事実の力 実在する力 

心の苦しみから抜け出してわたしを生きる    Taro

3章 唯一無二のわたしを生きる6

6繋がりを思い出す 

 

自立しながら繋がり合う個人

「みんなが同じで、同じ空間で同じ物を食べ、同じことをし、同じ悦びを分かち合う」。共有することは大切です。それも大きな悦びや学びのうちの一つです。それでもそれを人生や世の中の中心に据える考え方があるとすれば、それは自我から来る利己的な考え方かもしれません。それは幻想のようなものです。

自我は切り離せないものからわたしたちを切り離します。実際に切り離す訳ではありません。意識の上で切り離します。自我と同化したわたしは孤独でした。それでもそれは孤独感です。孤独でいることは不可能です。繋がりなしに生きることはできません。「わたしたちは唯一無二の存在である。多様である」。その事実に沿った生き方は孤独を感じるかもしれません。なぜならそれは個人が個人の信念を生きる世界だからです。「夫がああ言ったから」「親がああ言ったから」「著名な誰かがああ言ったから」。それは通用しません。自分を悦ばせることができるのは自分だけです。他人に悦ばせてもらおうと期待しても無駄です。一人一人が精神的自立を求められます。それでも繋がりを断つことはできません。それぞれが個人を生きることを生活の中心としながらも、共有するところは共有する生き方です。

わたしたちは繋がりながらもそれぞれが唯一無二のわたしたちを生かします。わたしたちは多様でありながら成長します。多様で高度に発達したものがわたしたちの手からもたらされます。世界は多様でありながら、創造性が飛躍します。わたしたちはパズルのピースです。世界は一枚のパズルの絵画です。わたしたちが輝けば世界も輝きます。

 

形に見えないものとの繋がり  

心と現実の関係、行動と現実の関係を体験的に知ると、わたしたちと世界との繋がりを知るようになります。それは目には映らない、形に見えない繋がりです。それでも確かに存在する繋がりです。

自我が薄くなれば繋がりを知るようになります。「繋がりを知る」と言うよりは、「思い出す」と言った方が適切かもしれません。自我と同化したわたしたちは繋がりに気づけなかっただけです。形に見えないものとの繋がりは世界との繋がりだけではありません。その繋がり方も人によって様々です。例えば見えなかったものが見えるようになる人がいます。見るものは目の隅を流れる光かもしれません。空を飛ぶ不思議なものかもしれません。今まで見えなったものはこの現実世界とは別の世界の存在を教えてくれます。形に見えない現実世界とは別の世界がこの現実世界を支えているように感じる人もいます。

 

全身全霊

言葉はそれを指す仮のものです。曖昧で幅のあるものです。言葉や言葉の持つイメージが固定化されると実態からかけ離れてしまいます。これはわたしの体験です。わたしにとっての事実です。魂や霊という言葉を聞いたことがあるかもしれません。あれは一般的なイメージや概念とは異なります。魂や霊は目に映らないもの、目に映らない命、目に映らないエネルギー、そのくらいの意味で捉えた方が適当かもしれません。

自我が薄くなれば気づかなかった繋がりを感じるようになります。例えば目の隅を流れる光を頻繁に見るようになります。その光はわたしに優しく接します。わたしを勇気付け、励ましてくれるようです。それはまるであの擬人化された天使のようです。

光とは別に導きを感じるようにもなります。その導きは度々現れるものではありません。日常に広く深く関わるようになります。その導きはわたしに直接的な言葉で語りかけてはくれません。それは直感的なサインとしてわたしにやって来たり、あらゆる形を使ってわたしに何かを伝えたりします。例えば閃きや直感としてわたしにアイデアを与えます。インターネット上のホームページやブログ、目に入る数字の羅列や耳鳴り、わたし以外の誰かと誰かの会話、テレビやラジオから流れるフレーズ、立て看板や広告の文字を使ってわたしにメッセージを伝えます。導きはそれ自体では形に見えません。それでも世界全体からやって来るような感覚があります。

その導きは時にわたしに対して強烈なプレッシャーを与えます。それはわたしにとってはとても厳しいものです。その時のわたしにはそのプレッシャーの意味が分かりません。「なぜわたしにそれをするのか?」と反論したい気持ちになります。それでも後になればわたしのためになっていたことに気づきます。わたしはその導きが誰よりもわたしを知っていることに気づきます。その導きはわたしの一挙手一投足、わたしの思考と感情を見ています。わたしがいつどこへ行くかも知っています。わたしはその目に映らない命がわたしよりもわたしであることに気づきます。ありのままの心から離れた時に起きた良からぬこと、「ありのままの心に戻りなさい」というあのサインをくれたのも、その目に映らないわたしだったのかもしれません。

自我が薄くなれば目に映らないわたしと生きるようになります。それまで一人で生きていた感覚が、共同で生きるような感覚になります。一般的に言われる「あの世とこの世」についての話や「人は亡くなると魂になってあの世に昇る」と言われる話。それらはわたしの体験とは異なります。これはわたしの解釈です。「全身全霊」という言葉そのものがわたしの仕組みを表しているのかもしれません。わたしは現実世界のこの世に肉体を持って生きています。それと同時に形に見えない世界、敢えて言えばあの世に形に見えない形、敢えて言えば魂や霊として生きています。そして肉体としてのわたしと魂や霊としてのわたしは繋がっています。肉体としてのわたしは魂や霊としてのわたしなしには生きることさえできません。肉体としてのわたしは無自覚のうちに、魂や霊としてのわたしから様々な情報を得ます。自我がその繋がりを意識の上で遮断していたに過ぎません。わたしはこれまで気づけなかっただけです。わたしは亡くなってから魂や霊になる訳ではありません。魂や霊は尽きるものでも、果てるものでもありません。魂や霊としてのわたしは生まれも死にもしない、永遠の存在かもしれません。

 

形の背後にあるものに気づけるか 学びの場

目に映らない命は形を通してわたしに伝えます。形のあるものなら何でも使います。文字でも数字でも、インターネットでもテレビでも、人でも現象でもあらゆるものを使います。わたしへのメッセージは形を通してどこからでもやって来ます。それでもわたしは表面的な形や常識に囚われます。形の持つ名前や信憑性といった情報に拘ります。わたしは「権威の発言だから、年長者の意見だから、誰かの発言だから信用できる」と考えます。形に囚われているうちは本質が見えません。その形のあるものを使っている、形のあるものの背後にあるものを感じ取る必要があります。それができれば、鳥や虫、花や子どもたち、常識では考えられない宇宙存在や超常現象からも学びます。寧ろそれらが重要なことを教えてくれます。常識を越えたところに重要な情報があるものです。隠されることもなく堂々と置かれています。それがこの世界の面白いところです。この世界のユーモアを感じます。

表面的な形や常識に囚われることがなくなれば、わたしに現れた出来事の意味が変わります。すべての出来事にわたしにとっての意味があることを知ります。仕事も結婚も表面的なことかもしれません。その背後にある精神的な学びがわたしの求めていたものかもしれません。学びの場は深い山の奥や立派な建物の中にあるとは限りません。日常全体にあるのかもしれません。人生全体が目に映らない命、魂としてのわたしから与えられた学びの場かもしれません。人生全体が魂としてのわたしの導きかもしれません。人生全体がわたしの教育者です。わたしたちは何かを学ぶために、ありのままのわたしたちを思い出すために、一時的にこの現実世界にやって来ているのかもしれません。

 

小さなミス 今ここへの微かなサイン

わたしはせっかちです。わたしの意識は今ここにはなく、先にあります。「先」と言ってもそれはわたしの空想です。実在するものではありません。わたしが焦ると今ここにある体もつられます。わたしはその時に必ず小さなミスをします。それは些細なことです。何かをこぼしたり、どこかにつまずいたり、何かをし損ないます。意識が今ここになくても、致命的なことにはなりません。それでも物事はスムーズに行きません。意識が今ここにないことを小さなミスは教えてくれます。意識が今ここにある時にどうして物事はスムーズに行くのでしょう?小さなミスはどうして「今ここにあれ」と教えるのでしょう?それは「今ここ」という意識の空間に今の常識や科学では測れない、重大な秘密が隠れているからかもしれません。「隠れている」と言っても、世界がそれを隠している訳ではありません。わたしたちの自我が実在するものに覆いをかけて見えなくし、鍵を掛けているだけです。

 

創造性の源泉と繋がる

自我が薄くなれば不思議な現象が起きることがあります。シンクロニシティと呼ばれる現象やゾロ目、意味を感じさせる数字の羅列を頻繁に見るようになるかもしれません。今まで見聞きしていた言葉が違った意味に感じられることもあります。例えば「自分が変われば相手も変わる」という毎日見ていた立て看板の言葉、人権啓発の標語が違った意味を持つようになります。

時間の感覚が今までと違って感じられるかもしれません。過去の出来事に対する解釈が塗り替わって行くのを感じます。自分が誤解や勘違いの中に生きていたことに気づきます。それは今を起点に過去が変わるようなものです。

鳥や虫、花や草木、空、星や月や太陽、わたしたちの手からもたらされた人工物、それらが鮮明に生き生きと感じられるようになるかもしれません。その時に自我があなたにヴェールを掛けていたことに気づきます。

できなかったことができるようになるかもしれません。物事がスムーズに運ぶようになるかもしれません。創造的なアイデアが閃きとして頻繁にやって来るようになるかもしれません。閃きや直感の重要性を認識するようになるかもしれません。今まで知らなかった自分を生きているかもしれません。それでもそれは元々持っていたものです。自然から与えられた固有の部分が、唯一無二の部分が引き出されて、伸ばされるのを感じるかもしれません。「今ここ」に意識が繋がることで創造性が飛躍するように感じられるかもしれません。

「今ここ」には特別な力があるようです。それは限界を知らない、湧き上がる創造のエネルギーです。「今ここ」からすべてが生まれます。「今ここ」から世界が拡がります。「今ここ」は命の源泉、創造性の源泉です。わたしたちは今までも「今ここ」にいました。それでもそこにはわたしたちの体しかありませんでした。わたしたちの意識は「今ここ」ではない過去と未来に、ここではないどこかに、今のわたしたちではない他の誰かに向いていました。自我が薄くなることで「今ここ」ではないどこかに向いていた意識が、「今ここ」にある体と繋がります。その時に扉は開きます。自我がわたしたちに鍵を掛けていたことに気づきます。扉の向こうには初めて見る見馴れた景色が拡がります。わたしたちが元々いた「今ここ」という場所、わたしたちの足元には創造性の世界が広がっていたようです。