段は決して気にすることのない意識そのものに注意を払って下さい。「ヒトは最も神に似ている」と言われます。それはどういう意味でしょう?神に似ているというのは「完璧なところがある」という意味かもしれません。ヒトが持つ完璧なものとは何でしょうか?それは意識かもしれません。

 意識がもたらす世界で新しい命が生まれています。意識がもたらす世界にありとあらゆる命の営みがあります。意識がもたらす世界ですべてが変化しています。その変化は全体として見れば進化の中にあります。意識がもたらす世界で人智を超えたあらゆる法則が働いています。意識がもたらす世界で宇宙は拡がっています。

意識の凄さを実感した時に感心から来る驚きが生まれます。そこに穏やかさの中にある気持ちの高まり、悦びがあるはずです。その感情がこれから現れる現実に反映されます。これからやって来る現実は今から変えられます。今からしか変えられません。

 

わたしよりも信頼のできるものに委ねるということ 

今の心の状態がこれからやって来る現実に反映されることを知れば、今を大切にするようになります。実際に起きたことや実際に存在すること。つまり事実を重視して実在する世界に生きるようになると、頭の中の過去と未来は重要ではなくなります。わたしたちは今に生きるようになります。過去や未来、ここではないどこか、今の自分ではない誰かに向いていた意識が「今ここ」という一点に集中するようになります。「今ここ」という意識の空間を生きるようになれば人生がシンプルになります。心にゆとりが生まれます。

事実に沿った生き方は、「知らない、理解できない、把握できない、コントロールできない」という事実を認める生き方でもあります。幼い子は「わたしがやる!」と言って、できもしないことでも何でも自分でやりたがります。自我と同化したわたしも同じです。自分だけでやろうとします。それでもあまりにも巨大で圧倒的なものを前にした時にわたしは諦めます。諦めることを悲観したり、恥じたりすることもありません。もはや自分の力で何とかしようとは思いません。わたしはその状況に委ねることしかできなくなります。

存在としてのわたしたちはわたしたちの理解、意図、自覚を越えています。わたしは今どうやって生きているのか、今までどうやって生きて来たのか、それを説明することはできません。なぜ生きているのか、生命力とは何か、体の仕組みも心の仕組みも意識の仕組みも理解していません。把握していません。わたしはこの命をコントロールできていません。わたしはなぜか生きているのです。それが事実です。

わたしの人生は過去から未来へ進んで行きます。その中で様々な出来事が展開されます。瞬間、瞬間に出来事が起こります。誰かが現れて、何かが起こります。その具体的な出来事、現実はわたしが意図してもたらしたものではありません。なぜか現れた現実です。その出来事の展開、人生の流れ方はわたしの理解、意図、自覚を越えています。わたしはなぜか現れた現実から学び、成長します。

この世界では地球の内側でも外側でも様々なことが起きています。一瞬の停止も静止もなく、すべてが変化の中にあります。しかもその変化は全体として見れば進化の中にあります。すべてが生きています。わたしもその中を生きています。わたしは地球の内側で起きていることも外側で起きていることも把握していません。地球の外側のことなど理解することさえも不可能です。わたしの思考と感覚を完全に超越しています。それでもわたしの思考と感覚を遥かに越えた所で起きる変化、得体の知れない命の営みがあるために、この世界は今も存在し、わたしも生きていられます。

 

存在に生きれば気楽さが出て来る

 存在としてのわたしたちは人智を超えています。わたしたちの理解が追いつかなくても存在としてのわたしたちは理解しています。存在としてのわたしたちはいわば“全知全能”です。まだ科学では解明されていないこの宇宙の法則や仕組みを理解し、この世界にどう順応すればいいかを知っています。知っているだけではありません。まさに順応し、生きて、存在しています。

わたしたちは身近な既知の脅威に怯えます。それでも遠くにある未知の脅威には気づきもしません。理解と知覚が及ぶ範囲だけでこの世界が成り立ち、理解と知覚が及ぶ範囲だけで生きていると思えば、ヒトは深刻になります。それでも理解と知覚を越えた世界に存在し、わたしたちが人智を超えて存在していることを自覚すれば、気楽さが出て来ます。なぜなら人智を超えたことに深刻になっても仕方がないからです。わたしたちに起きる負の感情と思考に意識の重点を置くよりも、存在としてのわたしたちに意識の重点を置けば深刻さは和らぎます。

わたしは自分の生きる体も心も意識もわたしの人生の流れも、進化するこの世界のことも理解できていません。それらはわたしの意図と自覚を越えています。それでもそれらはわたしを生かし、わたしを守り、わたしを成長させます。わたしがいくら負の感情に捕らわれて苦しんでいたとしても、わたしを生かし、わたしを守り、わたしを成長させます。それらはわたしの負の感情を越えています。

わたしたちを生かし、成長させるもの。世界を生かし、進化させるもの。それらはわたしたちの手には負えません。わたしたちを越えた、わたしたちの外側にある巨きなものがわたしたちを存在させます。わたしたちがわたしたちを存在させるのではありません。その事実を自覚できれば、わたしたちは自分たちを当てにするよりも、自分たちの外側にある巨きなものを当てにするようになります。自分たちを越えた外側の巨きなものを信頼し、委ねるようになります。信頼できるものに委ねることができた時に深刻さは薄れます。気楽さが出て来ます。

今の心の状態がこれからやって来る現実に反映されます。思い描いた現実を意図してもたらすことも可能かもしれません。それでも思い描いた人や状況を意図してもたらすことはなかなかできません。現実はわたしたちの意図を越えています。思い描いたことの背後にある感情はこれからやってくる現実に反映されます。わたしたちの今の心の状態にゆとりや気楽さがあれば、これからやって来る現実はその心の状態を反映したものになります。わたしたちは今、ゆとりや気楽さを感じて過ごせているだけではなく、この次もゆとりや気楽さを感じて過ごすことができます。わたしたちの人生は以前よりもシンプルでスムーズになります。