事実の力 実在する力 

心の苦しみから抜け出してわたしを生きる    Taro

3章 唯一無二のわたしを生きる5

5天職 使命 

 

一番やりたいことではない場合もある

ありのままの自分を生きているうちに、言い換えれば穏やかさの中にある気持ちの高まり、悦びを追求して生きているうちに、天職や使命と呼ばれる仕事に出会う人もいるかもしれません。天職や使命と呼ばれる仕事は本心からする仕事です。その仕事がすでに世の中で確立されているものとは限りません。お金の発生するものとも限りません。「我を忘れて没頭できること。なぜかあまり労せずにできてしまうこと。それをしていて悪い気がしないこと。ありのままのあなたでできてしまうこと」。それが天職や使命です。天職や使命は自分の持っている自然傾向に沿った仕事です。それは必ずしも一番やりたいことではありません。やりたいことは心の表層で思っていることです。それは自覚している部分です。心の深層である本心はなかなか自覚できません。やりたいと思っていることと本心から欲していることは違う場合があります。始めはやりたいことではなくてもやり進めるうちに、「これが本心から求めていたことだ」と気づくこともあります。

わたしの場合は何かを敢えて身に付ける必要はなかったようです。人生を通して無自覚に学び、無自覚に得たものを言葉にすることでした。天職や使命は敢えて自分ではない他の誰かになることではないのかもしれません。わたしたちが唯一無二の自分でいる時に果たされる仕事かもしれません。

 

世界が応援してくれる生き方

この世界には不思議な力があります。世界が応援してくれる生き方があります。それはお金、地位、名誉といった物質を重視する生き方ではありません。他人や社会が求める理想像、価値観、あるべき姿。普通、平均、一般、標準、時代の流行り廃り。他人からどう見られるか、格好がつくか、自分ではない外側を軸にした生き方。自分ではない他の誰かになろうとする生き方でもありません。奉仕する生き方です。自分や誰かのためになる、人類や世界のためになる生き方です。それをする時に世界は応援してくれます。

わたしも不思議な体験をしました。わたしがこの文章を書いていた時です。わたしは文章を書くような時間的、精神的、経済的余裕のある暮らしではありませんでした。それでもこの文章を書き始めると不思議なことに纏まった時間ができるようになりました。わたしがこの文章を書く上で邪魔になることを取り除いてくれたり、わたしをサポートしてくれたりしました。それでもわたしが疲れてしまったり、心を弱くしてしまったりした時には、数字の羅列や目の隅を流れる光、形になりきらない形でわたしにメッセージを伝えてくれたり、励ましてくれたりしました。わたしの進む道を形に見えない形で示し、導いてくれたのです。

わたしは人生を通して本心のわたし、ありのままのわたしを知ろうとして来たのかもしれません。それは知ることよりも寧ろ思い出しに近いことかもしれません。わたしには良心があります。それは生まれながらに持っていたものです。本心のわたし、ありのままのわたしとは、良心から生きるわたしのことかもしれません。

この世界はコントラストでできていると言われます。人は対照的な一方を知ることで初めてその反対側を知るのかもしれません。例えば反抗期に手に負えなかった青年が立派な大人になります。人は暴力や暗いものに魅せられる時期があっても、「このままではいけない」とやがては立ち直り、光を求めて歩み始めます。現実に打ちのめされて絶望し、永い間うずくまったままでいても、やがては立ち上がり、光を求めてまた歩み始めます。口先で「暴力がなくなることはない」と言っても、本心では平和を求めています。わたしたちは闇を体験することで光の在り処を明確にし、愛の不足した体験をすることで愛の在り処を明確にしているのかもしれません。

わたしたちは光のある方へ、愛のある方へ向かいます。それはわたしたちが元々光そのもので、愛そのものだからかもしれません。本心からの望み、それは言い換えれば光と愛からの望み、良心からの望みかもしれません。それを行動に移す時に世界は後押しをしてくれます。

 

わたしを唯一無二のわたしにしたのは誰か

天職や使命は特別な仕事ではないのかもしれません。わたしたちが唯一無二のわたしたちであること。そのこと自体がわたしたちの天職であり、使命かもしれません。

わたしを唯一無二のわたしにしたのは誰でしょう?わたしではありません。両親でもありません。誰がわたしを他でもないこのわたしにしたのでしょう?考えてみれば不思議なものです。同じ人が何人かいても構いません。それでも同じ人はいません。「唯一無二である」ということは、わたしを唯一無二のわたしにしたものから、わたしに与えられた仕事かもしれません。「唯一無二のわたしを生きる。違いを持ったわたしを生きる。わたしに備わった自然傾向に沿って生きる」。そのこと自体が仕事です。「仕事」というのはその字の通り、「仕え事」です。お金を稼ぐだけの労働ではありません。わたしが唯一無二のわたしに仕えます。わたしたちが唯一無二のわたしたちに没頭し、専念します。その時にわたしたちを唯一無二のわたしたちにしたものの意図は果たされます。

 

自覚を越えた集合意識を生きる

わたしには自我があります。そのためにわたしは「自分でしている。自分でコントロールしている」「これはわたしの人生で、わたしの人生を生きている」、そう思っています。わたしたちには自由意志があります。自由意志からの人生があります。それはわたしたちの自覚している生き方です。それとは別にわたしたちの自覚を越えた生き方があるのかもしれません。それはわたしを構成する数十兆の細胞がそれぞれを生きていながら、同時に全体としての「わたし」という一つの意識を生きていることと同じです。わたしたちはそれぞれがそれぞれの日常に追われ、それぞれの幸せを追求して生きています。それと同時に自覚を越えた集合意識、全体を生きているのかもしれません。なぜならわたしたちは一見バラバラでありながら、全体は統一的なある方向性を示しているからです。例えばそれが進化という一つの方向性です。

わたしたちに自覚を越えた全体を理解することはできません。それでも意識的にその全体に参加することはできます。わたしたち一人一人がそれぞれに与えられた自然傾向に沿って生きること。それぞれが唯一無二の自分を生かしながら、成長し、創造的に生きること。それがわたしたちの自覚を越えた、全体に対する、この世界に対する仕え事の一つかもしれません。この世界は創造の力そのもの、進化そのものです。その世界の自然傾向に沿ってわたしたちが生きる時に、この世界の意志とわたしたちの意志は一つになります。

 

わたしはわたしのものか 背後にあるもの

全体を把握することはできません。それは人智を超えています。その全体をどう表現すればいいかも分かりません。それでもわたしたちを越えたわたしたちの背後にあるものが、わたしたちを唯一無二のわたしたちにし、わたしたちを生かし、成長させます。わたしたちの背後にあるものが世界を生み出し、世界を生かし、世界を進化させ、今も世界を拡げています。わたしたちの背後にあるものはわたしたちには見えません。それでも何もない訳ではありません。わたしたちには見えないだけです。

わたしたちを生かすものがわたしたちを通して生きています。経験します。わたしたちを使って仕事をします。形のあるこの現実世界に形のあるわたしたちを使って、形をもたらします。

わたしたちの心、体、わたしたち自身は誰のものでしょうか?わたしたちだけのものでしょうか?それをどう表現すればいいかは分かりません。言葉はそれを指す仮のものです。言葉や名前に拘る必要はないのかもしれません。わたしたちを生かし、成長させ、わたしたちを唯一無二のわたしたちにしているもの。わたしたちの背後にあるもの。目には映らない命、エネルギー、神、全体、世界。わたしたちはわたしたちのものであると同時に全体のもの、世界のものです。わたしたちは自我と自由意志があるために、世界の側から見れば暴走して来たのかもしれません。ようやく今が世界と調和して、一つになる時です。