事実の力 実在する力 

心の苦しみから抜け出してわたしを生きる    Taro

1章 心の苦しみから抜け出す

はじめに

 

 

今が進化の時

気づいているでしょうか?今、人類の意識が大きく進化している時かもしれません。今、世界の各地で自我の幻想から目覚める人たちが増えています。自我からの目覚めはもはや特定の人たちのものではありません。

自分が進化の中にあると思えるでしょうか?わたしは進化の歴史を知っています。それでもそれは机上で学んだ知識と教養です。自分の身に今それが起きているとは思っていません。わたしはほとんど完成していると思っています。進化の歴史も進化する世界もわたしには他人事です。それでもそれはあり得ません。進化から離れてわたしは存在できません。離れているのはわたしの意識だけです。わたしは進化していることに気づかないほど鈍感です。いや、「進化させているものの方が繊細で優しく、優れている」と言った方が適切かもしれません。わたしは抵抗感や違和感を覚えることなく自然に進化します。

進化の時は切迫しています。人類の進化、世界の進化、つまり全体の進化の前で個人の都合が聞き入れられることはないのかもしれません。見方によればこれまでも個人の犠牲を伴いながら全体は進化して来ました。それでも個人なくして全体もあり得ません。人類はできる限り全体で次の段階に向かおうとしているのかもしれません。今、一人一人がそれぞれのペースとやり方で自我から目覚める時に来ています。

 

囚われの身から飛躍するわたしへ

個人はパズルのピースです。全体は一枚のパズルの絵画です。個人が輝けば全体も輝きます。ここでは心の苦しみを抱えた個人がその苦しみから抜け出して、自由な心を取り戻し、唯一無二の存在者として飛躍するまでを追って行きます。

あなたは何かに苦しんでいますか?心の苦しみは減らせるかもしれません。心の苦しみの原因は外側にはありません。わたしたち自身の内側にあります。

人は誰しも何かを信じているものです。わたしは事実を、実在する物事を信じます。なぜなら事実と実在する物事には心の苦しみを解決する力があるからです。あなたはどうでしょう?あなたが事実ではない物事や実在しない物事、乱暴な言い方をすればあなたが幻を信じるなら、わたしの話はあまり役には立たないかもしれません。あなたは事実や実在する物事を選びますか?それとも幻を選びますか?あなたはどちらでしょう?

 

 

 

 

①わたしを苦しめるワタシ 

 

 

 

心の苦しみ

心の苦しみにはどんなものがあるのでしょう?怒り、悲しみ、不安や恐れ、後悔があります。焦りややる気が出ない気の重さ、怠惰もその一つかもしれません。わたしを苦しめる、わたしのためにはならないという意味では、それらを負の感情と呼んでもいいのかもしれません。

怒りの中には小さな苛立ちや激昂があります。それが起きる過程や原因は様々です。自分のやることが思い通りに行かない。他人の言動が思い通りにならない。些細なことに対して怒ることもあれば、暴力や命に関わるような重大なことに対して、不正や理不尽に対して、他人の身に起こったことや集団的なこと、全体的なことに対して怒ることもあります。今、起きた出来事に対して怒ることもあれば、過去の出来事を思い出して怒ることもあります。小さかった苛立ちが徐々に増大することもあれば、突発的な怒りが起きることもあります。

悲しみの中にも自分に価値を見出せない無価値感や惨めな気持ち、何かを失ったことによる喪失感があります。

負の感情は互いに関係し合うこともあります。自分に対する無価値感や惨めな気持ちが怒りに変わって、自分や他人に向けられることがあります。恐れが焦りや苛立ちに後悔が気の重さや惨めな気持ちに繋がることもあります。

そこで行われていることは過程や原因、形に違いがあっても、わたしたちを苦しめることです。わたしたちを苦しめているのは誰でしょう?他人でしょうか?状況でしょうか?それはわたしたちの中にある自我かもしれません。心の苦しみの過程や原因、形はあまり問題ではありません。あなたの心が苦しいかどうか、それを知ることが重要です。あなたの心が苦しいのであれば、あなたの中で自我が仕事をしているということです。 

 

自我

「自我が強い。自我が弱い。自我が薄い」。こういう言葉を聞いたことがあるのではないでしょうか?それらの言葉は何を意味するのでしょう?「わたし」という自己意識が強い、弱い、薄いということではありません。自己意識は強くなったり、弱くなったり、薄くなったりするものではありません。一定のものです。ただ他者ではない「わたし」という意識と認識があるだけです。「自我が強い。自我が弱い。自我が薄い」というのは「わたし」という自己意識を越えた、特有の性質を持った自我が強い、弱い、薄いということです。

それでは「自我からの目覚め」とはどういうことでしょう?それは「わたし」という自己意識を越えた、特有の性質を持った自我に気づくということです。今まで自分と思っていたものだけが自分ではないことに気づきます。今まで自分と思って来たものに苦しめられ、自分を乗っ取られて生きて来たことに気づきます。それが自我からの目覚めです。自我から目覚めたあなたは自己意識としての自我を持ちながらも、特有の性質を持った自我と容易く同調したり、同化したりしなくなります。あなたはあなたでありながらあなたの中にある、特有の性質を持った自我と適度な距離を取るようになります。

「自我」という言葉が分かりにくいのは、「わたし」という自己意識としての自我と、自己意識を越えた特有の性質を持った自我という、異なった二つの意味を持っているからです。

 

自分が何かに乗っ取られていると思えるか

ヒトは2、3歳頃から自我が芽生えると言います。その頃から「わたし」という自己意識を持つようになります。それだけではありません。同時に特有の性質も併せ持つようになります。自我が芽生えてから自我からの目覚めを経験するまでの間、わたしたちは特有の性質を持った自我を生きることになります。それはわたしたちと特有の性質を持った自我が一体化したような状態です。別の言い方をすれば、わたしたちは特有の性質を持った自我に自分を乗っ取られている状態です。生まれて間もなく自分を乗っ取られてしまいます。そのために自分が何かに乗っ取られているとは思いもしません。わたしたちが初めて特有の性質を持った自我に気づくのは、自我からの目覚めを経験する時で。

 

自己意識と自我

わたしたちには「わたし」という自己意識、自我があります。自我には自己意識を越えた特有の性質があります。その性質はわたしたちにとってはあまりいいものではありません。わたしたちを不幸にするようなものです。その性質はわたしたちが同調することでわたしたちの中でより強化されます。その性質がわたしたちそのものになったかのように、その性質とわたしたちが同化したようになってしまいます。

「自我特有の性質がわたしたちを不幸にする」「自我特有の性質はわたしたちが同調することでわたしたちの中でより強化される」。これらの言い回しは少し奇妙に感じられるかもしれません。わたしたちを不幸にするものがわたしたちの中にあります。わたしたちにはわたしとわたしを不幸にするワタシがいるのでしょうか?わたしたちには2つの自我があるのでしょうか?明確に分けることはできないかもしれません。それでも敢えて2つの自我に分けるとすれば、自己意識としての自我と、自己意識を越えた特有の性質を持った自我に分けることができます。

異なった二つの意味を持つ「自我」という言葉を、ここでは混同しないために表現方法を二つに分けます。「わたし」という自己意識としての自我を「自己意識」、自己意識を越えた特有の性質を持った自我を「自我」と表現して統一します。

 

起こすものか、起きるものか

 ところで感情や思考は起こすものでしょうか?それとも起きるものでしょうか?わたしたちは考えようとして考えます。それと同時に考えはやって来るものでもあります。感情の場合は特にそうです。感情は起こそうとして起こすものではありません。起きるものです。例えば恨みの感情や思考はやって来ます。恨もうと思って恨むのではありません。恨みは募らせようとして募らせるものではありません。募るものです。喪失感から来る悲しみも同じです。悲しもうとして悲しむのではありません。その感情と思考はやって来ます。わたしではない、それでもわたしの中からやって来ます。わたしたちの中に感情と思考をもたらすものがあります。

 

否定的傾向、消極的傾向、悲観的傾向そのもの

自我は総じてわたしたちを不幸にするようなものです。それでもその“やり方”や“形”は異なります。それは主に4つに大別できます。1つ目は自我の基本的な性質である、わたしを苦しめるということです。

自我はわたしたちの中でどこまでも大きくなります。どこまでもわたしたちを苦しめます。自我はわたしたちに負の感情が起きるようなことを見せます。負の感情が起きるように仕向けます。わたしたちを負の感情に繋ぎ止めようとします。この性質を持った自我は否定的傾向、消極的傾向、悲観的傾向そのものと言えます。

わたしには肯定的で、積極的で、楽観的なわたしがいます。自分や他人の幸せを願い、創造的であろうとします。その一方で、苦しみや暗いものに引きつけられるわたしもいます。自分を大切にしたいと思うわたしがいる一方で自棄になるわたしもいます。自我と同化したわたしはある物事を否定的に、消極的に、悲観的に見ます。否定的で消極的で悲観的な色を黒だとすれば、ある物事を黒一色に染めようとします。物事にはその解釈の仕方で、良い面と悪い面があります。一見状況や状態が悪いと思えることでも“収穫”と言える明るい要素はあるものです。それでも自我と同化したわたしは悪い面や暗い面だけを大袈裟に強調しようとしたり、物事を深刻にしようとしたりします。良くないことがいくつかあっただけでも、「何もかもが全部ダメだ」「全然ダメだ」と言います。

自我と同化したわたしは否定的で、消極的で、悲観的な物事に引きつけられます。かつてと違いテレビのチャンネル数は格段に増えました。スポーツ、芸能、映画、音楽、国内外の情報、歴史や文化、この世界には楽しいことや美しい物事が沢山あります。それでも自我と同化したわたしにはそういう物事が見えません。世の中の深刻な部分、社会の歪み、有名人のスキャンダル、不安を煽るような暗い情報に引きつけられます。自ら意識の焦点をそれらに合わせます。そして四六時中ぼやいたり、嘆いたり、腹を立てたりして過ごします。わたしには自由意志があります。怒りに囚われたその状態を抜け出すこともできます。それでもわたしはそこに留まり続けます。文句を言いながらもチャンネルを変えたり、テレビを消したりすることがなかなかできません。わたしは怒りの感情に繋ぎ止められてしまいます。

自我と同化したわたしは他人や社会に対して批判的で冷笑的です。褒めたり、感心したりすることはあまりありません。リラックスをしたり、笑みを浮かべたりすることもあまりありません。笑うことや楽しむことに対してどこか否定的です。体の具合が悪い訳ではありません。それでも険しい顔ばかりして過ごします。大らかさがありません。わたしの姿は神経質で縮こまったように緊張しています。

自我がもたらす負の感情になすがままにしていると負の感情に同調しやすくなってしまいます。最後には負の感情と同化したようになってしまいます。自我がもたらす負の感情は様々です。その様々なマイナス傾向を示すようになります。怒りっぽくなります。心配性になります。過去のことや失った物事に執着して心を弱くします。それらがわたしの性格や人格の一部になってしまうほどです。自我に乗っ取られてしまいます。自我がわたし自身になってしまいます。わたしは無自覚のうちに自我がもたらす苦しみを引き受けるようになります。わたしは無自覚のうちに不幸になってしまいます。

 

当人も周囲も誰もこの事態に気づけない

自我と同化したわたしは自我がもたらす負の感情に無抵抗のまま囚われます。例えば自我がもたらす負の感情には怒りがあります。怒りに同調したわたしは怒りに取り憑かれたようになります。わたしは物を破壊し、自分を傷つけます。他人に危害を加え、人間関係を崩壊させます。わたしには「自分が自分にとっても、周りの人たちにとっても悪いことをしている」「わたしは自分をダメにしている」と自覚しているわたしがいます。その一方で「もうどうなっても構わない」と自棄になるわたしもいます。初めのうちはまだ歯止めが利くかもしれません。まだ自分の状態を客観化し、無意識のうちに自分と自我とを切り離している状態です。それでも自我がもたらす怒りの感情になすがままにしていると、自分と自我とが同化したようになってしまいます。そうなってしまえば事態はより深刻化します。ますます暴力的になります。心を病んでしまう場合もあるのかもしれません。最悪の場合、自分や他人の人生を破滅させることもあり得ます。突発的な怒りから衝動的に、自分や他人の命を奪ってしまう可能性も出て来ます。

自我と同化したわたしは、怒りに囚われてしまう原因が自分の中にある自我だとは思いません。「わたしの生まれ持った性格や人格、過去の失敗やつまずきが原因なのではないか?」「わたしの置かれた環境や周囲の人たちに原因があるのではないか?」と考えます。周囲にいる人たちも同じように考えます。「あの子は優しいところもあるのにどうして暴力的なのだろう?」「自分たちに原因があるのではないだろうか?」「愛情が不足していたのだろうか?」と考えます。原因がそれらにある場合もあるのかもしれません。それらにはない場合もあるのかもしれません。自我と同化したわたしはストレスを発散しようとしたり、環境を変えようとしたり、怒りを抑える試みをしたりします。それで問題が解決する場合もあるのかもしれません。それでも根本的な解決には至らない場合もあります。「わたしの心の苦しみの原因はわたしとは別のものにある」「それはわたしの中にある特有の性質を持ったものである」。そのことを自覚するまで解決するのは難しいのかもしれません。

怒り、悲しみ、不安、恐れ、後悔、わたしたちに負の感情をもたらすのは誰でしょう?他人でしょうか?状況でしょうか?わたしたちでしょうか?負の感情は突発的に現れることがあります。例えば瞬間的に苛立つことがあります。それでもあまり長続きはしないはずです。負の感情に囚われ続けるのはなぜでしょう?負の感情にわたしたちを繋ぎ止めるのは誰でしょう?それはわたしたちを苦しめる性質を持った自我かもしれません。それと同時に負の感情を引き受けているわたしたちもそこにいます。わたしたちの中には負の感情に引きつけられやすいわたしたちもいます。そのためにわたしたちは自我と同化しやすいのかもしれません。

 

わたしと自我との間にある “微かな接点”

ところでわたしたちと自我は本当に同化しているのでしょうか?自我が負の感情をわたしたちにもたらします。わたしたちは負の感情を引き受けます。そこに“微かな接点”があります。

「わたしに負の感情が現れている」。そのことに気がつけるわたしたちもいるはずです。「わたしに負の感情が現れている」という気づき、「現れた負の感情に同調しやすいわたしがいる」という気づき、その気づきがわたしたちと自我との結びつきを弱くしてくれます。

 

わたしと心の苦しみを切り離す  

心の苦しみには色々あります。それが起きる過程も様々です。重要なことは心が苦しいかどうか、それを知ることです。わたしたちには幸いにも苦しみを感じる心があります。心が苦しいと言っているのなら、そこに自我が現れているということです。わたしたちに対して自我が苦しみをもたらしているということです。

これは乱暴な言い方かもしれません。それでもあなたと心の苦しみを意識的に切り離してはどうでしょう?あなたの心が苦しい時に、「わたしを苦しめる自我が現れているな」と考えてはどうでしょう?そうすることであなたは自我のもたらす苦しみに一時的に捕らわれても、耽ることは減ります。それと同時に心が苦しいと感じていたあなたと、別のあなたがいることも自覚できるようになります。そのあなたが存在としての自己意識を持ったあなたです。

 

 

②存在としてのわたし 

 

 

 

わたしの存在はわたしの手には負えない

「存在としての自己意識を持ったあなた」とは何でしょう?わたしはわたしの心や体、意識の仕組みを理解していません。わたしは今どうやって生きているのか、今までどうやって生きて来たのか、それらを説明することができません。わたしは自分を構成する細胞がいくつあるのか、その37億とも60億とも言われる細胞の数、そのような基本的なことさえも分かっていないのです。その細胞にあると言われる遺伝子情報。わたしに入ってはわたしを作り、わたしと共生し、わたしから出て行く100兆を越える微生物。それらがどういうもので、わたしの中で何をしているのか、心とは何か、心が体のどこにあるのか、意識とは何か、脳が意識を生み出しているとすれば、わたしが生きているこの意識の世界を脳のどの部分が生み出しているのか、それは脳を開いていくら調べてみても分かるものではありません。今どのくらいの血液を体のどこへ送っているのか、血液をどうやって作っているのか、骨や筋肉や皮膚、心臓や肺、肝臓や胃や腸、臓器の仕組みや今、何が行われているのか、わたしはそれらを全くと言っていいほど把握できていません。

わたしたちはなぜ生きているのか、生命力とは何か、それはどれほど偉大な学者や医者であっても答えに窮するはずです。人体に対する研究の新発見は現在でもなされています。つまりわたしたちの存在は、わたしたちの持っている知識や常識、わたしたちの理解、わたしたちの思考をすでに越えているということです。人類の知識、人智を超えてわたしたちは存在しているということです。

わたしは生きようとして生きている訳ではありません。わたしはこうしている間も無意識のうちに呼吸しています。わたしの心臓は無意識のうちに鼓動します。わたしはわたしの意図と自覚を越えて生きています。わたしはなぜか生きているのです。生きているところに「わたし」という自己意識があります。

 

わたしはわたしの思いを越えて生きている

わたしはわたしの思いとは別に、わたしの思いを越えて生きています。他人事のように聞こえるかもしれません。わたしは無知で無責任かもしれません。それでもわたしはわたしの理解、わたしの意図、わたしの自覚を越えて生きています。それが事実です。

怒りがあろうとなかろうと、悲しみがあろうとなかろうと、不安や恐れ、後悔があろうとなかろうとわたしは生きています。わたしはわたしに起きる負の感情とは無関係に生きています。

「存在としての自己意識を持ったあなた」とは、あなたの理解、あなたの意図、あなたの自覚、あなたに起きる負の感情を越えて生きている、存在しているあなたです。

 

 

③自分でしていると思っているワタシ   

 

 

 

思いを越えているわたし、思い通りのワタシ

なぜ生きているのか、生命力とは何か、それは理解しようとしても到底できるものではありません。存在としてのわたしはわたしの知識や常識、わたしの理解、わたしの思考をすでに越えています。わたしはこの命をコントロールできていません。わたしはわたしの思いを越えて生きています。その一方で「わたしは思い通りに生きている。自分の力で生きている」。そう思っているわたしもいます。なぜでしょう?それはわたしがある特有の性質を持った自我と同化しているからです。

自我には自己意識を越えた特有の性質があります。特有の性質には主に4つあります。1つ目は自我の基本的な性質である、わたしを苦しめるということです。2つ目は「自分でできる。自分でしている。自分でしたい」「思い通りにできる。思い通りにしている。思い通りにしたい」と思っていることです。この性質を持った自我は自分に固執し、自分を優先する傾向があります。一般的に言われるエゴイズムという言葉のイメージがこの自我です。自分勝手で自分の考えややり方に執着します。考えややり方を含めた広い意味での自分の持ち物と、自分の存在を重ね合わせます。他者との関係性で優位に立とうとします。そのことで喜びを感じ、満足感を覚えます。

1つ目の性質を持った自我、つまり否定的傾向、消極的傾向、悲観的傾向を持った自我は弱くても、この2つ目の性質を持った自我が強い人もいます。快活で肯定的、積極的で楽観的な人でも自我の強い人はいます。

 

捕らえるワタシ、捕らわれるわたし

自我と同化したわたしはあまり他者のことを考えません。会話の相手がどんな気持ちで自分の話を聞いてくれているのか、退屈していないか、苦痛を感じていないか、相手は忙しくないか、そのことをあまり考えようとはしません。仮に相手の気持ちや事情が分かっていたとしても自分の欲求を満たそうとします。わたしの話は会話というよりも一方的な話です。負の感情からのぼやきや嘆き、他者の批判です。自分の主張を延々とすることもあります。「わたしはこんなことも知っている」「こんなことも考えることができる」「あの人は間違っている。わたしは正しい」「わたしの話には説得力がある」。わたしは得意になって話し続けます。話が終わる頃に「はっ」とします。ヒートアップしている自分と相手との温度差、自分だけが延々と話をしていたことに気づきます。そこにわたしを捕らえる自我と捕らわれる(存在としての)わたしがいます。わたしは無自覚のうちに自我に囚われて身勝手な行動に出ます。

 

他人を尊重しない、他人を自分と同じようなものだと思い込む

自我と同化したわたしは思い通りにしようとします。そしてそのことに対してあまり自覚がありません。他人に意見を求める場面や「(何かを)しようか?」と尋ねる場面でも、一見他人に意見を求めているようで他人を尊重するようなことはしません。返って来た答えが気に入らなければ、相手をねじ伏せようとします。自我と同化したわたしは相手の意見に対してすぐさま、「というよりも」と切り返します。他人の意見を受けようとさえしません。相手が「何もしないでいて欲しい。このままでいいよ」と言っても、「いいじゃないか、やっておくよ」と手をつけようとします。後になってから「先日のあの件、こっちでやっておいたから」と言ったりします。本人に悪気はないのかもしれません。それでも相手に質問を投げ掛けておきながら、相手の答えそのものを認めないことは、相手の存在を認めないことと同じです。

自我と同化したわたしは他人の意見に耳を貸そうとはしません。耳を貸すのはわたしの認めた人の意見だけです。事がうまく行くかどうかよりも、他人を尊重することよりも、自分の思い通りにできるかどうか、自分の気が済むかどうかが優先されます。

自我と同化したわたしたちは自分の価値観が他人にも当て嵌まると思い込んでいます。例えば環境の違う家庭で生まれ育った夫婦が、価値観の違いからぶつかるのはそのためです。お互いが自分の持っている価値観が当たり前で正しいと思い込んでいます。相手の価値観を受け入れることがなかなかできません。

 

今の自分を保持しようとする

自我と同化したわたしたちは今の自分の考えややり方を保持しようとします。相手のいい所や自分の非をなかなか素直に認めようとはしません。

政治家や官僚、企業経営者や教育者、虚偽や隠蔽のニュースは連日世間を騒がせます。間違いを認められないのはなぜでしょう?素直に謝ることができないのはなぜでしょう?虚偽や隠蔽はモラルだけの問題ではありません。それは今の自分の考えややり方ではないもの、例えば相手の考えややり方、自分の過ちを認めることが自己否定に繋がると思い込んでいるからです。自分が自分であるところの大切な何かが、今の自分の考えややり方ではないものを認めることで、損なわれると思い込んでいるからです。それでも存在の世界で変化はありません。職を失ったり、地位や名誉を失ったりしたとしても、わたしたち自身は増えも減りもしません。

この傾向は個人だけに留まりません。集団でも同じことが言えます。この世界には学会や流派が乱立しています。様々な所に顔を出してみれば分かります。そのどれもが自分たちの主義や主張、自分たちで作り出した思考の枠組み、理論、理屈、やり方、方法を頑なに守ろうとします。他を認めるということはあまりしません。なぜなら他を認めることで自分たちの存在意義がなくなると思い込んでいるからです。他の方が優れている所もあります。他の意見も取り入れた方が質は高まります。それでも自前で賄おうとします。たとえ自分たちに至らない所があったとしても、なかなか認めようとはしません。変えようとはしません。変えた方がいいと思っていても保持しようとします。そこに無理や矛盾、過ちが生まれます。

 

怒る

自我は自分の思いを越えて生きている自覚がありません。自我は「自分の力で、自分で生きている」「思い通りにできる。思い通りにしている。思い通りにしたい」と思っています。自我と同化したわたしはよく怒ります。自分の行いや他人の些細な言動に対してさえも苛立ちます。相手のちょっとした仕草や言葉遣いが気に入りません。癇に障ります。それはわたしの思い通りではないからかもしれません。思い通りにならない時にもわたしたちは怒ります。それは「思い通りになって当然だ」と思っている現れかもしれません。

自我と同化したわたしは自分の考えややり方、広い意味での自分の持ち物と自分の存在を重ね合わせます。自分の仕草ややり方、自分の持ち物について他人から指摘されるだけで怒ります。「わたしを侮辱するのか!わたし(の人生)を否定するのか!」。「自分の存在そのものが損なわれる。否定される」と思っているわたしは、奪われた分を取り戻そうと必死になって抵抗し、反撃します。自分よりも弱い者から受けた行為に対しては抵抗したり、反撃したりはしません。例えば子どもに対しては反撃をしようという気持ちさえも起こりません。人は自分に力を感じられない時にも怒ります。

 

手に負えると思っているワタシ

自我は「自分の心や体、意識の仕組みを理解している。把握している。コントロールしている」と思っています。自我と同化したわたしはよく分析をします。到底理解できるようなことではありません。存在としてのわたしは人智を超えています。それでも気がつけば分析をしています。「わたしの体のあの辺がああなっていてこうなっていて、ああなっているに違いない」。分析をし始めても結局わたしは分かりません。分析も計画も大切です。何も考えずに生きることはできません。極論はするほどの価値がありません。それにしてもわたしはよく考えます。「よく考える」と言っても、わたしの考えは浅いものかもしれません。わたしは分かったつもりでいるだけかもしれません。

「無知の知」と言えばソクラテスを思い浮かべます。自分が知らないことを自覚していたソクラテスは、彼が接した賢者や知者と呼ばれる政治家や詩人、職人たちよりも自我とは同調しない、自我の薄い人だったのかもしれません。

自我と同化したわたしはコントロールしようとします。到底コントロールできるようなものではありません。それでもわたしは命を、人生を死さえもコントロールしようとします。わたしが人生設計をしたり、「終い方」「終活」と呼んで自分の最期を管理しようとしたりするのはその現れかもしれません。

自我と同化したわたしは自分の思考と知覚の及ぶ範囲がこの世界のすべてで、自分の思考と知覚の及ぶ範囲だけで世界が成立していると思っています。

わたしたちはコントロールしようとします。人智を遥かに超えたこの世界です。それでもわたしたちが世界の中心で、わたしたちが世界を動かしていて、わたしたちの手で世界は変えられると思っています。

 

自前でやろうとする、常識を越えられない

わたしの存在そのものがわたしの手には負えません。わたしの理解を越えています。それでも自我と同化したわたしは手持ちのものだけで賄おうとします。わたしの存在そのものが常識を越えているにもかかわらず、わたしにはその事実が見えません。わたしは常識だけで自分を理解しようとします。理解したつもりになります。わたしは相対的で流動的な常識を絶対化し、固定化します。わたしは既存の常識の内側に納まってしまいます。

偉業を成し遂げた人たちや素晴らしい仕事をする人たちに共通の言葉があります。「常識にとらわれずに」。偉人たちは出し惜しみをせずにコツを教えてくれます。それでもわたしはその言葉の重要性を感じ取ることができません。わたしはすでにあるものを習得しようとします。すでにあるものや教科書は間違いないと信じ切っています。

わたしは進化の途中にあるものに対して、それが完成されていないものであるにもかかわらず、「本来はどうなのですか?」「正しくはどうなのですか?」と尋ねます。進化の途中にあるものに、「本来は」「正しくは」というものは存在しません。わたしにはその事実が見えません。わたしは進化の途中にある常識を完成されたものとして見ます。わたしは常識を越えて考えることがなかなかできません。

 

 

④事実を見せないワタシ 実在するものを見せないワタシ

 

 

 

事実が見えない、実在するものが見えない

自我には自己意識を越えた特有の性質があります。特有の性質には主に4つあります。1つ目は自我の基本的な性質である、わたしを苦しめるということです。2つ目は「自分でできる。自分でしている。自分でしたい」「思い通りにできる。思い通りにしている。思い通りにしたい」と思っていることです。3つ目は「わたしに事実を見せない。わたしに実在するものを見せない」ということです。自我と同化したわたしたちにはなかなか事実が見えません、実在するものが見えません。

わたしは恩恵を受けています。感謝できることが沢山あります。それは事実です。それでもわたしには事実が見えません。常に満たされない気持ちでいます。わたしは四六時中不平不満を言ったり、愚痴を言ったりして過ごします。わたしは足りないものやないものを見ています。足りないものやないものを実際に見ることはできません。頭の中のイメージとして見ています。わたしがなかなか感謝できないのは、わたしが自我と同化しているために、実在するものが見えないからかもしれません。

わたしは今あるものに意識が向きません。例えばいつも献身的に接してくれたり、支えてくれたりする家族や身近な人です。あるいは今持っているものです。わたしの意識が向くようになるのはそれらを失った時です。喪失感に苛まれ、失ったものや実在しないものに囚われるようになります。わたしはそこでもまた同じことを繰り返しています。今あるものに意識が向かず、ないものに囚われています。

実在するものは見えます。実在しないものは見えません。それにもかかわらず自我と同化したわたしたちには実在するものが見えません。実在しないものが見えます。「実在しないものを見る」と言っても、頭の中の観念を見ているに過ぎません。

 

わたしの実在する今ここに意識がない

わたしたちは過去や未来へ行って生きることはできません。いつも今に生きています。その今は時計の中の今とは違います。時計の中の今は一秒が過ぎれば、また次の一秒がやって来ます。「今に生きる」とはその一秒一秒を今と認識して生きることではありません。わたしたちの認識する今とは意識の中の今です。それは時計の中の今と違って、幅のあるものです。例えば今、している作業がそれに当たります。

わたしたちが生きられるのは今ここという限られた唯一の空間です。それでも自我と同化したわたしたちは、今ここという実在する世界に生きることがなかなかできません。今ここにはわたしたちの体しかありません。わたしたちの意識はわたしたちが存在している所在地の、今ここではないどこかに、生きることのできない、実在することのできない世界にあります。例えばわたしたちの意識は頭の中の過去と未来、頭の中の目標や理想像の中にあります。

わたしの意識は実在しているここでは起きていない、どこかの世界に釘付けになります。例えばわたしは一日中テレビを見て過ごします。わたしの実在しているここでは起きていない、テレビの向こう側で今起きているかも分からない、その情報に対して怒りを露わにします。わたしは誰かに対してするようにテレビに向かって怒鳴り声を上げます。

 

主体的に生きることができない

わたしたちの意識は、今ここに実在する唯一のわたしたちではない、他の誰かに向かいます。わたしは他者の言動や他者の人生の評価、判定に多くの時間と労力を費やします。評価や判定であればいい所を取り上げて褒めたり、感心したりしても構いません。それでもあまりそうはなりません。自我は否定的傾向、消極的傾向、悲観的傾向そのものです。自我と同化したわたしは他者の言動や他者の人生を批判し、否定し、鼻で笑います。相手を下げることで自分を優位にします。そこから消極的な満足感を得ます。

わたしは自分の人生に対してどこか従属的で、抽象の中を生きているようです。評論するその対象なしには存在できない評論家のように、わたしは主体的に具体的な自分の人生を生きることがなかなかできません。

 

恐れ 

問題は意識が今ここにないことだけではありません。あなたの意識が、あなたの実在しない世界に向かうことであなたが悦びを得るなら、寧ろそれは歓迎できることかもしれません。問題は今ここにないことで、実在しないことであなたが心の苦しみを抱えるということです。自我は今ここにないことで、実在しないことであなたを惑わし、あなたを苦しめます。

自我は事実ではないことを事実のように、実在しないことを実在するようにわたしたちに見せます。見せるだけではありません。そこに心の苦しみ、負の感情を添えることもあります。自我と同化したわたしたちは事実ではないことを事実のように見て、苦しみます。実在しないことを実在するように見て、苦しむのです。

それには例えば恐れがあります。自我と同化したわたしたちは頭の中にしかない未来のことを実在するように見ます。「頭の中にしかない未来」と言っても、その未来はわたしたちの空想に過ぎません。わたしたちは今起きていないこと、起きるかどうかも分からないことを実在するように見て、心を暗くします。それが恐れです。

 

未来を現在の延長と考えてしまう

恐れが起きる原因はわたしたちの思考の癖とも関係します。わたしたちは未来を現在の延長と考えます。それは必ずしも事実ではありません。未来は現在の延長であり、延長ではありません。

「まさかこんなことになるとは思いもしなかった」。わたしたちは予測が外れることを経験的に知っています。未来が現在の延長であれば予測が外れることはありません。それにもかかわらずわたしたちは未来を現在の延長と考えるのです。わたしたちは起きるかどうかも分からないことを起きるに違いないと決めつけます。それはわたしたちの無自覚のうちになされる、事実に基づかない思考の癖です。

 

急かすワタシ

恐れは焦りとも関係します。わたしたちは今を基準にして、起きるかどうかも分からないことを近い未来で起きると想定します。その想定は条件反射のように瞬間的に起きる恐れです。その恐れがわたしたちに焦りをもたらします。焦りが起きることでかえってわたしたちの行動や仕事は停滞します。わたしたちは思い通りに行かず、苛立ちます。

たとえ急ぐことを求められていなくても、焦りは日常的に起こります。わたしたちは何者かに急かされているような気持ちになります。他人が急かしている訳ではありません。状況が急かしている訳でもありません。わたしたちの中にある何かがわたしたちを急かします。わたしたちの意識の焦点を今ここから逸らそうとします。

自我と同化したわたしたちは、今、していることに腰を据えて取り組むことがなかなかできません。気持ちは先に先にあります。気持ちがそわそわして浮足立って来ます。落ち着くことがなかなかできません。安らぐことができません。

 

後悔

自我と同化したわたしたちは頭の中にある過去を実在するように見ます。わたしたちは今起きていないこと、実在しないことを実在するように見て「ああしておけば良かった」と心を暗くします。それが後悔です。

わたしたちの過去は必ずしも事実ではありません。わたしたちの過去は記憶と言ってもいいのかもしれません。わたしは二週間前の今頃に何をしていたのかさえも思い出すことができません。それほどわたしの記憶は曖昧なものです。記憶は印象とイメージによるところが大きいものかもしれません。わたしは様々な体験をしました。楽しい体験も嬉しい体験も沢山しました。幸せも経験しました。それが事実です。それでも否定的傾向、消極的傾向、悲観的傾向そのものになっているわたしは、数ある過去の記憶の中からわざわざ苦しみの体験を引っ張り出して来て、今ここで実在しない苦しみの体験を実在するように見て、また苦しむのです。

後悔はわたしたちの思考の癖とも関係しています。人生は選択の連続です。わたしたちは岐路に立たされた時に、いくつかある選択肢の中から一つを選びます。わたしたちは苦しい現実を体験する時に、「ああしておけばよかった」と後悔します。わたしたちの思考の“おかしさ”は自分が選択したものとは別の選択肢が、自分が想像したように存在している(存在していた)と考えるところです。何かを失っている現実、例えばパートナーや若さや健康な体を失っている現実を前に、「ああしておけば失わずに済んだ。今頃幸せに過ごしていたに違いない」と考えます。わたしたちは実在しないものを実在するように見て苦しみます。それでも実在しないものは実在しません。実在しないものを想像通りに実在すると考えることは事実に基づかないわたしたちの思考の癖です。

 

比較の中で自己承認する

心の苦しみには悲しみがあります。悲しみには比較の中で覚える自分に対する無価値感や惨めな気持ちがあります。自我と同化したわたしたちは誰かと比較することで自分の立ち位置を知ります。自己承認します。

わたしたちは誰かよりも優秀であろうとします。誰かよりも持とうとします。なぜでしょう?それはわたしたちが誰かよりも優位に立つことで喜びを感じ、満足感を覚えるからです。「誰かよりも優位に立つことで自分に価値が出て来る。自分の価値が上がる。自分が認められる」。そう思っているからです。もしそうだとすればわたしたちは自分よりも劣る人間、下位の人間、自分よりも持っていない人間をわざわざ作り出さなければ、満たされないのでしょうか?自己承認できないのでしょうか?

 

悲劇のヒロイン

優位に立つことができないわたしは、誰かよりも劣っていることで自己承認することもできます。「わたしは誰よりも劣ります。誰よりも持っていません。わたしはもう手遅れです。どうしようもありません。何て可哀想なわたしでしょう。わたしは悲劇のヒロインです」。わたしは惨めな気持ちになりながら、同時にどこかで喜びを感じています。誰かよりも特別であることに消極的な満足感を覚えています。

 

持ち物とわたしを重ね合わせる

わたしたちは何かを持ったり、失ったりすることでも自分の価値が上下すると思っています。例えば肩書き、順位、収入、家、家族、能力、学歴や希少価値のあるもの、ブランド品もそうかもしれません。体に関すること、若さや美貌、健康もそうかもしれません。

プロフィール欄に経歴を羅列する人がいます。「わたしは名門校出身です。中退です。首席で卒業しました。有力企業に在籍したことがあります。要職に就いていました。責任のある立場です。アドバイスや意見を求められる立場です。有数の権威から認められています。一番になりました」。あるいはこういうことをしきりに言う人がいます。「わたしは有名な誰それさんと親しい間柄です」「わたしは有力者の誰それさんと知り合いです」。これらは一体何を意味するのでしょう?ただ事実を伝えているだけかもしれません。それでもそこに別の意図はないでしょうか?「わたしは優秀です。わたしは力を持っています。わたしは特別です。他の人とは違います」。こういう意図がないでしょうか?あるいは自分を高く、大きく見せようとはしていないでしょうか?その人は自分の持ち物の価値と自分の存在価値を重ね合わせているのかもしれません。その人は持ち物を失えば、自分が損なわれると思い込んでいるのかもしれません。

 

わたしの価値とは何か

そもそも自分の価値とは何でしょう?それは実在するものでしょうか?わたしたちには生まれながらに価値があります。その価値は何かを持つことで上がり、何か失うことで下がります。わたしたちは価値を上げることで自己承認されます。何かを持つことで自分が認められ、何か失うことで認められなくなります。それは事実でしょうか?

できていたことができなくなるというのは寂しいものです。わたしは小さくなったような気持ちになります。自信がなくなります。自分を認められなくなります。能力や持ち物が足りないために他人から認めてもらえないのは辛いことです。その感情や誰かにテストされるような場面は存在します。それでもわたしの能力や持ち物、わたしに起きる感情と存在としてのわたしの間にはあまり関係性がありません。

誰かよりも優秀であったとしても、劣等であったとしても、理想のものを手に入れたとしても、大切にしていたものを失ったとしても、誰かに認められたとしても、認められなかったとしても、嬉しかったとしても、悲しかったとしても、自信を得たとしても、自信を失ったとしても、存在としてのわたしたちは増えも減りもしません。価値や情報という観念の世界や感情の世界で変化はあっても、存在の世界では何も変わりません。それが事実です。

 

思い込みの世界で苦しむ

自我と同化したわたしは他人に嫉妬し、自分を卑下します。わたしが嫉妬しているその人は実在するその人ではありません。わたしはその人のある一部分しか知りません。わたしはある一部分からその人のイメージを膨らませます。わたしは仮想したその人を見ています。わたしは実在しない思い込みの世界で実在しない仮想した相手と比較して、自分に対する無価値感を覚えたり、惨めな気持ちになったりします。

わたしがしていることは同じです。事実ではないことを事実のように見て、実在しないことを実在するように見て、苦しんでいるということです。

 

「みんな」を見せるワタシ

比較の対象は抽象的な観念である場合もあります。例えば「みんな」というものがそうです。「わたしはみんなよりも劣っている」「わたしはみんなよりも遅れている」。わたしたちはみんなと比較して劣等感を覚えたり、焦ったりします。「みんな」を観察してみれば分かります。「みんな」というものは実在しません。同じ人は一人もいません。それぞれ事情も違います。それが事実です。それでもわたしたちは同じではない人たちを同じように見て、それと比較して苦しみます。

 

ワタシの“おかしさ”

わたしたちは現実と頭の中ですることの区別がつきにくいのかもしれません。現実と頭の中の“物語”を混同します。実在しない物事を実在するように見ます。見るだけではありません。負の感情に囚われます。実在しない物事を実際に見ることはできません。頭の中のイメージとして見ます。問題はそのことに対する自覚がほとんどないということです。

冷静に考えれば、起きてもいない、実在しないことを考えて心を暗くするというのは少し奇妙です。なぜなら何も起きていない、実在しない訳ですから。それでもわたしたちは思い込みから嫉妬し、劣等感を覚え、焦ります。不安になり、心配し、恐れ、後悔します。そのことを当たり前のことだと疑う余地もありません。

自我の“おかしさ”は評論家たちの討論からも窺えます。経済や政治の評論家たちが出演しているテレビ番組があります。司会者と評論家たちが白熱した議論をしています。先ほど電撃的に行われた他国の首脳会談や、先日行われた自国の選挙結果について話をしています。どういう思惑で今回の会談が行われたのか?今後どういったことが予想されるのか?政府のトップシークレットとも言える情報です。専門家といえどもそれを知っている訳がありません。当事者ではない人たちが現場から遠く離れた場所で議論をします。

「何々党が選挙に勝っていたとしたら」「あの局面であの政治家があの発言をしていなかったとしたら」「その後の展開はどうなっていたと思いますか?」「今回何々党が勝ちましたが、何々政権ではまだ安泰とは言えないのではないでしょうか?」「何々の問題が懸念されます」「経済の先行き不透明感は一層強まっています」。

話の大半は「もしこうだったら」という仮定や推測です。仮定や推測の話が悪い訳ではありません。自分がしていることを自覚できているかどうかが問題です。話している人がどれだけ輝かしい肩書きを持っていたとしても、そこで話されていることがどれほど素晴らしい話に聞こえたとしても、そこで行われていることは空想の話です。

わたしたちは現在の状況を基準にして近い未来でそれが起きると想定します。それはわたしたちの思考の癖です。実際のところ未来は現在の延長とは言えません。「先行き不透明、先の見えない時代」というのは今も太古も同じです。それはとても自然なことです。わたしたちには一瞬先のことさえも分かりません。なぜならわたしたちは一瞬未来でも、一瞬過去でもなく、今という限られた唯一の空間にしか生きることができないからです。

わたしたちは頭の中で行う仮定や推測を現実で起きているように見ます。そうでもなければ教養の高い大人たちが仮定や推測の議論に終始したりはしません。「空想の話はそろそろ止めにしませんか?」とは誰一人言い出しません。それどころか知識人と言われる人たちが空想の話に夢中になります。起きてもいないこと、起きるかどうかも分からないことに終始するあなたがいるとすれば、それはあなたが自我と同化している現れかもしれません。

 

過去と現在と未来は同じか

 わたしたちには事実が、実在するものがなかなか見えないのかもしれません。またそのことに対する自覚もできていないのかもしれません。先程のテレビ番組の中である人が言いました。「これは前例のないことです」「過去から判断すると信用できません」「どうなるか疑わしいですね」。

わたしたちは過去を教訓にします。経験値を参考にします。過去に重きを置きます。それがわたしたちにできることです。それでも過去と未来は違います。前例ないものを拒めば世界は進化しません。この世界は前例のないものばかりです。過去と現在と未来の違いを自覚している人は、過去から判断して完全に退けたり、不必要に疑いの念に囚われたりはしません。わたしたちは過去や未来へ行って生きることはできません。いつも今にしか生きられません。未来のことは一瞬先のことでさえも分かりません。それが事実です。それでもわたしたちは事実を無視してまでも、事実に沿わない自分たちの思考を優先しているのかもしれません。事実を捻じ曲げてまでも未来をコントロールしたい、あるいはコントロールできると思っているのかもしれません。

 

唯一無二である事実を見せないワタシ

自我と同化したわたしたちには一人一人が違った存在であるという事実が見えません。わたしたちは同じようなものとして見ます。わたしはわたしで、あなたはあなたです。似ていても違う存在です。それが事実です。そもそも比較の対象を持たない存在だということです。それでもわたしたちはその事実を自覚することができません。

わたしは誰かとの間に存在する僅かな共通点に意識の焦点を合わせます。わたしはその僅かな共通点だけを取り出して大袈裟に扱います。わたしはその僅かな共通点だけで比較して優越感や劣等感を覚えます。わたしは全体が見えません、とても視野が狭く、近視眼的です。

わたしたちは誰かと比較することで自分の立ち位置を知ります。自己承認します。どうしてわざわざ誰かを用意しなければ自己承認できないのでしょうか?どうして「わたしはわたしである。唯一無二のわたしである」というその事実を受け入れることができないのでしょうか?自我と同化したわたしたちは唯一無二の自分を生きることができません。比較の中で生きるようになります。優秀であろうとします。比較の中で苦しみます。

 

普通、平均、一般、標準、観念を実在するように見せるワタシ

自我と同化したわたしたちには事実が見えません。わたしたちは唯一無二の人たちを同じようなものとして扱います。それはわたしたち自身に対しても同じです。わたしたち自身も同じようなものだと思って過ごします。

世の中には若くして亡くなる方が大勢います。その原因は様々です。わたしが仮に交通事故で夭折した人であったとします。夭折したわたしに平均寿命や「人生80年」という考え方や、「普通は」という話は何の関係性もありません。交通事故で亡くなったわたしにとって、死因の上位を占める国民病は何の関係性もありません。何万人に一人が罹ると言われる難しい病があります。その難しい病を患っている人にとって、「何万に一人」という確率の話は何の関係性も価値もありません。

わたしはわたし以外の他の者になることはできません。いくらわたしと近しい人でも、仮にわたし以外の圧倒的大多数が同じであったとしても、わたしとわたし以外の人とは根本的に違う存在です。それでもわたしにはその事実が見えません。わたしは他人と自分を重ね合わせます。重ね合わせるのは実在する他人だけではありません。自分を普通、平均、一般、標準という観念と重ね合わせます。わたしは固有の存在である自分を一般化して生きることになります。

わたしは一瞬未来でも、一瞬過去でもなく、今ここという限られた唯一の空間にしか生きることができません。わたしはやり直しや巻き戻しの利かない、過去から未来へと向かう時間の流れの中に生きています。一度きりの今ここという瞬間を生きています。わたしという今生、一回きりの具体的な個人を生きる上で、普通、平均、一般、標準とは根本的に関係性がありません。わたしは次の瞬間にどうなっているのかさえも分からないのです。わたしは次の瞬間にこの世からいなくなっているのかもしれません。それはいくら若くても、いくら年老いていても、屈強でも、病弱でも例外はありません。わたしは普通、平均、一般、標準とは無関係のわたしです。それが事実です。

 それでもわたしにはその事実が見えません。20歳のわたしは「人生はこれからだ」と言います。40歳を過ぎたわたしは「人生の折り返し地点を過ぎた」と言います。80歳を過ぎたわたしは「もう老い先が短い」と言います。いくつまで生きるかも分からないわたしがそう言います。わたしは事実が見えずに普通、平均、一般、標準の中を生きることになります。それはまるで事実を知らずに幻を見て生きるようなものです。

自我と同化したわたしは普通や平均、一般的なもの、標準的なものを追いかけます。それらは雰囲気のようなものかもしれません。実在するようで実在しないものです。乱暴な言い方をすれば幻のようなものです。わたしたちは二つとして同じではありません。唯一無二の存在者たちです。その当人たちではない第三者が、固有の存在者たちを頭の中で平均化したもの。それが結果的に現れた、普通の人、平均的な人、一般な人、標準的な人という観念です。それらの観念が先にあった訳ではありません。普通、平均、一般、標準をまさに体現している人がいた訳ではありません。唯一無二の、固有の存在者たちがいました。そして今もいます。それが事実です。それでもわたしにはその事実が見えません。わたしは普通、平均、一般、標準を追いかけます。わたしはいくら追いかけても掴めません。それらは頭の中にしか存在しない観念だからです。わたしは実在しない観念を実在するように見て追いかけます。固有の存在であるわたしはそれらの観念になろうとさえするのです。それは不可能なことです。わたしは自分を見失い、やがては疲弊してしまいます。

 

安定を見せるワタシ

 わたしは実在しない観念を実在するように見ます。例えば安定がそれです。わたしが見ている安定は留まっているものです。わたしは安定を求めます。それでも手に入りません。なぜならそれは実在しないものだからです。

この世界は諸行無常です。変化しないと思う物でさえも見えない速さで静かに朽ちて行きます。すべては移り行きます。それが事実です。一瞬の停止も静止もなく、変化しています。その変化は全体として見れば、進化の中にあります。停止や静止を知っているのはわたしの思考と感覚です。変化はこの世界の自然の姿です。それでもわたしは自分や他人の心変わり、決意の揺らぎ、人生の方向転換に対して抵抗感を覚えます。他人に対するものであれば許すことができません。

特にこの国では変化はあまり好まれません。転々とすることは悪いことだと思われます。長く続けることが良いことです。定住することが当たり前です。飽き性は悪いことだと言われます。それが望む生き方かと言えばそうは見えません。

わたしたちの思考と感覚、わたしたちのすることは事実、実在するもの、この世界、自然とどこか調和しません。

 

実在するものよりも思考に囚われる、理屈に囚われる 

思考は実在するものとは異なるという意味で当てにならないところがあります。それでもわたしは実在するものよりも思考に囚われます。

わたしは理屈に魅せられます。世界情勢を分析する評論家のその巧みな語り口に心を奪われます。彼らの言う「何々主義」や「何々イズム」、思考の枠組み、分類の枠組みが実際の世界に存在する訳ではありません。「何々主義」や「何々イズム」、その理屈が世界に働きかけるきっかけや、ある方向性を決めるきっかけになったとしても、それらが世界を動かしている訳ではありません。実際の世界はわたしたちには掴めません。知りもしない人たちの知りもしない人生と人生の繋がりが世界を作ります。人間だけではありません。ありとあらゆる命の営みが世界を作ります。

人間だけが世界から分離して人間の世界を作り上げることはできません。実際の世界がどうやって展開されているのか、それを知ることはできません。それを知るには存在するすべての視点、神の視点が必要です。それでも自我と同化したわたしは人間が世界を動かし、世界を変えられると思っています。自分のことも世界のことも知ることができる、理解することができると思っています。自我と同化したわたしは「真理は一つ」などと言います。生まれてから死ぬまで、自分の視点しか持つことのできないわたしが真理や真実を知ることは不可能です。それでも自我と同化したわたしはその事実を知りません。

わたしは科学を妄信します。得体の知れないものを突き付けられると反射的に反論します。「科学的根拠はあるのですか?」と。わたしにとって科学は完成されたものです。これ以上ない信頼のできる確かなものです。わたしは科学的根拠さえあれば納得してしまいます。科学的根拠がないだけで完全に跳ね除けてしまいます。わたしは忘れています。事実が見えていません。科学は完成されたものでも、固定化されたものでもありません。現在進行形の進化の中にあります。科学が世界を作った訳ではありません。医学がヒトを作った訳ではありません。医学がわたしを生かしている訳ではありません。世界もわたしも人智を超えてすでに存在しています。

存在するものが先にあります。そこから見出された法則性が理論や理屈です。その理論や理屈はわたしたちが作り出した道具です。それにもかかわらず、いつしか道具の方が中心になります。わたしたちは理論や理屈を通して存在する世界を見ます。理論や理屈を通した世界を生きるようになります。

わたしは理屈に囚われます。先に存在するものよりも後付けの理屈の方が重要になります。理屈が音楽や絵画を作った訳ではありません。製作者がいくら「理屈で製作した」と言っても出来上ったものは理屈を越えているものです。美しい音楽や絵画が先にありました。そこに法則性を見出して理屈を作りました。その理屈は存在しているものを過不足なく表現できるものではありません。それでも使えるものです。ここまでは問題ありません。問題はわたしが存在するものよりも理屈を重視するようになることです。

わたしは理屈を知らなければならないと考えます。「理屈を知らなければ音楽をやってはいけない。絵をやってはいけない」と考えます。理屈を知らないことに後ろめたさや劣等感を覚えます。わたしたちは先に存在するものよりも後付けの理屈に囚われます。その理屈はわたしたちが作り出した道具です。ヒトは自分で道具を作り出しておきながら、道具が主人のようになってしまいます。

 

道具が主人になる

道具がわたしたちの主人になるという例は他にもあります。お金、時間や曜日、ルール、あるべき姿、価値観、習慣や伝統です。

お金は物々交換の延長から生まれたものです。欲しいものを得るための手段が、わたしの不安や恐れと結び付いて目的になってしまいました。わたしはビジネスで「結果がすべて」と言います。「結果」と言うだけでそれがお金を指すまでになりました。わたしは今やお金集めのために生きているようなものです。わたしはお金の奴隷です。

腹の減らないわたしは「何時だから」と食べ物を詰め込みます。眠気に襲われているわたしは「まだ何時だから」と起きています。心と体が悲鳴を上げていても、社会人としての自覚と責任からわたしは逃げ場を失います。精神的にも肉体的にも追い込まれて行きます。理屈が生身のわたしよりも優先されるようになります。

伝統を作り出したのは今を生きるわたしたちと同じ人間です。それでも「伝統だから」という理由だけで後世の人たちは伝統に縛られます。今を生きる人たちよりも先人や伝統が優先されるようになります。伝統は見方によれば、先人の後世に対する支配でもあります。

 

存在するそのものが見えない

ヒトは存在するものに与えた意味や情報の世界を生きているのかもしれません。あるものをあるがままに見ることがなかなかできません。例えば太陽を見る時に太陽に与えた情報を見ます。「暖かい」「暑い」「赤く燃えている」「野菜や果物を育ててくれる」「光合成の役に立つ」「洗濯物を乾かしてくれる」。わたしは日常で太陽をそのようなものとして見ます。「太陽」という名前がすでに情報です。わたしは太陽を見る時に、「それが地球から約1億5千万㎞離れている天体で、水素とヘリウムからできていて、核融合反応が起きて、大量の水素が消費されてヘリウムに変わる過程で光と熱が生まれている」とは見ません。水素とヘリウムというわたしと同じように不安定な存在であるにもかかわらず、わたしは太陽の心配をしません。わたしは身の回りの些細なことは心配しても、遠くにある重大なことは心配どころか意識さえも向きません。わたしは太陽に全幅の信頼を寄せています。というよりも無関心、無自覚です。わたしはそこにあるものに与えた(与えられた)情報を見ています。

 

当てにならない思考と感情

自分が何をすればいいのか、何をすることが自分を大切にすることなのか、わたしはそのことを凡そ分かっています。それでもわたしはやる前から気が重くなります。やる気が出ずに億劫になります。やれば自分のためになることでも、今すぐできることでも、なかなか取り掛かることができません。わたしは横道に逸れてしまいます。自分の人生の本題ではないことに、怠惰に耽ってしまいます。怠惰は心の苦しみとまでは呼べないものかもしれません。それでもわたしたちのためになるものではありません。その意味でわたしたちを不幸にするようなものです。

取り掛かる前は難しく感じます。「面倒臭い。じっとしていたい。もう少ししてからにしよう。今度やろう」。特に不慣れなことに対しては余計に難しく感じます。「これをするにはあれくらいかかるだろう。これは難しいかもしれない。厄介なことになりそうだ。これは敵わない。どうしてわたしがこんなことをしなければならないのか?」。わたしは何もしないうちから起きてもいないことを考えます。嫌気がさして来ます。苛立ちます。苦痛を感じます。それでもわたしは仕方なく事に取り掛かります。やり始めはまだ気が重いものです。次第に気の重さは薄れています。わたしは没頭しているうちにいつしか事を終えます。現実は実際に行動を起こして、それに取り掛からなければ分からないものです。取り掛かる前の思考と取り掛かってから分かることは違います。実際に起きたこととは違うという意味で、わたしたちの思考は当てにならない所があります。気の重さや怠惰な気持ち、苛立ちも当てにならない感情です。過ぎてしまえばその感情を抱くほどではなかったことに気づきます。

それは恐れの感情と似ています。わたしは新しい仕事をする度に恐れます。「この仕事はうまく行くだろうか?わたしにできるだろうか?大丈夫だろうか?」。わたしは程度差こそあれ、必ず恐れの感情に捕らわれます。それでも「いつまで経っても仕事が終わらずに困った」という経験がありません。トラブルやアクシデントが続くことはあります。それでもどこかで収束します。わたしは仕事が終わらなかったことは一度もありません。それにもかかわらず、新しい仕事をする度に恐れに捕らわれます。

恐れは自覚していないだけで日常の至る所で起きています。外出すれば「まだお金があったかな?足りるだろうか?」と財布の中身が気になります。少し雲が出て来ただけで、「雨が降らないだろうか?大丈夫かな?」と心配になります。相手からの電子メールの返信が少し遅いだけで、「わたしは何か悪いことをしたのだろうか?あの時のあの言い回しはよくなかったのかもしれない」と不安になります。それでも恐れの指す内容と実際に起きたことが同じかと言えば、そうとは言えません。恐れの指す内容と実際に起きたことが一致するかどうかという意味で、恐れが持つ感情の精度はあまり高いものではありません。仮に恐れの指す内容と実際に起きたことが同じであったとしても、事が過ぎてしまえば恐れるほどではなかったことに気づきます。

 

忘却するわたし

事が終わる頃に恐れがいかに当てにならない思考や感情であったか、それは暴露されるところです。それでもそうはなりません。自我と同化したわたしはこの過程を振り返ることはありません。行き過ぎた恐れや懸念は無責任に起きるだけ起きて、それで終わりです。恐れの指す内容が起きる時に、わたしは何に恐れていたのかさえも忘れようとしています。そしてわたしはまた新しい恐れに捕らわれようとするのです。

自我と同化したわたしは離れた所からこの状況を見ることができません。わたしは自我のもたらす負の感情の罠に気づけません。そしてわたしは自我のもたらす苦しみにまた囚われるのです。

 

思考と感情の精度を自覚する

気の重さや怠惰な気持ち、不安や恐れの感情が現れた時に記録することをおすすめします。現れた日時、どういう感情で、感情の指す内容は何かを記録します。そうすれば感情の指す内容と実際に起きたこととの違いが明確になります。それらの感情がいかに事実とは異なるか、いかに当てにならない感情か、いかにわたしがそれらの感情に囚われやすいかが明確になります。それを自覚することで一時的にそれらの感情に捕らわれても、耽ることは減ります。

記録することで、気の重さや怠惰な気持ちに対してはそれらの感情に捕らわれても、とりあえずは行動を起こすことで解消できるようになります。行動はどんなことでも構いません。できることをやります。例えば朝の起きがけに感じる辛さ、気の重さは起きて一歩踏み出すことで解消されます。それと同じです。不安や恐れの感情に対してはそれらの感情に捕らわれても、「これもやがては過ぎ去る」と心に余裕を持てるようになります。あなたはあなたに起きるそれらの負の感情と距離を取るようになります。

 

声のない独り言、相手のいない会話

わたしを怠惰にさせるものに思考の流れがあります。わたしはこの声のない独り言、相手のいない会話をいつから始めたのでしょう?2、3歳頃から自我が芽生えると言います。ほとんど年齢と変わらないくらいの間続けて来ました。わたしは何かに取り掛かっていてもいつしか散漫になります。絶えず現れる思考の流れ、空想の世界に引き込まれます。それは人生の本題とは無関係の怠惰そのものです。自我はわたしの実在する、今ここにわたしの意識を集中させません。今ここから意識を逸らそうとします。

私的なことや他人のこと。過去のことやこれから起きるかどうかも分からないこと。現実的なことや突飛なこと。思考は脈絡がなく、ランダムに現れます。いつの間にか始まっています。相手のことをほとんど知らないわたしが、過去に起きた相手との些細な出来事に意識の焦点を合わせます。わたしは相手を判定します。批判し、否定し、見下します。そして「わたしの方が優れている」と言います。「あの一言、あの表情、あの態度が気に入らない」と言い、相手に反撃します。憎しみや恨み、怒りや不満の類は握りしめて離そうとしません。何度も執拗に繰り返します。食傷気味でウンザリしているわたしもいます。それでも止めません。起きたこと以上に話は発展します。

事実はどうだったのでしょう?あの時の相手はどういう意図だったのでしょう?あの一言もあの表情もあの態度も分かりません。わたしの想像に過ぎません。わたしが作り上げた相手と物語です。目の前にはいつも誰もいません。現実ではありません。事実でもありません。空想に過ぎません。

自我は事実ではないことを事実のようにわたしに見せます。実在しないことを実在するようにわたしに見せます。見せるだけではありません。そこに心の苦しみ、負の感情を添えます。わたしは思い込みや空想の世界で憎しみ、恨み、嫉妬し、怒り、悲しみ、恐れ、後悔します。それだけではありません。脈絡のない思考はわたしの中を四六時中流れています。わたしはまるでその思考の流れの中に生きているようです。わたしは脈絡のない思考に気づかないうちに捕らわれて、耽ります。わたしは人生で優先することを後回しにして堕落します。わたしの中を流れる止めどない思考の流れとわたしを捕らえて離さない負の感情、それらに比べれば街の喧騒でさえも静かなものです。自我が薄くなれば分かるようになります。この世界そのものはとても静かです。

自我はわたしたちに負の感情をもたらすだけではありません。わたしたちの日常全体に広く、深く影響を及ぼしています。

 

 

⑤正当性の中に紛れるワタシ

 

                            

 

負の感情にももっともなものがある

悲しみには大切なものや人を失ったことによる喪失感から来るものもあります。特に愛する人との生き別れや死別は辛いものです。その悲しみを時間が解決してくれるのかもしれません。他の何かが喪失感を埋めてくれるのかもしれません。それでもそれは一時的なものかもしれません。失った人を思い出してはまた悲しみに暮れてしまいます。喪失感から来る悲しみはもっともな感情です。その悲しみは失ったその人がくれた愛情や思い出の大きさを表しているものかもしれません。失った人にとっては失ったものが人生そのものだったのかもしれません。失った人にとってはこれからどうして行けばいいのかも分からない、絶望の淵に立たされたような、人生そのものが断たれたような気持ちになります。終わったことだからと気持ちを切り替えられるものではありません。それでも悲しみに暮れているとなかなか起き上がることはできません。気力を失ってしまいます。

恐れにももっともな恐れがあります。「大切な人の身に何か良からぬことが起きないだろうか?」と心配するのは当然のことです。体の調子が悪い時や深刻な事態に起きる恐れは自分のことであれ、他人のことであれ、自然な感情です。恐れは生命の危険に対するアラームです。わたしたちに備わった防衛本能です。

怒りの中にももっともな怒りがあります。理不尽なことをされて自尊心を傷つけられたり、理不尽な出来事を見聞きしたりして、怒りが湧かないのは寧ろ不自然です。病気や事故で体が思い通りにならない時や自分の力ではどうしようもない状況下で感じるもどかしさや苛立ち、憤りはもっともな感情かもしれません。

負の感情にもっともな理由がある場合、わたしたちの中でその感情は問題視されません。悲しむのが当然です。恐れるのが当然です。怒るのが当然です。それでも悲しみや恐れ、怒りの感情に耽ることは結果的に自我を喜ばせることになります。自我はその感情の正当性に紛れます。わたしたちは無抵抗のまま負の感情に繋ぎ止められてしまいます。

 

痛みと自我

痛みがすぐそこにある時に、わたしたちはより自我と同調しやすくなるのかもしれません。喪失感から来る心の痛みや、病気やケガから来る体の痛みを抱える時、体に負担がかかっている時、切羽詰まった状況下で心に余裕のない時、わたしたちに心身共に余裕がなく、わたしたちが弱体化している時に、自我はより勢いを増してわたしたちの中で大きくなることがあります。自我はいつもわたしたちのすぐ側にいて、気がつかないうちにわたしたちと同化します。

 

けしかける、強力にはびこる

自我はわたしたちを不幸にします。不幸になりたい人はいません。不幸にしようとする者が現れるとわたしたちは敏感に察知します。そこをかい潜って自我は上手くやります。もっともなことを持ち出して来て、わたしたちに見せます。わたしたちの正義感や自尊心につけ込んで、わたしたちをけしかけます。

例えばわたしから搾取する雇用主や甘い汁を吸っている人たち、理不尽な要求をしてくる知人や仕事上の取引先、顧客、同僚、政治の腐敗や官僚の汚職をわたしに見せます。テレビや新聞、インターネットのニュースを通して実際に見せることもあれば、頭の中を流れる思考として見せることもあります。「こんなに理不尽なことが起きている。こんなことが許されるのか?」「あいつはいつもわたしに仕事を押しつけておいて、わたしから奪っているじゃないか!これが怒らずにいられるか!?怒って当然だ」「さあ、怒りなさい!ぼやきなさい!嘆きなさい!」。わたしは気づかないうちに怒りに導かれます。わたしは口に出さなくても頭の中でこの話題を何度も繰り返しています。それでもわたしは怒りの状態に繋ぎ止められていることに気づきません。

理不尽に対する気持ちの抵抗感は凄いものがあります。不正や理不尽な出来事、人間関係はわたしたちの中で強力にはびこります。なぜならわたしたちの良心がそれを許せないからです。わたしたちは気づかないうちに不幸になってしまいます。

 

増長するワタシ

わたしは自分の正義感や自尊心の裏側で自分を苦しめていることに気づきません。いくらわたしの怒りに正当な理由があったとしても、わたしがそこでしていることは自分の心を暗くすることです。怒りは体にも悪影響を及ぼすことは知られています。体が悪くなれば人生も暗くなります。わたしがそこでしていることはわたしを不幸にすることです。わたしだけではありません。わたしの怒りは周りの人たちの心を暗くし、体を弱らせ、人生を暗くします。

自我は増長しています。自分の力が分かっていません。自分が主人だと思い込んでいます。自分が大きくなって思いのままにしようとします。主導権が自分にあるものだと思い込んでいます。まさか自分の存在そのものが“間違い”だとは思いもしません。宿主を破壊する寄生虫や悪性細胞が存在します。彼らは自分たちの肥大化が自滅に繋がることを知りません。宿主なくして自分たちが存在できないことを知りません。自我は寄生虫や悪性細胞と同じようなものです。自我がわたしたちを苦しめています。自我がわたしたちを壊しています。自我がわたしたちを弱体化させています。自我がわたしたちを不幸にしています。それでも自我と同化したわたしたちはそのことに気づけません。

 

 

⑥心の苦しみを減らすために

 

 

 

事実か、実在することかを見極める

心の苦しみを減らすにはどうすればいいのでしょう?それはあなたが苦しんでいる時に、あなたが見ていることは事実なのかどうか、実在することなのかどうか、それを冷静に見極める必要があります。なぜなら自我と同化したわたしたちは事実ではないことを事実のように、実在しないことを実在するように見て、苦しむ傾向にあるからです。例えば思い込みから来る、憎しみや恨みなどの怒り、比較から来る、嫉妬や劣等感や自分に対する無価値感、今、起きていないことに対する後悔、これから起きるかどうかも分からないことに対する不安や恐れや焦りです。

 

負の感情にしがみつかない

事実かどうか、実在することかどうか、それを見極めるのが難しければ、あなたに負の感情が現れた時に、容易くその感情に飛びつかないようにしてはどうでしょう?一時的に飛びついても、しがみつかないようにする必要があります。自我は簡単にはあなたを逃しません。事実ではないこと、実在しないことを次から次にあなたに見せます。あなたの頭の中に止めどなく現れる思考がそれです。実際に起きたこと以上にあなたの中で話は発展します。「そう言えばあの人はあの時もそうだった」「そもそもあの人はいつもああだ」「今度こういうことがあればああ言ってやろう」。「わたしはあの時もダメだった」「わたしはいつもダメだ」「わたしは何をやってもダメだ。わたしはダメな人間だ」「もうどうでもいい」。自我は事実を飛躍させます。そこには多くの嘘を含みます。それはもはや事実ではありません。自我はそうやってあなたを負の感情に繋ぎ止めようとします。

 

わたしとワタシを切り離す

歳を重ねるにつれて失うものが増えます。別れる人が増えます。健康な体や体力、気力も減少傾向になります。若い頃に比べて夢や希望を持ちにくくなります。将来への漠然とした不安や恐れ、悲しみがより身近に感じられるようになります。歳を重ねるにつれて苦しみが増える傾向にあります。自我がもたらす負の感情になすがままにしているとますます苦しみを抱えることになります。自我に弱体化させられます。そうならないためには自我のなすがままにしないことが重要です。自我があなたに苦しみをもたらします。あなたがその苦しみを引き受けます。そこにあなたと自我との“微かな接点”があります。その段階で「わたしに苦しみが現れている」と気づく必要があります。

心の苦しみの過程や原因、形は様々です。怒り、悲しみ、不安、恐れ、後悔、焦り、無価値感、惨めな気持ち、嫉妬、喪失感、気の重さ、怠惰な気持ち…。苦しみとまでは呼べないものから強烈なものまで様々です。苦しみとまでは呼べないものでもあなたをリラックスさせたり、心地よい気分にさせたりするものではありません。あなたの心を暗くさせたり、あなたを堕落させたりします。それらはあなたを不幸にするものです。

あなたに負の感情が現れた時に、あなたと負の感情を意識的に切り離してはどうでしょう?存在としてのあなたと心の苦しみを切り離します。あなたと自我を切り離すということです。

 

ゆらめきと流れ

感情は炎のゆらめきと似ています。わたしは機嫌がよかったかと思えば、イライラしています。穏やかな気持ちでいたかと思えば、そわそわしています。喜怒哀楽、感情が定まることなく変化します。わたしが囚われやすい空想は脈絡のない思考の流れです。ゆらめきと流れをコントロールすることはなかなかできません。自我が薄くなったとしても、苦しみが完全に解消される訳ではありません。「乱れ始めた感情を整える」「脈絡のない思考の流れに捕らわれてはそこから離れる」。それらの繰り返しは続きます。

 

見ているわたし

「わたしは今、苛立っている」「わたしは今、心を暗くしている」「わたしはまた価値のない空想に耽っている」。そう思うことができるわたしがいます。そのわたしは自我に囚われているわたしを離れた所から見ています。それは子どもを見つめる大人の視線と似ています。騒ぎ立てる子どもは大人と目が合うだけで大人しくなります。それと同じです。自我と同調したあなたをしばらく眺めていれば、あなたから負の感情や脈絡のない思考の流れが消えて行くのを感じられるはずです。

「またわたしを苦しめようとして現れたか」「わたしを苦しめてどうするつもりだ?」「わたしなしに君は存在することさえできないのに」。心の中でそう呟いてみてもいいのかもしれません。

自我がもたらす負の感情や、脈絡のない思考の流れに囚われているわたしを、見ているわたしがいます。そのわたしが自我と同化したわたしを見ている、存在としてのわたしです。存在としてのわたしはわたしの理解、意図、自覚を越えて生きています。存在としてのわたしはわたしに怒りがあろうとなかろうと、わたしに悲しみがあろうとなかろうと、わたしに恐れがあろうとなかろうと、わたしに後悔があろうとなかろうと生きているわたしです。

あなたは存在としてのあなたを自覚することができるでしょうか?あなたは誰でしょう?あなたは怒りでしょうか?悲しみでしょうか?恐れでしょうか?後悔でしょうか?あなたにはあなたの負の感情、あなたの理解、意図、自覚を越えて生きているあなた、存在しているあなたがいるはずです。あなたがそのあなたを自覚することができれば、一時的に負の感情や脈絡のない思考の流れに捕らわれても、耽ることは減るはずです。あなたはあなたでありながら、あなたの中にある自我と適度な距離を取るようになります。

 

自覚そのものがわたしを苦しみから解放する

あなたと心の苦しみを切り離す習慣が身につくと、自我があなたに近づいて来た時に気づくようになります。あなたはもはや自我と同化しなくなります。仮に負の感情に捕らわれても、「わたしは今、負の感情に捕らわれている」と気づきます。価値のない空想に耽っていても、「わたしはまた堕落させられている」と気づきます。気がつくだけで自我は消えて行きます。「負の感情に捕らわれては気づく」を繰り返しているうちに、あなたの中で自我が小さくなって行くのを感じられるようになるはずです。

仮に自我が強かったとしても悲観することはありません。問題解決のために敢えて何かをする必要もありません。あなたの中に特有の性質を持った自我があること、そのことを知ること、自覚することで問題は問題でなくなって行きます。自我との関わり方を知っていれば、必要以上に苦しまずに済みます。

 

 

⑦心の苦しみから抜け出してわたしを生きる

 

 

 

事実に沿って生きる 実在する世界に生きる

実際に起きたことや実際に存在すること、事実を重視して実在する世界に生きるようになると思い込みや空想、「もしこうだったら」という仮定、頭の中の世界、観念の世界に没頭することは減ります。頭の中の過去と未来はあまり重要ではなくなります。あなたは実在する世界、今ここという限られた唯一の空間を生きるようになります。ここではないどこか、例えばインターネットやテレビの世界に没頭することも減るかもしれません。わたしの体は今までも今ここという空間にありました。それでもわたしの意識はここではないどこかに、今のわたしではない誰かに向いていました。わたしは他人の批判や否定に多くの時間と労力を費やして来ました。わたしは目標や理想の中に生きていました。改善傾向の強いわたしは「今の状態ではダメだ」と、今のわたしを無意識のうちに否定して来ました。わたしは今ここに実在する唯一のわたしを蔑ろにして来ました。わたしは今ここという限られた唯一の空間にしか生きることができません。計画をしたり、予定を立てたり、理想を掲げたりすることも大切です。それでも今ここに実在する唯一のわたしに重点が置かれない限り、それらは単なる絵空事です。

事実を重視して実在する世界に生きるようになると比較の世界に耽ることは減ります。「すべては唯一無二の存在である」という事実を生きるようになります。わたしたちは比較の対象を持たない、普通、平均、一般、標準とは無関係の唯一無二の自分を生きるようになります。わたしたちは自分の仕事をするようになります。わたしたちがわたしたちでありながら成長して行きます。

 

2章を始める前に

わたしがこれから話すことは当たり前のことかもしれません。すでにありのままの心で生きている人にはあまり価値のない話です。わたしには事実が見えませんでした。事実が見えずに心を暗くして来ました。わたしたちは事実ではないことを事実のように、実在しないことを実在するように見て、苦しむ傾向にあるようです。わたしたちは今一度事実を自覚する時に来ているようです。心を解放してわたしたちを生きる時に来ているのかもしれません。わたしたちが唯一無二のわたしたちを生きるには、まず心を自由にする必要があります。あなたは自由な心を持っていますか?心の中で不自由を感じているとすれば、それはなぜでしょう?

2章 自由な心を取り戻す

①切り離せないものからわたしを切り離すワタシ 

 

 

                                                      

意識の上で繋がりを断ってしまう

自我には「わたし」という自己意識を越えた、特有の性質があります。特有の性質には主に4つあります。1つ目は自我の基本的な性質である、わたしを苦しめるということです。2つ目は「自分でできる。自分でしている。自分でしたい」「思い通りにできる。思い通りにしている。思い通りにしたい」と思っていることです。3つ目は「わたしに事実を見せない。わたしに実在するものを見せない」ということです。4つ目は切り離せないものからわたしを切り離すということです。それでも実際に切り離す訳ではありません。意識の上で切り離します。

 

故意に設定された系統は存在できない

自我と同化したわたしたちは繋がりを断ってしまいます。それでも実際に断つことはできません。繋がりを断って存在することは不可能です。意識の上で繋がりを断ちます。わたしたちは繋がりの中に存在するわたしたちをなかなか自覚することができません。

繋がりは様々です。例えば祖先との繋がりがあります。わたしが祖先との繋がりを感じられるのは近くの祖先に限ります。途切れることのない脈々と続く繋がりを感じることはできません。わたしは血の話をすることがあります。血筋、血統、家系の話です。「あの人は由緒正しい家系である」「あの人は優秀な血筋である」「純血の何々民族が」と言ったりします。それはあり得ません。それは故意に設定された系統です。繋がりは意図されたものだけでは収まりません。ルーツを辿れば故意に設定された系統を簡単に越えてしまいます。わたしたちは人類の誕生と進化の歴史だけではなく、生物の誕生と進化の歴史、地球の誕生と進化の歴史、太陽系の誕生と進化の歴史、宇宙の誕生と進化の歴史。それらのすべての歴史を持って今ここに存在しています。わたしたちのルーツは宇宙の始まり、そのひとつにまで遡ります。それでも自我と同化したわたしにはその事実が見えません。

故意に設定された系統はそれだけでは存在できません。切り取ることのできない全体の一部です。それは脈々と続く繋がりなしには存在できないものです。故意に設定された系統は幻のようなものです。それでも自我と同化したわたしたちはその幻を見ます。切り離せないものを切り離します。実在できない様々な系統を故意に設定し、他者を差別します。仮想した他者を下げて、自分を上げます。そこから消極的な満足感を得ます。自己承認します。ただ差別するだけではありません。暴力に訴え、排除しようとさえします。

 

人々の命の営みに囲まれる

繋がりは他にもあります。わたしたちは様々な物に囲まれています。例えば食べ物や着る物、家具や家電製品、家や車があります。わたしは自給自足の暮らしではありません。誰かが育ててくれた野菜や果物、牛や豚や鶏、誰かが獲ってくれた魚、誰かが調理してくれた物を食べています。電気やガスは田舎に住んでいる我が家にもやって来ます。蛇口を捻れば水が落ちます。外に出れば舗装された道路があります。信号や道路標識があります。バスや電車を乗り継いで行きたい所へ行けます。混沌としていたはずのところに秩序が与えられ、綺麗に整えられています。すべてわたし以外の誰かがもたらしてくれたものです。わたしは恵みの中に生きています。わたしは無自覚に受け取り、時には与えています。

そこにある物の背後には誰かがいます。誰かの思いや知識、技術、人生がそこにあります。わたしは人々の命の営みの中に生きています。わたしの知らない人たちの命の営みです。そこからもたらされた物を受け取っています。わたしたちは脈々と続く人たちの命の営みの中に生きています。誰かとの繋がりなしに生きることはできません。綺麗事を言う訳ではありません。これは事実です。それでもわたしたちは繋がりの中に存在している事実をなかなか実感できません。

 

孤独ではいられない

「途切れることのない脈々と続く繋がり」とはありきたりの言葉ではありません。事実を表す、これ以上ない重みを感じる言葉です。その繋がりとは人の繋がりだけではありません。わたしたちの思考や感覚さえも超越したありとあらゆるすべてとの繋がりです。

例えばあの日、あの時、あの場所であなたのお母さんが食べたあのトマトがなければ、あなたは今のあなたとして生まれることはできていないかもしれません。トマトはあの日、あの時、あの場所で、あの日光を浴びて、あの水分とあの養分を与えられて、あの成長をした、あの栄養価のあのトマトでなければなりません。トマトは、あのトマトを作ったあの人が、あの両親の間に生まれ、あのやり方で育てられ、あの人生を歩み、あの場所であの土を作り、あのトマトの種を植え、あのやり方で育て、あの状態であの瞬間に収穫したあのトマトでなければなりません。

あなたのお母さんがあの両親の間に生まれ、あのやり方で育てられ、あの人生を歩み、あの日、あの時、あの場所で食べたあのトマトがなければ、あなたはあなたとして存在していないかもしれません。

あのトマトが南米で栽培されていなければ…。コロンブスがアメリカ大陸を発見していなければ…。あのスペイン人がアメリカ大陸へ渡り、あのトマトを故郷に持ち帰らなければ…。あのトマトがイタリアへ渡り、その後トマトがヨーロッパ全土に広まらなければ…。あのトマトが江戸時代にあのポルトガル人によって日本に輸入されていなければ、あなたは存在していないかもしれません。

あの日、あの時、あの場所であなたのお母さんが食べたあのトマトだけでもその縦と横の繋がりを明らかにすることはできません。それほど繋がりは途方もないものです。それでもたった一つ何かが欠けてしまうだけで、存在するはずのものは存在できなくなってしまいます。太古のあの日、あの時、あの場所であの原始の海が生まれなければ、あの名もない生命は生まれません。太古のあの日、あの時、あの場所であの名もない生物が海から陸に上がらなければ、今のわたしたちは存在しません。たった一つ何かが欠けてしまうだけで歴史は変わってしまいます。わたしたちにとって都合の悪いことでも、気に入らないことでも、わたしたちの知らないことでも、わたしたちの思考や感覚を越えてどこかで関係を持っているためにわたしたちは今、存在しています。もしかするとあなたの足元にいる一匹の蟻が、誰からも気づかれずに生えている名もない草木が、そこに流れ込んだ一滴の雨粒が、無造作に積まれた何かが、他でもないあなた自身がこの世界を生かし、わたしたちを存在させているのかもしれません。

わたしたちは100%の確率で存在しています。宇宙創世以来、無数の選択肢がありました。わたしたちが生まれて来られない選択肢も無数にありました。それにもかかわらずわたしたちは無数に存在した岐路で、一度も間違えることはありませんでした。だからわたしたちは生まれて来ることができました。100%でなければ生まれて来ることはできません。生まれてからも同じです。100%でなければ今も生きてはいられません。

わたしたちは人智を超えて存在しています。わたしたちの思考や感覚を超越した所で起きる変化、繰り広げられている命の営み、得体の知れないものの命の営みがあったために、そして今もその命の営みがあるために、この世界は今も存在し、わたしたちも生きていられます。それでも自我と同化したわたしは、自分の理解と知覚の及ぶ範囲だけでこの世界が成立していると思っています。自分の思考と感覚で捉えられないものは存在さえしないと思っています。

自我と同化したわたしたちは、途切れることのない脈々と続く繋がりをなかなか感じることはできません。そのためにわたしたちは孤独を感じます。それでもそれは孤独感です。わたしたちに起きる負の感情は当てになりません。事実とは異なります。わたしたちは孤独ではいられません。繋がりなしに存在することはできません。

 

命、自然、宇宙、世界から分離するワタシ

自我は切り離せないものからわたしたちを切り離します。実際に切り離す訳ではありません。意識の上で切り離します。例えばわたしは「わたしの命」と言います。わたしはその時に全く違和感を覚えません。わたしは命なくして存在できません。わたしと命は一体のものです。それでも意識の上でわたしと命を切り離します。命から分離したわたしとは何でしょう?それは実在できない幻です。

わたしは「自然はいいね。自然は素晴らしい」と称賛します。「自然を相手にするのは大変だ」と言います。その時のわたしはどこか他人事のようです。まるでわたしは自然から離れた存在で、自然から離れた人工的な社会に生きているようです。わたしは自然そのものです。自然の内側にしか存在できません。わたしたちの手から生まれた最先端の科学や文明も、無機質な人工物もすべてが自然から生まれたものです。自然界を離れて存在できるものは何もありません。それでも意識の上ではわたしと自然を切り離しているようです。

わたしは一秒たりとも太陽の恩恵なしに生きることはできません。夜になれば星々や月はそこにあります。それでもわたしは宇宙に馴染みがありません。どこか遠くの話に思えます。「宇宙を感じる。宇宙を生きる」。その言葉を聞いた途端に違和感さえ覚えます。「普通はそういう言い方をしない」と反論したい気持ちになります。わたしには宇宙という言葉が大袈裟で、どこか宗教的な怪しささえ持っているように感じられます。

わたしは宇宙空間に存在する地球に生まれ、生きています。わたしは地球や宇宙、自然界から離れて存在することはできません。それが事実です。それでも「わたしはこの街で、この地方で、この国で、社会に生きてはいても、地球という天体に生きていて、宇宙に生きていて、自然界に生きている」という実感がなかなか持てません。自我と同化したわたしは宇宙に思いを馳せたり、夜空を見上げたりするようなことはあまりしません。

 

自然界の中の社会

ところで自然界と社会は別々に存在するものでしょうか?社会は自然界から分離しても存在できるものでしょうか?あなたは自然界に存在していますか?それとも社会に存在していますか?社会は自然界なしには存在できません。人間は自分たちにとって便利な仕組みを自然界に作りました。それを社会と呼んでいるに過ぎません。

 

 

②価値と意味

 

 

 

価値や意味を持たない世界

自然界に予め与えられた価値や意味は存在するのでしょうか?自然界を見渡しても「善や悪」「良い、悪い」は存在しません。食う、食われるという関係性も生も死も、善でもなければ悪でもありません。良い訳でも悪い訳でもありません。そこにあるのは価値や意味といった情報を持たない、現象と存在です。

自然界には予め与えられた価値や意味は存在しません。「べき」「ねばならない」といった義務や絶対的な価値も存在しません。あるとすればある物事に対する解釈です。そもそも価値や意味は観念です。実在するものではありません。自然界は価値や意味を持たない存在の世界です。

設定された価値と意味を持つ世界

「自然界」という概念は社会が生まれてからできたものかもしれません。社会との対比で使われる「自然界」という言葉です。それでも自然界を離れて存在できるものは何もありません。その意味で「自然界」という言葉は「社会」という言葉との対比ではありません。「社会」を内側に含んだ、「世界」そのものを指す言葉です。人間は社会を築いてからその中を生きるようになりました。それでも人間は社会に存在すると同時に自然界に存在しています。自然界に存在することなしに社会は存在できません。自然界は価値や意味を持たない存在の世界です。その世界に後から作られたのが社会です。

社会には法律をはじめとするルールがあります。それは敢えて設定された価値や意味と言えます。設定された価値の世界ではその世界の内側にいる限り、その世界の価値が適用されます。

 

正しさ、間違い

設定された価値と意味の世界に存在する言葉があります。それは「正しさ」と「間違い」です。設定された価値基準に合えば正しい。合わなければ正しくない、間違いであるとされます。それはスポーツやゲームの世界と同じです。学校の勉強も同じようなものかもしれません。教科書という設定された価値、正しさに照らして判定されます。教科書や正しさ、ルールや法律という設定された価値は絶対的なものではありません。固定化されたものでもありません、相対的で流動的なものです。それらの設定された価値は一定の強制力を持ちながらも、必要に応じて改定されたり、変更されたりします。

 

ルールが及ぶのはどこか

設定された価値の世界、例えばスポーツやゲームの世界ではその設定された価値基準、ルールを引き受けない限りはその世界に参加できません。参加していながらそのルールを守らない場合は罰則を科されます。最も悪質な場合はその世界から追放されてしまいます。社会の場合はどうでしょう?わたしたちは現実的に国や社会の内側でしか存在できません。参加するか否かを問われないまま、設定された価値の世界の内側にすでに存在しています。その世界ではその世界の価値基準、ルールが適用されます。それが社会のルールや法律です。わたしたちは社会の様々なルールや法律に拘束されながらも、それらを守っている限りは自由です。厳密に言えば社会の内側にいても完全に自由です。ただし法を犯せば罰せられる可能性があります。

わたしたちは設定された価値の世界、社会の中では振る舞いにある程度の規制がかけられてはいても、心の中は自由でいられます。

 

「べき」「ねばならない」を心に中にまで引き受ける

自由なはずのわたしたちの心が不自由を感じているのはなぜでしょう?わたしたちには良心があります。良心に反することをすれば疚しさを感じます。良心があるために不自由を感じる部分もあるのかもしれません。それ以上にわたしたちが不自由を感じているのは、「べき」「ねばならない」、義務や絶対的な価値を必要以上に引き受けているからです。

自我と同化したわたしは事実ではないことを事実のように、実在しないことを実在するように見て、苦しみます。わたしは今ここという限られた唯一の空間にしか生きることができません。それでもわたしの意識は今ここではないどこかにあります。自我と同化したわたしは実在する世界に生きることがなかなかできません。わたしは今のわたしではない他の誰かになろうとします。

例えば他人や社会が求める理想像、価値観、「あるべき姿」と言われるものです。「男として、女として、責任のある社会人として」「何歳で仕事に就いて、結婚をして、家庭を持って、子どもをもうけて、家を手に入れて、年収いくらくらい稼いで」「良き母親とはこうで、良き父親とはこうで、一人前の男とはこうで、一人前の女とはこうで、人とはこうあるべきです」「20代、30代、40代、50代、60代、何十歳代でしておくべきことはこうで、何十歳代はこうあるべきで、それが当たり前で、普通はそういうもので、人とはそういうものです」。わたしはあるべき姿になろうとします。「そうすべき、そうしなければならない」と思い込んでいます。本心からそれを求めるというよりは、追い立てられるような気持からそれを求めます。わたしの心の軸はわたしにはありません。外側にあります。それだけでもわたしにとっては息苦しいものです。あるべき姿になれないわたしは焦ります。自分だけが置いて行かれるような気になります。「人はみんな違う。それぞれの人生がある」。その事実はわたしには見えません。わたしには気休めの言葉にもなりません。わたしは次第に劣等感や後ろめたさを覚えるようになります。自己嫌悪に陥るようになります。自己否定するようになります。自分に力を感じられなくなります。場合によっては外に出ることさえ難しくなってしまいます。

わたしがここでしていることは何でしょう?わたしは他人や社会が求める理想像、価値観、「あるべき姿」と言われるものを「当たり前だから、常識だから」と無条件に認めています。それは時代や場所が変われば変わる、流動的で相対的な価値です。わたしにはその事実が見えません。わたしはその価値を固定化し、絶対化し、心の中に引き受けます。わたしはさらにその引き受けた価値基準から外れて、苦しみます。そもそも社会の内側にいるわたしが守ることは社会の様々なルールや法律です。他人や社会が求める理想像、価値観、「あるべき姿」と言われるものではありません。わたしにはその事実が見えません。

社会の様々なルールや法律の及ぶ範囲は特定の振る舞いに関することです。それらの振る舞いが「べきこと」であり、「ねばならないこと」であり、義務と呼ばれることです。それ以外は自由です。特に心の中は自由です。どれだけ偉い人の発言であろうと、常識であろうと従わなければならないものは何もありません。

自由だったはずの心の中に「べき」「ねばならない」を引き受けた時に、わたしたちは苦しみます。心の中に引き受けなければならない「べきこと」「ねばならないこと」は存在しません。自我と同化したわたしたちは実在しない「べきこと」「ねばならないこと」を実在するように見て、心の中に引き受けます。自我と同化したわたしたちは「べき」「ねばならない」の多い人生を歩むことになります。それは不自由な苦しみの多い人生です。

 

道徳、品格

この世界は元々価値や意味を持たない存在の世界です。社会に存在するわたしたちは法律をはじめとするルールを守ってさえいれば、何をしてもいいのでしょうか?道徳はどうなるのでしょう?道徳は少し変わっています。法的拘束力がありません。「道徳的であるべき」「道徳的であらねばならない」「道徳的であれ」と相手に求める時、それはもはや道徳とは呼べません。社会の内側に存在するわたしたちが守るべきこと、守らなければならないことは法律をはじめとする社会のルールです。それ以外に守るべきこと、守らなければならないことは存在しません。「べきこと」「ねばならないこと」ではないにもかかわらず、「べき」「ねばならない」と言って相手に求める時、それは嘘をついていることになります。理不尽な暴力とさえ言えます。それは道徳ではありません。

品格も同じようなものかもしれません。相手にそうあって欲しいと期待はしても求めるものではありません。「そうあるべき」「そうあらねばならない」と言って相手に求める時、それはもはや品格のある行いとは言えません。

 

良心

それでは道徳や品格は存在しないのでしょうか?それらは存在します。わたしたちには良心があります。わたしたちにとってそれは本能的なものです。この世界もそれを知っています。「天網恢恢疎にして漏らさず」と言うのはそのためです。たとえ罰せられることはなかったとしても、逃げ切ることはできません。それなりの代償を払うことになります。 

わたしは知っています。嘘をつくことがどういうことなのか、嘘も方便だということも知っています。裏切ること、他人や何かを傷つけることがどういうことなのか、独占することや分け合うこと、自分や他人を大切にすること、思いやりや優しさ、勇気、真剣であること、素直になること、みんなで楽しむこと、ひたむきに努力すること、過ぎてしまえば及ばないこと、美しさ、綺麗にすること、時には上手くやること、ケチであること、恥をかかせること、耽ることはどういうことなのか、何が良くて、何が悪いのか、気持ちのいい人とはどういう人を指すのか、器の大きな人とはどういう人を指すのか、何をすればいいのか、どこへ向かえばいいのか、わたしはそれらの価値と意味を知っています。それらは誰かから直接教わったことでもあります。人生を通して色んな人の姿から学んだことでもあります。それと同時にそれらはわたしが元々知っていたことでもあります。何も知らないわたしがそれらの価値や意味を理解できる訳がありません。

 

事実を飛躍させるワタシ

わたしはそれらの価値や意味を知っています。それでもそれらは「べきこと」でも、「ねばならないこと」でもありません。わたしがそれらを理解し、行動に移すのは「そうすべきだから」「そうしなければならないから」ではありません。「そうした方がいい」と思っているからであり、そうしたいからです。それらは「そうあって欲しい」と相手に期待をしたり、「そうした方がいいかもしれないよ」と相手に勧めたりはしても、「べき」「ねばならない」と言って相手に求めるものではありません。

自我には「わたしに事実を見せない。わたしに実在するものを見せない」という特有の性質があります。自我は事実を飛躍させます。事実の飛躍はもはや事実ではありません。自我と同化したわたしはその事実の飛躍に気づきません。わたしには良心があります。それでもわたしの良心にあること、良心からもたらされることは「べきこと」でも、「ねばならないこと」でもありません。失ってしまった自由な心を取り戻すには、その事実を今一度自覚する必要があります。

 

自由な心を取り戻す 

社会は自然界なしには存在できません。わたしたちは社会に存在していると同時に自然界に存在しています。自然界は価値や意味といった情報を持たない、存在の世界です。その世界に敢えて作られたのが社会です。社会は設定された価値や意味の世界です。乱暴な言い方をすれば社会は必要性があったからとは言え、この世界は本来価値や意味を持たない存在の世界であるという、その事実に反して敢えて設定された価値や意味の世界です。「何もないところに何かが設定される」、その過程、そこで起きた事実は自覚しておいた方が良さそうです。なぜなら自我と同化したわたしたちは事実ではないことを事実のように見るからです。わたしたちは事実と事実ではないことの区別さえつきにくいからです。その上とても忘れやすいからです。自由なはずのわたしたちの心が必要以上に不自由を感じているのはそのためです。社会には守るべき法律とルールがあります。その法律とルールが適用される範囲は特定の振る舞いに関することです。「べきこと」「ねばならないこと」、義務はそれらに限ります。その他は自由です。社会の中でありのままの自分を生きることは時に難しく感じられます。それはわたしたちが自我と同化しているために事実が見えずに、心の中にまで「べき」「ねばならない」を引き受けているからです。

わたしは人目が気になります。体裁を気にします。高尚な生き方や低俗な生き方があると思い込んでいます。わたしは他人や社会が求める理想像、価値観、あるべき姿が存在すると思い込んでいます。わたしはそのあるべき姿から外れて苦しみます。自信を失います。自分に対して無価値感を覚えます。自分に力さえ感じられなくなってしまいます。わたしはやがて他人や社会と接触を持つことさえ難しくなってしまいます。

「逃げるべきではない、逃げてはならない」と思い込んでいるわたしは社会人としての自覚、自分の置かれた社会的立場や責任から逃げ場を失います。精神的にも肉体的にも追い込まれてしまいます。最悪の場合、自分で自分の人生にピリオドを打つこともあり得ます。

心の中に引き受ける「べきこと」「ねばならないこと」は存在しません。道徳や品格であっても、「べきこと」でも、「ねばならないこと」でもありません。それでも何でもいい訳ではありません。わたしたちには良心があります。ただしその良心にあること、良心からもたらされることでさえも「べきこと」でもなければ、「ねばならないこと」でもありません。良心はわたしたちの心を必要以上に縛り付けて、不自由にするものではありません。わたしたちはその事実を改めて自覚する時に来ているようです。心を解放して唯一無二のわたしたちを生きる時に来ているのかもしれません。心の中はわたしたちが社会を築く前から存在していた自然界のようです。そこには自由があります。そこはありのままのわたしたちが生きられる世界です。

 

 

③個人の問題としての自我

 

 

 

形を変える自我、自我のなすがままにしない

自我には主に4つの性質があります。1つ目は自我の基本的な性質である、わたしを苦しめるということです。この性質を持った自我は否定的傾向、消極的傾向、悲観的傾向そのものと言えます。2つ目は「自分でできる。自分でしている。自分でしたい」「思い通りにできる。思い通りにしている。思い通りにしたい」と思っていることです。この性質を持った自我は自分に固執し、自分を優先する傾向があります。自分勝手で自分の考えややり方に執着します。考えややり方を含めた広い意味での自分の持ち物と、自分の存在を重ね合わせます。他者との関係性で優位に立とうとします。そのことで喜びを感じ、満足感を覚えます。3つ目は「わたしに事実を見せない。わたしに実在するものを見せない」ということです。4つ目は意識の上で切り離せないものからわたしを切り離すということです。

あなたは自我と同調するほど、自我と同化します。あなたは自我と距離を取るほど、自我と同調しなくなります。自我と同調しないためには自我のなすがままにしないことが重要です。「自我のなすがままにしない」とは、自我特有の4つの性質がもたらす負の感情や思考のままにあなたが同調しない、負の感情や思考のままにあなたが行動しないということです。仮に同調したとしても同調していることに気づいて、そこから離れるということです。

自我は形を変えて日常の至る所に姿を現わします。影を潜めてあなたに近づき、あなたが気づかないうちにあなたと同化します。ここでいくつかの例を挙げます。1章で述べたことと重複しますが、これらは誰にでも当てはまる事柄です。「自我に囚われる者」という意味でわたしたちはみなエゴイストなのかもしれません。あなたにも心当たりがあるなら、自我と距離を取るように心掛けて下さい。そうすれば必要以上に心の苦しみを抱えずに済みます。思い込みや固定観念から自由になれます。創造的にあなたらしく生きるきっかけになります。

社会や政治への関心は大切なことです。それでも政治の腐敗、官僚の汚職、企業の不正、スポーツマンや芸能人のスキャンダルに囚われて、ぼやきや嘆きが止まらないあなたがいるとすれば、それはあなたが自我と同化している現れかもしれません。あなたはテレビを見ては、「世も末だ」と嘆き、政治家や官僚、財界人、スポーツマン、芸能人、マスコミの批判をしながら、テレビからも抱いている負の感情からも離れられないでいます。

一見もっともらしいことを言いながら、具体的なあなたの人生を主体的に生きるよりも、他者の批判や抽象論、一般論を繰り返しているあなたがいないでしょうか?

周りの人たちや聞き手の気持ちを考えずに、否定的発言や不平不満、愚痴を繰り返しているあなたがいないでしょうか?

他人や社会に対して冷笑的な態度に出てしまうあなたがいないでしょうか?

孤独感に囚われ続けるあなたがいないでしょうか?

すぐに大声を上げて怒鳴り散らすあなた、物や誰かに当たり散らすあなた、怒りの感情に引きつけられやすいあなたがいないでしょうか?

「心配だ、大変だ、もうダメだ、敵わない、気をつけないと」。恐れからの言葉や弱音が口をついて出て来るあなたがいないでしょうか?

今、起きてもいない、これから起きるかどうかも分からないことに囚われて心を暗くしたり、行動的になれずに思い悩んだりしているあなたがいないでしょうか?

実在しないものに囚われて、心を暗くしているあなたがいないでしょうか?実在しないものとは例えば分かれた恋人やパートナー、失った若さや健康、過去の失敗です。

せっかちなあなたや止めどなく現れる思考の流れ、空想に囚われやすいあなた。つまりあなたの実在している、今ここに集中できないあなたがいないでしょうか?

自我と同化したわたしたちは自分たちの勝手な意図から、実在できない系統を作り出します。その系統を使って他者を差別します。例えばそれは“都合のいい”血の繋がりであり、肌の色であり、民族です。故意に設定された系統はそれだけでは存在できません。繋がりの中に存在する全体の一部です。わたしたちは理解を越えた繋がりの中に存在しています。差別しているあなたもその差別している対象なしには存在できません。それにもかかわらず実在できないそれらの系統を見て、差別したり、差別されたりしているあなたがいないでしょうか?

他人を否定することで相手を下げて、自分を上げます。そこから消極的な満足感を覚えているあなた、自己承認しているあなたがいないでしょうか?

優秀であることに拘るあなた、比較の中に生きるあなたがいないでしょうか?

実在しない「みんな」を見て、それと比べて劣等感を抱いたり、焦ったりしているあなたがいないでしょうか?

気の重さや怠惰な気持ち、つまり実際に起きたこととは異なる、当てにならない負の感情や思考に囚われて、あなたにとって大切なことを後回しにしているあなたがいないでしょうか?

高尚な生き方や低俗な生き方があると思い込んでいるあなたがいないでしょうか?

人生の歩むべき道やレールは実在しないにもかかわらず、それがあると思い込んでいるあなたがいないでしょうか?実在しないそれらの価値を他者に押しつけているあなたがいないでしょうか?実在しないそれらの価値を心に引き受けて、「わたしはレールから外れてしまった。もう人生は終わりだ」と悲観しているあなたがいないでしょうか?

社会を生きるわたしたちに必要な「べきこと」「ねばねらないこと」は、法律をはじめとする社会のルールです。それは特定の振る舞いに関することです。それにもかかわらず、引き受ける必要のない、「べき」「ねばならない」を無自覚のうちに引き受けているあなたがいないでしょうか?

「べきこと」「ねばならないこと」は実はあまり多くありません。それにもかかわらず口をついて「べき」「ねばならない」が出て来るあなたがいないでしょうか?なぜそうすべきなのか、なぜそうしなければならないのか、その理由を明らかにすることもなく(明らかにされることもなく)、「べき」「ねばならない」と相手に求めたり、受け入れたりしているあなたがいないでしょうか?

自我は実在しない物事を実在するように見せて、あなたを苦しめます。真面目な人ほど、「べき」「ねばならない」に囚われて苦しむものかもしれません。「親としてこうあるべき、こうあらねばならない」。その思考が強迫観念のようにまでなっているあなたがいないでしょうか?「教わった通りにならなければいけない。本に書いているようにならなければいけない。誰それさんが言ったようにならなければいけない」「思ったようにならなければいけない」。その観念が観念を持っている当人を精神的に追い詰めてしまうことがあります。それだけではありません。その当人の周りにいる人たちをも破滅に追いやってしまうことがあります。特にまだ生きる力の弱い幼い子どもたちが犠牲になることがあります。

いつまでも怒りの感情に囚われ続けるあなたがいないでしょうか?例えば夫や妻や恋人、友人や職場の同僚に対して苛立っているあなたがいるとします。そこには一見正当な理由があります。それでも苛立ちという負の感情に囚われ続けているあなたがいるとすれば、それは自我があなたを負の感情に繋ぎ止めているのかもしれません。なぜあなたが苛立っているのか、客観的に自分を見て下さい。そこに相手が自分の思い通りにならずに苛立っているあなたが、少なからずいるのではないでしょうか?あなたには怒りたくないと思うあなたがいる一方で、いつまでも怒りに引きつけられるあなたもいます。あなたはその相手に囚われます。口には出さなくても、そこに相手がいなくても、あなたは頭の中でその相手に囚われて怒りの感情を抱いています。

自覚してもらいたいことは、負の感情と思考に囚われているあなたはあなたであり、あなたではないということです。あなたは自我のもたらす負の感情と思考に同調しています。それでもあなたには負の感情と思考に同調しているあなたを、自覚しているあなたもいるはずです。そのあなたが自我ではない、存在としてのあなたです。

あなたが自我と同調しないためには、自我がもたらす負の感情と思考の起きるままにしないことが重要です。それでも特別に何かをする必要はありません。することは負の感情と思考が自分に起きていることに気づいて、意識的にそこから離れることです。

 

自我から行動しない

テレビや新聞で目にする政治の腐敗や官僚の汚職、企業の不正、痛ましい事件や事故、日常で遭遇する理不尽な出来事、つまり負の感情が起きて当然だと思われるような情報や出来事に対して、わたしたちはどう接すればいいのでしょうか?それには負の感情とわたしたちを切り離して、その情報や出来事からも負の感情を切り離して、事実として接する必要があります。負の感情を除いた情報として、負の感情を除いた出来事として、事実として接すれば自我を増長させることはありません。

負の感情から接すれば、解決に向かうはずのエネルギーは発散されて消え去ります。何の生産性もないまま忘れ去られるだけです。わっと怒鳴って終わります。ぶつぶつ言って終わります。悲嘆に暮れて終わります。葛藤して終わります。他人に不快感を与えるだけで終わります。出来事に直面します。そこに問題があります。直接的ではなくても、小さなことでもわたしたちとの接点があります。考えが浮かびます。できることがあります。それを実行に移すだけです。

相手の至らない所を指摘したり、指導したりする場面でも、自我がもたらす負の感情をあなたから切り離してそれをする必要があります。あなたが怒りの感情からそれをすれば、相手の怒りを誘うことになります。自我からの行動は相手の自我を刺激して同調させます。

 

 

④全体の問題としての自我

 

 

 

負の感情は連鎖する

自我は個人を越えて影響します。自我からの行動は他者の自我を刺激して同調させます。怒り、悲しみ、不安、恐れ、後悔。負の感情は感情を抱いている当人を越えて、周りにいる他者にも影響します。

例えば車の運転中に無理な割り込みをされることがあります。それまで穏やかな気持ちでいても、瞬間的に怒りの感情が湧き起こります。しばらくの間相手に反撃をしたい衝動に駆られます。

騒音を上げて暴走するバイクの音に苛立つこともあります。単に大きな音に対して苛立つのではありません。例えば工事現場から発生する騒音も大きな音です。それでも瞬間的な苛立ちが起きたとしても、怒りの感情に繋ぎ止められることはありません。なぜならそれが怒りからの行動ではないからです。怒りからの行動であれば他者の怒りを誘います。わたしたちはたとえ一定の距離があったとしても他者の自我を感じ取ることができます。

自我からの言葉、例えばぼやきや嘆きはその言葉の内容が聞こえなかったとしても、その人が発した言葉のトーンでさえも他者の自我を刺激して、同調させます。

口論をしている二人を見ていても分かります。二人のうちのどちらか一方が大声を上げて怒鳴りつけます。すると今まで落ち着いていたもう一人も同調して、大声で応えます。

 

全体としての自我、道徳の系譜

わたしの自我と隣人の自我が、隣人の自我とそのまた隣人の自我が、わたしたちの自我はわたしたちの自覚を越えて影響し合うのかもしれません。自覚を越えた、無意識の集合意識とでも呼べるようなものを、個人の自我を越えた“全体の自我”を形成しているのかもしれません。その全体の自我が社会の根底にあります。社会を取り巻く雰囲気のようなもの、「べき」「ねばならない」という観念がわたしたちの心から自由を奪います。

道徳が仮に「べきもの」「ねばならないもの」であるとすれば、その道徳を作り上げ、定着させているのは個人を越えた全体の自我かもしれません。そうでもなければ事実ではないものがここまで社会全体に浸透するとは思えません。わたしたちの心を縛り付けるものはありません。わたしたちが守るべきこと、守らなければならないことは法律をはじめとする社会のルールです。それは心に適用されるものではありません。一定の振る舞いに適用されるものです。心に引き受ける「べきこと」「ねばならないこと」は実在しません。わたしたちには良心があります。何が良くて、何が悪いかは分かっています。それでもわたしたちの良心にあること、良心からもたらされることは「べきこと」でもなければ、「ねばならないこと」でもありません。

自我は事実を飛躍させます。事実ではない物事を事実のように、実在しない物事を実在するようにわたしたちに見せます。心に引き受ける「べきこと」「ねばならないこと」は実在しません。それにもかかわらずわたしたちは実在するように見て、心の中にまで引き受けます。

社会に浸透した理由は他にもあります。「集団を壊す者が現れるかもしれない。集団を維持できないかもしれない」という個人の恐れを越えた全体の恐れがあったからです。その恐れもまたわたしたちの自覚を越えています。

他者に「道徳的であれ」と求める時にそこにはどんな感情があるのでしょう?「道徳を使って相手を抑えたい。相手をコントロールしたい」という気持ちが、心の深層に少なからずあるのではないでしょうか?その感情の出所も恐れの出所も同じです。個人を越えた全体の自我です。

 

自我は全体の問題にまでなっている

自我は切り離せないものからわたしたちを切り離します。実際に切り離す訳ではありません。意識の上で切り離します。命なくしてあり得ないわたしたちが「わたしの命」と言います。意識の上で命から切り離されたわたしたちが命を奪っています。

自然なくしてあり得ないわたしたちが「自然はいいね。自然は素晴らしい。自然を相手にするのは大変だ」と言います。意識の上で自然から切り離されたわたしたちが自然を壊しています。

優位に立つことで喜びを感じ、比較することでしか自己承認できない、途切れることのない脈々と続く繋がりが見えないわたしたちが、実在できない系統を故意に設定します。そして「わたしたちは他と違って優れている」と他者を差別します。

怒り、悲しみ、恐れそのものになったわたしたちが、事実が見えずに思い込み、憶測、仮想から暴走します。侵攻します。暴力を振るいます。

思い通りでなければ気が済まない、利己主義的なわたしたちが搾取します。独占します。負の遺産を後世に先送りします。

命にも世界にも調和できないわたしたちの自我が命を奪い、世界を壊しています。自我はもはや個人の問題だけではありません。全体の問題にまでなっています。

 

 

⑤事実が発揮される世界へ 

 

 

 

万物の根源

古代から万物の根源、世界の起源について議論されて来ました。水、空気、原子、火、土、数、分けられないもの、限りのないもの、諸説あります。「愛であり、光である」と言う人もいるのかもしれません。

わたしは創造の力、進化そのものだと確信しています。なぜなら人類の歴史、生物の歴史、地球の歴史、宇宙の歴史、歴史そのものがそれを証明しているからです。ヒトが生きるものを創り上げることは未だにできていません。単純な細胞でさえも創り出すことは奇跡だと言います。その細胞が生まれただけではありません。命を存続させ、成長し、その数を増やして行きます。その細胞は永い年月をかけて肉体を持ち、心を持ち、言葉を持つまでに進化しました。世界は地球さえもなかったところから今ある文明までも築き上げてしまったのです。

わたしにはある出来事が矛盾と破壊に見えます。それでもそれはわたしの判断、解釈、わたしの考えに過ぎません。この世界は諸行無常です。すべてが一瞬の停止も静止もなく、変化の中にあります。その変化は全体として見れば、進化の中にあります。

「宇宙の拡大速度は落ちる」。科学者たちの予測を裏切り、宇宙の拡大速度は上昇しています。この瞬間も世界は拡がります、新種の生物、新しい命が生まれます。わたしたちの手から瞬間、瞬間新しいものが生まれます。

地球を誕生させ、太陽を存在させ、宇宙を拡げ、新たな命を生み出し、それらを生かし、成長させ、進化に向かわせているもの。わたしたちを生み出し、生かし、成長させ、違いを与えて唯一無二の存在にしているもの。わたしたちの背後にあるもの、わたしたちの目には映らないエネルギー、目には映らない命がわたしたちを通して、新たなものをこの世界にもたらします。自我と自由意志を持ったわたしたちにはその自覚がないだけです。

この世界は無限に湧き上がる創造の力そのもの、進化そのもの、命そのものです。

 

今が目覚めの時

心の中に引き受ける「べきこと」「ねばならないこと」は実在しません。その事実を再認識する時に来ています。その事実を頭で理解するのではなく、自覚することができた時にわたしたちは自由な心を取り戻します。そしてわたしたちはようやく唯一無二のわたしたちを生きられるようになります。その先にあるものは何でしょう?それは事実が遺憾なく発揮される世界です。

わたしたちは唯一無二の存在です。多様であるという事実が阻害されることなく、そのまま発揮されます。この世界は創造の力そのもの、進化そのものです。わたしたちも成長そのものです。その事実が阻害されることなく、そのまま発揮されます。

他人や社会が求める理想像、価値観、「あるべき姿」と言われるもの。普通、平均、一般、標準、時代の流行り廃り、自分ではない外側を軸にしたあり方は多くの抵抗と摩擦を生みます。唯一無二の存在が生かされることはありません。型に入らないものを既存の型に無理矢理押し込めるようなあり方です。「そこにいるはずの人がそこにいません。それをするはずの人がそれをしません。そこにいなくてもいい人がそこにいます。それをしなくてもいい人がそれをします」。そういう状況を生み出してしまいます。その状況下で創造性は飛躍しません。

「監視の目がなければできない。不正を働く。手抜きをする」。それは単に倫理観の欠如とは思えません。その人がする仕事ではないからです。その人は自分のことを知っているとは思えません。その人がする仕事であれば監視の目は必要ありません。放っておかれても没頭してやります。納得が行くまでやります。

事実が遺憾なく発揮される世界では自分を知った者たちが自分を生かします。自分の仕事をします。唯一無二の存在者たちが唯一無二でありながら成長します。それは抵抗と摩擦を生まない自然の姿です。最も創造的な姿です。多様で高度に発達したものがわたしたちの手からもたらされます。世界は多様でありながら、創造性が飛躍します。世界の進化速度は過去にないほど上昇します。今、人類が自我からの目覚めの時に来ているのは恐らくそのためです。「創造性を飛躍させる。進化速度を上げる」。そのためには自我を克服する必要があります。人類の進化、ひいては世界の進化を阻むもの、それがわたしたちの自我に他ならないからです。

 

3章を始める前に

わたしがこれから話すことは常識を越えています。圧倒的大多数が何と言おうと自分がどう感じたのか、自分に起きた感情や自分の体験を信じる少しの勇気が必要です。それでも一度体験してしまえば、それが常識を越えていようと科学を越えていようとあなたにとっての事実になります。事実は強力です。受け入れ難いものであっても、受け入れるより他にないからです。事実にはわたしたちを納得させるだけの力があります。

わたしがこれから話すことはわたしの主義や主張ではありません。大昔からあった事実の話であり、自我の強かったわたしには知ることのできなかった、自然が持っている別の側面についての話です。わたしが「太陽はそこにあります」と言った時に、あなたは「そういう考え方もあるね」とは言わないはずです。「それはそうだ」と言うはずです。わたしがする話はそういう話です。

3章 唯一無二のわたしを生きる

ありのままの心

 

                                

 

思考よりも自然傾向、思考よりも実在するもの

わたしたちに必要なことは自分の考えや自分でコントロールしようとする意図、つまりまだ現実には現れていない頭の中の思考に頼るのをやめて、現実に現れているもの、実在するものを頼りにすることかもしれません。

実在するものには、例えばわたしたちに元々備わっている自然傾向があります。わたしたち一人一人が自然傾向に沿えば、唯一無二のわたしたちを生きることになります。

実在するものには他に、この世界の自然傾向とこの世界の仕組みがあります。わたしたちがこの世界の自然傾向と仕組みに沿えば、わたしたちと世界の飛躍に繋がります。自然は過不足のない完璧な秩序です。最も合理的なシステムです。世界の仕組みを跳ね除けて、自分たちのやり方で思い通りにやろうとしても物事の質は上がりません。

それでも自我を持ったわたしは自分の考えとやり方に固執します。例えば当初の予定が途中で変更されることを嫌います。段取りが変わることは悪いことだと思い込んでいます。それは予定や段取りが変わって現れた現実よりも、自分の思考を頼りにしている現れかもしれません。わたしたちに必要なことは自分の思考よりも現れた現実を重視することです。現実は本来わたしたちの思考よりも説得力があります。なぜなら現実はすでに結果として現れているもの、実在するものだからです。わたしたちに必要なことは思い通りに行くかどうかよりも、思い通りではなくても結果として現れた現実、実在するものを、「これでいい」と信頼し、受け入れることです。言い換えればそれは自分に執着するのをやめて、現実、実在するものを信頼して、それに任せるということです。

実在するもの(実在して来たもの)には他に、過去から未来へ流れるわたしたちの人生の流れと、進化して来た世界の歩みがあります。わたしたちは人生の流れの中に、世界の歩みの中に生きています。人生の流れと世界がわたしたちを存在させます。わたしたちの思考がわたしたちを存在させているのではありません。実在するもの(実在して来たもの)はわたしたちの思考よりも頼りになるものです。

わたしたちは世界から離れて存在することは不可能です。わたしたちにできることは、わたしたちを生み出し、生かし、成長させ、他でもない唯一無二のわたしたちにしている、世界の自然傾向と仕組みに沿うことです。自我さえなければ自然を受け入れることは本来とてもシンプルなことです。なぜならわたしたちはすでに自然そのものだからです。抵抗しているのはわたしたちの自我です。

 

唯一無二のわたしを生きる

「べき」「ねばならない」から解放された時にわたしたちは自由な心を取り戻します。自由な心を取り戻した時にようやく唯一無二のわたしたちを生きることができます。わたしたちは唯一無二のわたしたちでありながら成長することができます。それはとても創造的な生き方です。それでも今まで外側を重視して生きて来たわたしたちです。例えば他人や社会が求める理想像、価値観、「あるべき姿」と言われるもの、普通、平均、一般、標準、時代の流行り廃りです。いきなり「唯一無二の自分を生きろ」と言われても何をすればいいのか分かりません。わたしたちは何をすればいいのでしょう?それを知るにはどうすればいいのでしょう?そもそも「唯一無二の自分を生きる」とはどういうことでしょう?

それはありのままの自分を生きるということです。「ありのままの自分を生きる」とはどういうことでしょう?それはわたしたちに備わった自然傾向に沿って生きるということです。ありのままの自分をどうやって知るのでしょう?それはわたしたちの心が教えてくれます。

 

心が中心

何をするかは問題ではありません。ありのままの心で生きることが重大です。何をするかに意識が向いていたわたしたちは自分の心に意識が向くようになります。わたしたちは自分の心の状態をモニタリングするようになります。ありのままの心を追求しているうちにやることは変わるかもしれません。それは自然なことです。この世界は諸行無常です。変わらないものは何もありません。それが自然の姿です。唯一無二の自分を生きるというのは事実に沿った自然な生き方です。ありのままの心にありのままの自分がいます。ありのままの心をどうやって知るのでしょう?それもまたわたしたちの心が、感情が教えてくれます。

 

重大なこと

わたしたち現代人の多くは心の重要性に気づいていないようです。わたしたちの人生は心が創り上げていると言っても過言ではありません。ありのままの心で生きること。それは重大なことです。

ありのままの心から離れた時に良からぬことが起こります。それは「ありのままの心に戻りなさい」というわたしたちへのサインです。「べき」「ねばならない」に心を許した時にありのままの心を失って行きます。わたしたちがわたしたちでなくなって行きます。これは比喩的な表現ではありません。シンプルな事実です。「わたしたちがわたしたちでなくなって行く」とはわたしたちが消滅して行くということです。消滅して行く過程で何が起きるのでしょう?わたしたちの人生を暗くする、思いつく限りのことが起こります。

 

悦びの感情を追求する

ありのままの心をどうやって知るのでしょう?それは感情が教えてくれます。

穏やかさの中にある気持ちの高まり、悦び、抵抗感のない状態、やりたいことをやる時の気持ちです。そこにありのままの心があります。そこにありのままの自分がいます。些細なことでも構いません。気持ちが向くこと。一番やりたいことではなくても、我を忘れて没頭できること。なぜかあまり労せずにできること。それをしていて悪い気がしないこと。何よりも優先してそれを追求して下さい。何をするかではなく、感情、気持ちを追求して下さい。今までやりたかったことでも気持ちが変わったのなら、感情、気持ちを追求して別のことをして下さい。「飽き性はダメなことだ」とは思わないで下さい。わたしたちは目に映らないこと、科学的根拠のないこと、常識では測れないことを甘く見ています。自分の心を後回しにします。他人に気配りをするように自分の心に気配りをして下さい。自分の心と体を自分だけのものだとは思わないで下さい。わたしたちは意外に自分の心を知りません。何に心が悦ぶのか自覚できていません。他人に贈り物をする時に相手が何に喜ぶのか、わたしたちは慎重になって考えます。他人と接するように自分の心と接して下さい。「これはどうだ?これは気に入るか?」と自分の心に聞いて下さい。

わたしたちには「べきこと」「ねばならないこと」、義務があります。それは社会人としての振る舞いに関することです。振る舞いには振る舞いの大切な仕事があります。それとは別に心には心の大切な仕事があります。心の仕事はありのままの心でいることです。社会生活を送りながらありのままの心でいることは、難しいと感じるかもしれません。可能なところから始めて、ありのままの心でいられる割合を増やして下さい。始めは気持ちが少し穏やかになった程度で変化が見られません。それでも続けているうちに状況は好転します。ありのままの心で生きることが気休めや甘え、現実逃避ではないことに気づきます。それは大きな気づきです。

 

 

心と現実の関係 

 

 

 

タイムラグ

ありのままの心で生きることは気休めや甘え、現実逃避ではありません。なぜでしょう?それは心の状態が現実に反映されるからです。心の状態と現実との関係に気づいているでしょうか?心と現実の関係が分かりにくいのは、そこにタイムラグがあるからです。

現実を作っているのは現在のわたしたちではありません。過去のわたしたちです。過去のわたしたちの心の状態が現在の状況である現実に反映されました。現在のわたしたちの心の状態がこれからやって来る現実、つまり未来に反映されます。今のわたしたちの心の状態がこれからやって来る現実に反映されるということです。心が現実を創ります。

 

広い意味での感情、背後にある感情

心の状態とは「広い意味での感情」「背後にある感情」と言ってもいいのかもしれません。生きる上でのモットーや信条、何をよしとするのか、あなたの価値観、価値基準、人生観、あなたの信じていること、あなたの信念の背後にある感情です。あなたの思い、考えの背後にある感情です。あなたの行動、習慣の背後にある感情です。

自分が持っている信念、思考、自分の行動、習慣が悦びからのものなのかどうか、それを自覚する必要があります。「人生というのは厳しくて辛いものである。人生は甘くない」。こういう信念の背後にある感情は苦しみです。苦しみからの信念を無自覚に持っていれば、現実はそれを反映したものになります。他人の視線を気にしての行動や義務感からの行動であれば、その背後にある感情は悦びを伴っていません。今どんな心の状態にあるのか、それが重大です。何をするかが問題ではありません。自分がそれをしていてどう感じているかが問題です。

 

心の現実化は速くなっている

今、心の現実化速度は上昇しています。それを感じるでしょうか?なぜ現実化の速度が上がっているのか、それは分かりません。それでも今が人類の進化にとって重要な時期にあることを多くの人たちは感じています。その人たちは地域や国を越えて繋がり、同じ情報を共有しています。インターネットの発達が人類の進化を促しています。そのことがテレビや新聞で伝えられることはありません。

心の現実化速度が上昇することは夢のようなことです。なりたいわたしたちになれます。ありのままの自分で生きて行けます。その一方で心の状態が負の状態であれば、その現実化も速まります。「べき」「ねばならない」の多い人、恐れの強い人、苦しみからの信念を持っている人。その人たちがどのような目に遭うかは明らかです。そのような人たちにとっては辛い時代に入ります。今、自分の心と向き合い、不要な信念、思考、感情を捨てる時に来ています。

 

現実は過去

今の心の状態がこれからやって来る現実に反映されることに気づけば、現実と格闘することは減ります。現実は過去のわたしたちの心の状態が反映されたものです。現実は過去の現れです。妙な言い方をすれば、現実が気に入らなくてもそれは過去のことです。

現実と格闘する時にそこにはどんな感情があるのでしょう?もどかしさ、悔しさ、悲しみ、怒りでしょうか?今の心の状態がそれらの負の感情であれば、これからやって来る現実はそれらの感情を反映したものになります。今だけではなく、それらの負の感情をまた体験することになります。今の現実を変えることはできません。これからやって来る現実は変えられます。それは今の心の状態を変えることです。

 

二重取りする自我

自我の罪はわたしたちの現実を暗いものにすることです。わたしたちに負の感情をもたらし、負の感情に繋ぎ止め、わたしたちを苦しめ、わたしたちを弱らせ、堕落させます。罪はそれだけではありません。わたしたちが現実で苦しみを味わう時、同時にこれからやって来る未来までも苦しみで染めることになります。自我の罪はわたしたちの今を奪うだけではなく未来までも奪うことです。自我はわたしたちから幸せの二重取りをします。

 

見えるものよりも見えないものを信じられるか、当てにできるか

わたしたちにとって見えないものは価値を持たないも同然です。それに対して見えているものは絶大な力を持ちます。見えているものはわたしたちにとってのすべてと言ってもいいほどです。わたしたちに必要なことは現実に現れているもの、実在するものを重視することです。それでも見えている現実がわたしたちにとって辛いものである場合、その現実に囚われて苦しんでいては、悦びのある未来はやって来ません。よりよい未来を築くために必要なことは今に悦びを感じることです。見えている辛い現実に囚われるよりも、「見えていない未来がよいものになる」と信じて、現実に悦びを感じることです。それはわたしたちにとってとても難しく感じられます。何も見えていないものを疑いの心を入れずに信じた上で、悦びを感じられない現実に「悦べ」と言うのは修行のようなものです。それでもそれがこの世界の仕組みです。異議を唱えたところで何も変わってはくれません。わたしたちが世界の仕組みに沿うより他に方法はありません。

世界はわたしたちの心を読みます。「心」というよりも「本心」と言った方が適切かもしれません。いくら口先で感謝の言葉を唱えても、本心からの感謝でなければ何も変わりません。世界は口先の言葉ではなく、心の表層からの言葉でもなく、心の深層である本心からの言葉を読みます。そのために誤魔化しや嘘は通用しません。

本心の力や信じる力も見えないものです。本心と世界との繋がり、信じる力と現実化の関係。それは科学的根拠のないものです。それでも何もない訳ではありません。体験すれば分かります。科学的アプローチをする現代のアスリートでさえも、過酷なトレーニングを積んで試合に臨む際にはこう言います。「自分を信じて」。どんなに偉大な選手でもこの言葉を口にします。それが科学的根拠のないものであっても、その力を感じて知っているからです。

「見えないものは信じられない」「心の力は信じられない」「科学的根拠のないものは信じられない」。そう言う人が沢山います。その人たちは一方でこう言います。「誠意が感じられない」「意気込みが感じられない」「思いやりがない」。「あの人は薄情だ」「愛情が無くなった」「寂しい」「わたしを信じて欲しい」。わたしたちは心の力をちゃんと知っています。それが科学的根拠のないものでも信じています。

見えないものを信じられるかどうかが鍵です。それでも一度体験として知れば、それがいくら常識や科学を越えていてもわたしたちにとっての事実になります。体験や経験にはそれだけの力があります。

 

心の状態を負から正に変えるには、感謝

今の心の状態が負の状態にある時に、心の状態を正の状態に変えるにはどうすればいいのでしょう?格闘しなければならないような現実に直面した時に、わたしたちは負の感情に捕らわれます。一時的に捕らわれても、耽らないようにする必要があります。わたしたちと負の感情を意識的に切り離します。負の感情を離れた所から見ます。「ああ、わたしに負の感情が現れているな」「またわたしを苦しめようとしているのだな」。負の感情に対するその気づきが負の感情を小さくしてくれます。

それから現実をよく見ることも大切です。「何もいいことがない」と思える現実でも何か見つかります。自我のなすがままにしないことが重要です。自我は否定的傾向、消極的傾向、悲観的傾向そのものです。自我と同化したわたしたちはある物事を否定的に、消極的に、悲観的に見ます。否定的で消極的で悲観的な色を黒だとすれば、ある物事を黒一色に染めようとします。事実をできる限り偏りなく、ありのままによく見て下さい。いいこと、明るい要素が見つかります。見つかったことがどんなに小さなことでも事実として受け入れて下さい。自我と同化したわたしたちは明るいものを見ようとはしません。暗いものに引きつけられます。自我の好きなようにはさせずに明るいものも事実として見て下さい。受けている恵みや学びを事実として認めて下さい。自我と同化したわたしたちは足りないものばかり見ます。在るものには目もくれません。「こんなものは大したものではない」と勝手に判断をしないで下さい。受けている恵みや学びを事実として受け入れて下さい。小さなものかもしれません。それでもそこに感謝が生まれます。事実をありのままに見ることが習慣化すれば、受けている恵みや感謝できることの多さに気づきます。その気づきが習慣化すれば心の状態は変わります。穏やかさの中にある気持ちの高まり、悦びを感じられるようになるはずです。

 

意識のもたらす世界の凄さに改めて感心する

感謝することが難しければ感心することはどうでしょう?感心は感謝よりも強いものかもしれません。感心は驚きです。感心は感動ほど大きな驚きではありません。それでも日常で意図的に呼び起こすことができます。できるだけ意味や情報を与えずにあなたの世界をよく見て下さい。固定観念や常識、あなたの判断、解釈を極限まで減らして冷静に見て下さい。わたしたちは普段何かをすることに、何かを獲得することに意識が向いています。元々持っていたものに、意識そのものに意識が向くことはありません。世界がそこに存在して、わたしたちの意識がその世界を映し出すのか、わたしたちの意識がわたしたちの世界を創り出すのか、それはわたしたちには分かりません。なぜならわたしたちは自分の意識の外側に立つことができないからです。

いずれにせよそれはどちらでも構いません。あなたの意識がもたらす世界はよくできていませんか?あなたがどれだけ疲れていても、どれだけ体調不良でも、あなたの意識の世界は乱れもなく、欠落もなく、果てもないはずです。そこには完璧な世界が広がっているのではないでしょうか?「そう言えばよくできている」。そう思えないでしょうか?口に出す必要はありません。感謝も感心も本心からそう思えるかどうかです。

これからやって来る現実をよりよいものにしたいのであれば、自我がもたらす負の感情に捕らわれても、耽らないようにする必要があります。起こった出来事、実在する物事をできる限り偏りなく、ありのままによく見て下さい。どんなに小さなことでも受けている恵みや学びを事実として認めて下さい。そこに感謝が生まれます。

感謝することが難しければ、あなたの意識がもたらす世界をありのままによく見て下さい。普段は決して気にすることのない意識そのものに注意を払って下さい。「ヒトは最も神に似ている」と言われます。それはどういう意味でしょう?神に似ているというのは「完璧なところがある」という意味かもしれません。ヒトが持つ完璧なものとは何でしょうか?それは意識かもしれません。

 意識がもたらす世界で新しい命が生まれています。意識がもたらす世界にありとあらゆる命の営みがあります。意識がもたらす世界ですべてが変化しています。その変化は全体として見れば進化の中にあります。意識がもたらす世界で人智を超えたあらゆる法則が働いています。意識がもたらす世界で宇宙は拡がっています。

意識の凄さを実感した時に感心から来る驚きが生まれます。そこに穏やかさの中にある気持ちの高まり、悦びがあるはずです。その感情がこれから現れる現実に反映されます。これからやって来る現実は今から変えられます。今からしか変えられません。

 

わたしよりも信頼のできるものに委ねるということ 

今の心の状態がこれからやって来る現実に反映されることを知れば、今を大切にするようになります。実際に起きたことや実際に存在すること。つまり事実を重視して実在する世界に生きるようになると、頭の中の過去と未来は重要ではなくなります。わたしたちは今に生きるようになります。過去や未来、ここではないどこか、今の自分ではない他の誰かに向いていた意識が今ここという一点に集中するようになります。今ここという意識の空間を生きるようになれば人生がシンプルになります。心にゆとりが生まれます。

事実に沿った生き方は、「知らない。理解できない。把握できない。コントロールできない」という事実を認める生き方でもあります。幼い子は「わたしがやる!」と言って、できもしないことでも何でも自分でやりたがります。自我と同化したわたしも同じです。自分だけでやろうとします。それでもあまりにも巨大で圧倒的なものを前にした時にわたしは諦めます。諦めることを悲観したり、恥じたりすることもありません。もはや自分の力で何とかしようとは思いません。わたしはその状況に委ねることしかできなくなります。

存在としてのわたしたちはわたしたちの理解、意図、自覚を越えています。わたしは今どうやって生きているのか、今までどうやって生きて来たのか、それを説明することはできません。なぜ生きているのか、生命力とは何か、体の仕組みも心の仕組みも意識の仕組みも理解していません。把握していません。わたしはこの命をコントロールできていません。わたしはなぜか生きているのです。それが事実です。

わたしの人生は過去から未来へ進んで行きます。その中で様々な出来事が展開されます。瞬間、瞬間に出来事が起こります。誰かが現れて、何かが起こります。その具体的な出来事、現実はわたしが意図してもたらしたものではありません。なぜか現れた現実です。その出来事の展開、人生の流れ方はわたしの理解、意図、自覚を越えています。わたしはなぜか現れた現実から学び、成長します。

この世界では地球の内側でも外側でも様々なことが起きています。一瞬の停止も静止もなく、すべてが変化の中にあります。しかもその変化は全体として見れば進化の中にあります。すべてが生きています。わたしもその中を生きています。わたしは地球の内側で起きていることも外側で起きていることも把握していません。地球の外側のことなど理解することさえも不可能です。わたしの思考と感覚を完全に超越しています。それでもわたしの思考と感覚を遥かに越えた所で起きる変化、得体の知れない命の営みがあるために、この世界は今も存在し、わたしも生きていられます。

 

存在に生きれば気楽さが出て来る

 存在としてのわたしたちは人智を超えています。わたしたちの理解が追いつかなくても存在としてのわたしたちは理解しています。存在としてのわたしたちはいわば“全知全能”です。まだ科学では解明されていないこの宇宙の法則や仕組みを理解し、この世界にどう順応すればいいかを知っています。知っているだけではありません。まさに順応し、生きて、存在しています。

わたしたちは身近な既知の脅威に怯えます。それでも遠くにある未知の脅威には気づきもしません。理解と知覚が及ぶ範囲だけでこの世界が成り立ち、理解と知覚が及ぶ範囲だけで生きていると思えば、ヒトは深刻になります。それでも理解と知覚を越えた世界に存在し、わたしたちが人智を超えて存在していることを自覚すれば、気楽さが出て来ます。なぜなら人智を超えたことに深刻になっても仕方がないからです。わたしたちに起きる負の感情と思考に意識の重点を置くよりも、存在としてのわたしたちに意識の重点を置けば深刻さは薄れます。

わたしは自分の生きる体も心も意識もわたしの人生の流れも、進化するこの世界のことも理解できていません。それらはわたしの意図と自覚を越えています。それでもそれらはわたしを生かし、わたしを守り、わたしを成長させます。わたしがいくら負の感情に捕らわれて苦しんでいたとしても、わたしを生かし、わたしを守り、わたしを成長させます。それらはわたしの負の感情を越えています。

わたしたちを生かし、成長させるもの。世界を生かし、進化させるもの。それらはわたしたちの手には負えません。わたしたちを越えた、わたしたちの外側にある巨きなものがわたしたちを存在させます。わたしたちがわたしたちを存在させるのではありません。その事実を自覚できれば、わたしたちは自分たちを当てにするよりも、自分たちの外側にある巨きなものを当てにするようになります。自分たちを越えた外側の巨きなものを信頼し、委ねるようになります。信頼できるものに委ねることができた時に深刻さは薄れます。気楽さが出て来ます。

今の心の状態がこれからやって来る現実に反映されます。思い描いた現実を意図してもたらすことも不可能ではないかもしれません。それでも思い描いた人や状況を意図してもたらすことはなかなかできません。現実はわたしたちの意図を越えています。思い描いたことの背後にある感情はこれからやってくる現実に反映されます。わたしたちの今の心の状態にゆとりや気楽さがあれば、これからやって来る現実はその心の状態を反映したものになります。わたしたちは今、ゆとりや気楽さを感じて過ごせているだけではなく、この次もゆとりや気楽さを感じて過ごすことができるようになります。わたしたちの人生は以前よりもシンプルでスムーズになります。

 

 

行動と現実の関係

 

 

 

願望実現

今の心の状態がこれからやって来る現実に反映されます。具体的な現実、例えば思い描いた人や状況を意図してもたらすことはなかなかできません。それでは望みを叶えることはできないのでしょうか?望むものはまず求めなければ得られません。望むものが本心からの思いであれば現実化します。ただ望むだけではなかなか現実化しません。本心からの思いを行動に移すことで現実化は速まります。

 

最大限に尽くす時に物事は達成に向かう

最大限に尽くす時に物事は達成されます。その最大限には閃き、熟考、行動、できることのすべてが含まれます。今日も世界中の人々が仕事をします。それは一番難しい類の仕事です。なぜなら今日が進化するこの世界の一番先端にあるからです。経験したことのない仕事をします。望んで仕事をする人たちもいれば、望まない仕事をする人たちもいます。いずれにしても仕事は簡単ではありません。人々はベストを尽くします。仕事を前にして寝ていては何も進みません。ふざけてやっていても進みません。最大限に尽くす時に仕事は終わりに向かいます。途中でトラブルやアクシデントが続いても、最大限に尽くす時にどこかで収束します。世界中の人々がそれを証明しています。世界中の人々は今日も一番難しい仕事に向かいます。そして今日も一番難しい仕事を終えて帰ります。わたしはいつまで経っても帰られない人を見たことがありません。

 

 

世界はわたしに反応する

振り返って気づくことがあります。わたしの人生が大きく変化した時には共通点があります。それは行動した時です。誰かに思いを伝えることも行動です。思いを行動に移す時に人生は展開します。動き出すのはわたしだけではありません。現実世界も動き出します。本心から望んだことを達成しようとわたしが最大限に尽くします。すると現実世界も望みの現実化に向けて展開します。世界はわたしの状態に反応します。わたしの信念、感情、思考、行動に反応します。わたしの行動というサインが世界に伝わります。その時に世界は展開します。その展開はわたしの意図を越えています。わたしはどこに、どうやって運ばれているのか分かっていません。どこかに運ばれているという自覚さえもありません。展開の仕方は読めません。理解できません。それでもわたしが到着する最終地点はわたしが本心から望んだ場所です。「そう言えば望みが叶っている」と後になって思えるほど、わたしの自覚を越えています。寧ろ望んだことを忘れているくらいの方が現実化は進みます。「まだ現れないのか?」と執着するほど現実化は遅れます。

 

現実化の過程で

本心からの望みが現実化する過程で、望まないことや気の進まないことが起こります。その場合はどうすればいいのでしょう?望まないことや気の進まないことに取り組むとしても、“凌ぐ”やり方はよくありません。我慢して切り抜けるやり方は苦しみを生みます。その苦しみがまたこれからやって来る現実に反映されてしまいます。望みが現実化する過程で現れる望まないことや気の進まないこと。それらは望みが現実化するために必要なことです。「望まない」や「気の進まない」はわたしたちの判断や解釈、わたしたちの負の感情に過ぎません。望まないことや気の進まないことが現れても、「これは望みの現実化に必要なことである。望みの現実化は進んでいる。これでいい」と思って引き受けます。引き受けなければならない訳ではありません、引き受けようと思った時に引き受けます。そうすれば安心して現れた現実に没頭することができます。そうすることで望まないことや気の進まないことと同時に現れた負の感情も小さくなって行きます。

 

今やる、今なる

わたしたちは一気に、思い通りにやろうとします。わたしたちは実在しないものを見ます。実在しないものを想像通りに実在すると考えます。それはわたしたちに起きる思考の癖かもしれません。わたしたちは「たら」と言います。「たら」がその表れです。

「時間ができたら、お金ができたら、仕事が片付いたら、実力が付いたら、自信が付いたら、目処が立ったら」。わたしは自分が動き出すよりも先に自分や状況が変わるのを待ちます。自分の思うような自分や状況になってからやろうとします。

「たら」と言う時は比較的困難な時です。なぜなら不足している状態だからです。困難な状態から現実を変えるのは大変です。それでも変えるには実在する世界から、つまり今この瞬間からしか変えることはできません。今この瞬間に変わったことがどんなに小さなことでも、未来の今になります。完全でなくても構いません。後回しにせずに今やることが大切です。

わたしたちの負の感情や思考は当てにならないところがあります。「あれをするにはこれくらいかかる」「今更もう遅い」「策は尽きた。八方塞だ。もうダメだ」。わたしはこれらの感情と思考を事あるごとに体験します。それでも振り返れば事は過ぎています。現実はわたしのすることを越えています。「あれをするにはこれくらいかかる」「今更もう遅い」「策は尽きた。八方塞だ。もうダメだ」。わたしはそう思っていたことさえも忘れています。なりたい自分がいるなら、それが本心からの思いなら、自分の負の感情や思考を当てにはせず、なれる範囲のなりたい自分に今なることが大切です。今この瞬間になったなりたい自分、その分だけ未来の自分はなりたい自分になっています。

 

思い通りでなくても構わない、分析すること、計画すること

「思い通りでなくても構わない」と思えることは重要です。現実はわたしたちの思い通りには行きません。それでもわたしたちは生かされ、守られ、成長します。唯一無二のわたしたちとして存在します。わたしたちはわたしたちの思いを越えて生きています。わたしたちを生かし、存在させているものに比べれば、わたしたちの負の感情も思考も当てにはなりません。

それでは分析も計画もせずに、何も考えずに生きればいいのでしょうか?極論はするほどの価値がありません。分析も計画も大切です。最大限に尽くす時に物事は達成に向かいます。その最大限にはわたしたちの分析も計画も含みます。わたしたちが何かを達成する時に考えや計画は必要です。それよりも重要なことは「考えた通りでなくても構わない。計画倒れでも構わない。思い通りでなくても構わない」ということです。「思い通りに行かなかった。うまく行かなかった」と解釈して止めてしまってはそこで終わりです。わたしたちの判断、解釈、考えは当てになりません。現実はわたしたちの思い通りを越えています。思い通りではなくても現実化のためにはやり続ける必要があります。現実化に向けての展開はわたしたちには分からなくても始まり、進んでいます。

 

わたしを越える

自我には思い通りにしたい性質があります。自我と同化したわたしたちは思い通りにしようとします。思い通りでなければ気が済みません。それでも現実はわたしたちの思いを越えています。その時に「わたしの思い通りではない」と苛立ったり、やる気をなくしてしまったり、「本当に望みの現実化は進んでいるのか?」と疑いの気持ちに囚われていては、またその負の感情を抱かなければならないような現実が現れます。本心からの望みの現実化には「思い通りでなくても構わない」と思えるかどうかが重要です。

「思い通りでなくても恵みを感じる。思い通りでなくても感謝できることがある。思い通りでなくても体を持っている。思い通りでなくても心を持っている。思い通りでなくても意識を持っている。思い通りでなくても生きている。存在するにはあまりにも過酷なはずの宇宙になぜか存在している。思い通りでなくても何となく嬉しい。思い通りでなくても何となく楽しい。思い通りでなくても何となく幸せを感じる」。そう思えるかどうかが重要です。

思い通りに拘れば、思い通りのものしか受け取ることはできません。思い通りのものでなければ、やって来た恵みを恵みと認識することもできません。思い通りに拘らなければ、やって来たものを恵みとして受け取ることができます。思い通りに拘れば人生の幅も可能性も狭くしてしまいます。

「思い通りでなくても構わない」というのはわたしを当てにするのではなく、わたしの思いを越えてわたしを生かし、成長させ、わたしを唯一無二のわたしにしているものを当てにして、委ねるということです。それはわたしがわたしでありながら、「わたしを越える」ということかもしれません。

 

記録する

本心からの望みが現実化する過程で望まない現実が現れた時に、「この現実は過去のわたしの心の状態が反映されたものである」。そう自覚できるかどうかも大切な点です。そのためには記録することをお勧めします。例えば「今日は負の感情に囚われ過ぎずに割と穏やかな気持ちで過ごせた」と記録します。そうすれば現実と過去の自分の心の状態の関係性を客観視することができます。そして必要以上に望まない現実と格闘せずに済みます。

 

信念

 

 

 

本心

世界はわたしたちに反応します。そのことを体験として知れば、わたしたちの意識は外側ではなく、自分に向かいます。わたしたちは自分の持っている価値観、広い意味での信念の世界を生きています。わたしたちは信念を通して世界と接しています。信念はわたしたちと世界との間にあるフィルターのようなものです。そのフィルターがたとえあなた以外の誰かにとって素晴らしいものであっても、たとえ常識的なものであっても、あなたに調和しないものであれば、あなたにもたらされる世界はあなたに調和しないものになります。

わたしたちは自分に調和しない固定観念や思い込み、言い換えれば悪い意味での信念を無自覚に持っているものです。自分の本心はよほど自分と向き合わない限りは分かりません。わたしたちが日常的に自覚しているのは心の表層です。心の深層である本心を自覚するのは容易いことではありません。それはわたしたちの意識には上りにくい、自覚を越えた深層意識だからです。

わたしには誰かの持ち物が羨ましく見えます。例えば収入、休日、家、恋人、友人、伴侶、家族です。羨ましく思っているのは自覚しているわたしです。それはわたしが心の表層で思っていることです。いざ手に入るチャンスが訪れた時に一瞬躊躇するわたしがそこにいます。それはなぜでしょう?あれほど欲しがっていたはずのわたしです。本心のわたしは誰かの持ち物や一般的なものや誰かの理想像、それらを欲しがってはいませんでした。わたしはその時になるまで自分の本心に気づくことができません。自分の本心というのはそれほど分かりにくいものです。それでも本心を自覚することは不可能ではありません。自分と向き合い、心の奥深くに入って行けば知ることができます。

 

気づきの力、腑に落ちる

無自覚に持ち続けていた固定観念や思い込み、言い換えれば悪い意味での信念に対する気づきは、わたしたちと世界との間にあるフィルターを変えます。「腑に落ちる」「得心する」、その頭で理解するだけではない、本心からの気づきには現実を変える力があります。持っていた固定観念や思い込みを新たなものに取り換える必要はありません。気づきそのものが固定観念を固定観念でなくしてしまいます。気づきそのものが思い込みを思い込みでなくしてしまいます。気づいた瞬間からわたしたちの世界は変わります。後戻りをすることはありません。

自分の本心と向き合うこと、無自覚に持ち続けていた固定観念や思い込みに気づくこと、それらは最も創造的なことです。本心で持ち続けていた信念が変わることでわたしたちの現実世界は変わります。

 

自分に調和した世界を生きる

わたしたちは「唯一無二の存在である。多様である」という事実を見ませんでした。「みんなが同じである」という事実ではないものを見て来ました。それを社会の礎にして来ました。こういう言葉を耳にします。「これからは個性の時代。個性を大切に」。まだ前提にあるのは「みんなは同じ」という考えです。「個の存在である」という事実を自覚できていません。「個」に「性」をつけることで事実はぼやけてしまいます。他人の価値観、他人の信念がわたしたちに調和する訳がありません。わたしたちは自分に調和した信念を持たなければ、唯一無二のわたしたちを生きることはできません。わたしたちがありのままの心で生きることができれば、わたしたちの信念もまた自分に調和したものになって行きます。わたしたちは自分に調和した信念の世界を生きるようになります。

 

 

⑤天職 使命 

 

 

 

一番やりたいことではない場合もある

ありのままの自分を生きているうちに、言い換えれば穏やかさの中にある気持ちの高まり、悦びを追求して生きているうちに、天職や使命と呼ばれる仕事に出会う人もいるかもしれません。天職や使命と呼ばれる仕事は本心からする仕事です。その仕事がすでに世の中で確立されているものとは限りません。お金の発生するものとも限りません。「我を忘れて没頭できること。なぜかあまり労せずにできてしまうこと。それをしていて悪い気がしないこと。ありのままのあなたでできてしまうこと」。それが天職や使命です。天職や使命は自分の持っている自然傾向に沿った仕事です。それは必ずしも一番やりたいことではありません。やりたいことは心の表層で思っていることです。それは自覚している部分です。心の深層である本心はなかなか自覚できません。やりたいと思っていることと本心から欲していることは違う場合があります。始めはやりたいことではなくてもやり進めるうちに、「これが本心から求めていたことだ」と気づくこともあります。

わたしの場合は何かを敢えて身に付ける必要はなかったようです。人生を通して無自覚に学び、無自覚に得たものを言葉にすることでした。天職や使命は敢えて自分ではない他の誰かになることではないのかもしれません。わたしたちが唯一無二の自分でいる時に果たされる仕事かもしれません。

 

世界が応援してくれる生き方

この世界には不思議な力があります。世界が応援してくれる生き方があります。それはお金、地位、名誉といった物質を重視する生き方ではありません。他人や社会が求める理想像、価値観、あるべき姿。普通、平均、一般、標準、時代の流行り廃り。他人からどう見られるか、格好がつくか、自分ではない外側を軸にした生き方。自分ではない他の誰かになろうとする生き方でもありません。奉仕する生き方です。自分や誰かのためになる、人類や世界のためになる生き方です。それをする時に世界は応援してくれます。

わたしも不思議な体験をしました。わたしがこの文章を書いていた時です。わたしは文章を書くような時間的、精神的、経済的余裕のある暮らしではありませんでした。それでもこの文章を書き始めると不思議なことに纏まった時間ができるようになりました。わたしがこの文章を書く上で邪魔になることを取り除いてくれたり、わたしをサポートしてくれたりしました。それでもわたしが疲れてしまったり、心を弱くしてしまったりした時には、数字の羅列や目の隅を流れる光、形になりきらない形でわたしにメッセージを伝えてくれたり、励ましてくれたりしました。わたしの進む道を形に見えない形で示し、導いてくれました。

わたしは人生を通して本心のわたし、ありのままのわたしを知ろうとして来たのかもしれません。それは知ることよりも寧ろ思い出しに近いことかもしれません。わたしには良心があります。それは生まれながらに持っていたものです。本心のわたし、ありのままのわたしとは、良心から生きるわたしのことかもしれません。

この世界はコントラストでできていると言われます。人は対照的な一方を知ることで初めてその反対側を知るのかもしれません。例えば反抗期に手に負えなかった青年が立派な大人になります。人は暴力や暗いものに魅せられる時期があっても、「このままではいけない」とやがては立ち直り、光を求めて歩み始めます。現実に打ちのめされて絶望し、永い間うずくまったままでいても、やがては立ち上がり、光を求めてまた歩み始めます。口先で「暴力がなくなることはない」と言っても、本心では平和を求めています。

わたしたちは光のある方へ、愛のある方へ向かいます。それはわたしたちが元々光そのもので、愛そのものだからかもしれません。本心からの望み、それは言い換えれば光と愛からの望み、良心からの望みかもしれません。それを行動に移す時に世界は後押しをしてくれます。

 

わたしを唯一無二のわたしにしたのは誰か

天職や使命は特別な仕事ではないのかもしれません。わたしたちが唯一無二のわたしたちであること。そのこと自体がわたしたちの天職であり、使命かもしれません。

わたしを唯一無二のわたしにしたのは誰でしょう?わたしではありません。両親でもありません。誰がわたしを他でもないこのわたしにしたのでしょう?考えてみれば不思議なものです。同じ人が何人かいても構いません。それでも同じ人はいません。「唯一無二である」ということは、わたしを唯一無二のわたしにしたものから、わたしに与えられた仕事かもしれません。「唯一無二のわたしを生きる。違いを持ったわたしを生きる。わたしに備わった自然傾向に沿って生きる」。そのこと自体が仕事です。「仕事」というのはその字の通り、「仕え事」です。お金を稼ぐだけの労働ではありません。わたしが唯一無二のわたしに仕えます。わたしたちが唯一無二のわたしたちに没頭し、専念します。その時にわたしたちを唯一無二のわたしたちにしたものの意図は果たされます。

 

自覚を越えた集合意識を生きる

わたしには自我があります。そのためにわたしは「自分でしている。自分でコントロールしている」「これはわたしの人生で、わたしの人生を生きている」、そう思っています。わたしたちには自由意志があります。自由意志からの人生があります。それはわたしたちの自覚している生き方です。それとは別にわたしたちの自覚を越えた生き方があるのかもしれません。それはわたしを構成する数十兆の細胞がそれぞれを生きていながら、同時に全体としての「わたし」という一つの意識を生きていることと同じです。わたしたちはそれぞれがそれぞれの日常に追われ、それぞれの幸せを追求して生きています。それと同時に自覚を越えた集合意識、全体を生きているのかもしれません。なぜならわたしたちは一見バラバラでありながら、全体は統一的なある方向性を示しているからです。例えばそれが進化という一つの方向性です。

わたしたちに自覚を越えた全体を理解することはできません。それでも意識的にその全体に参加することはできます。わたしたち一人一人がそれぞれに与えられた自然傾向に沿って生きること。それぞれが唯一無二の自分を生かしながら、成長し、創造的に生きること。それがわたしたちの自覚を越えた、全体に対する、この世界に対する仕え事の一つかもしれません。この世界は創造の力そのもの、進化そのものです。その世界の自然傾向に沿ってわたしたちが生きる時に、この世界の意志とわたしたちの意志は一つになります。

 

わたしはわたしのものか、背後にあるもの

全体を把握することはできません。それは人智を超えています。その全体をどう表現すればいいかも分かりません。それでもわたしたちを越えたわたしたちの背後にあるものが、わたしたちを唯一無二のわたしたちにし、わたしたちを生かし、成長させます。わたしたちの背後にあるものが世界を生み出し、世界を生かし、世界を進化させ、今も世界を拡げています。わたしたちの背後にあるものはわたしたちには見えません。それでも何もない訳ではありません。わたしたちには見えないだけです。

わたしたちを生かすものがわたしたちを通して生きています。経験します。わたしたちを使って仕事をします。形のあるこの現実世界に形のあるわたしたちを使って、形をもたらします。

わたしたちの心、体、わたしたち自身は誰のものでしょうか?わたしたちだけのものでしょうか?それをどう表現すればいいかは分かりません。言葉はそれを指す仮のものです。言葉や名前に拘る必要はないのかもしれません。わたしたちを生かし、成長させ、わたしたちを唯一無二のわたしたちにしているもの。わたしたちの背後にあるもの。目には映らないエネルギー、命、神、全体、世界。わたしたちはわたしたちのものであると同時に全体のもの、世界のものです。わたしたちは自我と自由意志があるために、世界の側から見れば暴走して来たのかもしれません。ようやく今が世界と調和して、一つになる時です。

 

 

⑤繋がりを思い出す 

 

自立しながら繋がり合う個人

「みんなが同じで、同じ空間で同じ物を食べ、同じことをし、同じ悦びを分かち合う」。共有することは大切です。それも大きな悦びや学びのうちの一つです。それでもそれを人生や世の中の中心に据える考え方があるとすれば、それは自我から来る利己的な考え方かもしれません。それは幻想のようなものです。

自我は切り離せないものからわたしたちを切り離します。実際に切り離す訳ではありません。意識の上で切り離します。自我と同化したわたしは孤独でした。それでもそれは孤独感です。孤独でいることは不可能です。繋がりなしに生きることはできません。「わたしたちは唯一無二の存在である。多様である」。その事実に沿った生き方は孤独を感じるかもしれません。なぜならそれは個人が個人の信念を生きる世界だからです。「夫がああ言ったから」「親がああ言ったから」「著名な誰かがああ言ったから」。それは通用しません。自分を悦ばせることができるのは自分だけです。他人に悦ばせてもらおうと期待しても無駄です。一人一人が精神的自立を求められます。それでも繋がりを断つことはできません。それぞれが個人を生きることを生活の中心としながらも、共有するところは共有する生き方です。

わたしたちは繋がりながらもそれぞれが唯一無二のわたしたちを生かします。わたしたちは多様でありながら成長します。多様で高度に発達したものがわたしたちの手からもたらされます。世界は多様でありながら、創造性が飛躍します。わたしたちはパズルのピースです。世界は一枚のパズルの絵画です。わたしたちが輝けば世界も輝きます。

 

形に見えないものとの繋がり  

心と現実の関係、行動と現実の関係を体験的に知ると、わたしたちと世界との繋がりを知るようになります。それは目には映らない、形に見えない繋がりです。それでも確かに存在する繋がりです。

自我が薄くなれば繋がりを知るようになります。「繋がりを知る」と言うよりは、「思い出す」と言った方が適切かもしれません。自我と同化したわたしたちは繋がりに気づけなかっただけです。形に見えないものとの繋がりは世界との繋がりだけではありません。その繋がり方も人によって様々です。例えば見えなかったものが見えるようになる人がいます。見るものは目の隅を流れる光かもしれません。空を飛ぶ不思議なものかもしれません。今まで見えなったものはこの現実世界とは別の世界の存在を教えてくれます。形に見えない現実世界とは別の世界がこの現実世界を支えているように感じる人もいます。

 

全身全霊

言葉はそれを指す仮のものです。曖昧で幅のあるものです。言葉や言葉の持つイメージが固定化されると実態からかけ離れてしまいます。これはわたしの体験です。わたしにとっての事実です。魂や霊という言葉を聞いたことがあるかもしれません。あれは一般的なイメージや概念とは異なります。魂や霊は目に映らないもの、目に映らないエネルギー、目に映らない命、そのくらいの意味で捉えた方が適当かもしれません。

自我が薄くなれば気づかなかった繋がりを感じるようになります。例えば目の隅を流れる光を頻繁に見るようになります。その光はわたしに優しく接します。わたしを勇気付け、励ましてくれるようです。それはまるであの擬人化された天使のようです。

光とは別に導きを感じるようにもなります。その導きは度々現れるものではありません。日常に広く深く関わるようになります。その導きはわたしに直接的な言葉で語りかけてはくれません。それは直感的なサインとしてわたしにやって来たり、あらゆる形を使ってわたしに何かを伝えたりします。例えば閃きや直感としてわたしにアイデアを与えます。インターネット上のホームページやブログ、目に入る数字の羅列や耳鳴り、わたし以外の誰かと誰かの会話、テレビやラジオから流れるフレーズ、立て看板や広告の文字を使ってわたしにメッセージを伝えます。導きはそれ自体では形に見えません。それでも世界全体からやって来るような感覚があります。

その導きは時にわたしに対して強烈なプレッシャーを与えます。それはわたしにとってはとても厳しいものです。その時のわたしにはそのプレッシャーの意味が分かりません。「なぜわたしにそれをするのか?」と反論したい気持ちになります。それでも後になればわたしのためになっていたことに気づきます。わたしはその導きが誰よりもわたしを知っていることに気づきます。その導きはわたしの一挙手一投足、わたしの思考と感情を見ています。わたしがいつどこへ行くかも知っています。わたしはその目に映らない命がわたしよりもわたしであることに気づきます。ありのままの心から離れた時に起きた良からぬこと、「ありのままの心に戻りなさい」というあのサインをくれたのも、その目に映らないわたしだったのかもしれません。

自我が薄くなれば目に映らないわたしと生きるようになります。それまで一人で生きていた感覚が、共同で生きるような感覚になります。一般的に言われる「あの世とこの世」についての話や「人は亡くなると魂になってあの世に昇る」と言われる話。それらはわたしの体験とは異なります。これはわたしの解釈です。「全身全霊」という言葉そのものがわたしの仕組みを表しているのかもしれません。わたしは現実世界のこの世に肉体を持って生きています。それと同時に形に見えない世界、敢えて言えばあの世に形に見えない形、敢えて言えば魂や霊として生きています。そして肉体としてのわたしと魂や霊としてのわたしは繋がっています。肉体としてのわたしは魂や霊としてのわたしなしには生きることさえできません。肉体としてのわたしは無自覚のうちに、魂や霊としてのわたしから様々な情報を得ます。自我がその繋がりを意識の上で遮断していたに過ぎません。わたしはこれまで気づけなかっただけです。わたしは亡くなってから魂や霊になる訳ではありません。魂や霊は尽きるものでも、果てるものでもありません。魂や霊としてのわたしは生まれも死にもしない、永遠の存在かもしれません。

 

 

形の背後にあるものに気づけるか、学びの場

目に映らない命は形を通してわたしに伝えます。形のあるものなら何でも使います。文字でも数字でも、インターネットでもテレビでも、人でも現象でもあらゆるものを使います。わたしへのメッセージは形を通してどこからでもやって来ます。それでもわたしは表面的な形や常識に囚われます。形の持つ名前や信憑性といった情報に拘ります。わたしは「権威の発言だから、年長者の意見だから、誰かの発言だから信用できる」と考えます。形に囚われているうちは本質が見えません。その形のあるものを使っている、形のあるものの背後にあるものを感じ取る必要があります。それができれば、鳥や虫、花や子どもたち、常識では考えられない宇宙存在や超常現象からも学びます。寧ろそれらが重要なことを教えてくれます。常識を越えたところに重要な情報があるものです。隠されることもなく堂々と置かれています。それがこの世界の面白いところです。この世界のユーモアを感じます。

表面的な形や常識に囚われることがなくなれば、わたしに現れた出来事の意味が変わります。すべての出来事にわたしにとっての意味があることを知ります。仕事も結婚も表面的なものかもしれません。その背後にある精神的な学びがわたしの求めていたものかもしれません。学びの場は深い山の奥や立派な建物の中にあるとは限りません。日常全体にあるのかもしれません。人生全体が目に映らない命、魂としてのわたしから与えられた学びの場かもしれません。人生全体が魂としてのわたしの導きかもしれません。人生全体がわたしの教育者です。わたしたちは何かを学ぶために、ありのままのわたしたちを思い出すために、一時的にこの現実世界にやって来ているのかもしれません。

 

小さなミス、今ここへの微かなサイン

わたしはせっかちです。わたしの意識は今ここにはなく、先にあります。「先」と言ってもそれはわたしの空想です。実在するものではありません。わたしが焦ると今ここにある体もつられます。わたしはその時に必ず小さなミスをします。それは些細なことです。何かをこぼしたり、どこかにつまずいたり、何かをし損ないます。意識が今ここになくても、致命的なことにはなりません。それでも物事はスムーズに行きません。意識が今ここにないことを小さなミスは教えてくれます。意識が今ここにある時にどうして物事はスムーズに行くのでしょう?小さなミスはどうして「今ここにあれ」と教えるのでしょう?それは今ここという意識の空間に今の常識や科学では測れない、重大な秘密が隠れているからかもしれません。「隠れている」と言っても、世界がそれを隠している訳ではありません。わたしたちの自我が実在するものに覆いをかけて見えなくし、鍵を掛けているに過ぎません。

 

創造性の源泉と繋がる

自我が薄くなれば不思議な現象が起きることがあります。シンクロニシティと呼ばれる現象やゾロ目、意味を感じさせる数字の羅列を頻繁に見るようになるかもしれません。今まで見聞きしていた言葉が違った意味に感じられることもあります。例えば「自分が変われば相手も変わる」という毎日見ていた立て看板の言葉、人権啓発の標語が違った意味を持つようになります。

時間の感覚が今までと違って感じられるかもしれません。過去の出来事に対する解釈が塗り替わって行くのを感じます。自分が誤解や勘違いの中に生きていたことに気づきます。それは今を起点に過去が変わるようなものです。

鳥や虫、花や草木、空、星や月や太陽、わたしたちの手からもたらされた人工物、それらが鮮明に生き生きと感じられるようになるかもしれません。その時に自我があなたにヴェールを掛けていたことに気づきます。

できなかったことができるようになるかもしれません。物事がスムーズに運ぶようになるかもしれません。創造的なアイデアが閃きとして頻繁にやって来るようになるかもしれません。閃きや直感の重要性を認識するようになるかもしれません。今まで知らなかった自分を生きているかもしれません。それでもそれは元々持っていたものです。自然から与えられた固有の部分が、唯一無二の部分が引き出されて、伸ばされるのを感じるかもしれません。今ここに意識が繋がることで創造性が飛躍するように感じられるかもしれません。

今ここには特別な力があるようです。それは限界を知らない、湧き上がる創造のエネルギーです。今ここからすべてが生まれます。今ここから世界が拡がります。今ここは命の源泉、創造性の源泉です。わたしたちは今までも今ここにいました。それでもそこにはわたしたちの体しかありませんでした。わたしたちの意識は今ここではない過去と未来に、ここではないどこかに、今のわたしたちではない他の誰かに向いていました。自我が薄くなることで今ここではないどこかに向いていた意識が、今ここにある体と繋がります。その時に扉は開きます。自我がわたしたちに鍵を掛けていたことに気づきます。扉の向こうには初めて見る見馴れた景色が拡がります。わたしたちが元々いた今ここという場所、わたしたちの足元には創造性の世界が広がっていたようです。

 

 

⑥今が進化の時

 

 

 

礎が替わる時

自我を持ったわたしたちは、頼りになるものがすぐそこにあるにもかかわらず、自分の力だけでやろうとして来たのかもしれません。わたしたちを生み出し、生かし、成長させるもの。わたしたちに違いを与え、唯一無二の存在にしているもの。わたしたちはそれとの繋がりを意識の上で断ち切り、自我を礎にして文化や文明を築き上げて来たのかもしれません。

「意識が繋がるだけで一体何が変わるのか?」。そう思われるかもしれません。わたしたちが自らのうちにある自我の存在に気づくことで、自我は力を失って行きます。その時に心の苦しみは小さくなって行きます。自我が薄くなれば意識は繋がります。事実や実在する物事が見えるようになります。

ヒトだけが例外ではないことを、ヒトもヒト以外の動物たちと同じ自然のサイクルの中に存在していることを自覚するようになります。自覚を越えてそのサイクルを構成する一員になっていたことに気づくようになります。

わたしたちよりも頼りになるもの、つまり人智を超えてわたしたちを生み出し、生かし、成長させ、わたしたちを唯一無二のわたしたちにしているもの、命、自然、宇宙、世界との繋がりを自覚するようになります。

自我が薄くなれば理解することに固執しなくなります。分からないことは分からなくても構わないことを自覚するようになります。分からなくても感じることができれば変化します。意識の繋がりが創造性を高めてくれることを知ります。もたらされる創造性の豊かさに驚くはずです。閃きや直感が冴えるようになります。目に映らないものに導かれるようになります。導きは日常的に積極的にわたしたちに関わるようになります。その目に映らないものがわたしたちよりもわたしたちであることに気づきます。それが先人たちの伝えて来た魂や霊的なものを指していたことに気づきます。それと同時に世の中に広まっている魂や霊的なものに対するイメージ、概念が実際に感じているものとは異なっていることにも気づきます。今までの文化や文明が自我を礎にしたものであったことに気づきます。

自我を礎にしていては、自然の持つ別の側面も、この世界の実態も、わたしたち自身の実態も知ることはできません。自我を礎にしていてはこの世界の創造性の力を受け取ることはできません。創造性の飛躍も見込めません。わたしたちよりも頼りになるもの、それとの繋がりを礎にした時に自我を礎にして来た文化や文明も昇華されるはずです。

この世界はわたしたちが自身の自我を乗り越え、わたしたちの意識と繋がる時を待っています。唯一無二のわたしたちが唯一無二のわたしたちに戻り、唯一無二のわたしたちが唯一無二のわたしたちを生きて、最大限に活躍する世界、多様でありながら創造性の豊かな世界になる。その時を待っています。なぜならこの世界は創造の力そのもの、進化そのものだからです。

 

 

 

 

おわりに

 

 

人事を尽くして天命を待つ

最後にもう一度簡単に振り返りたいと思います。唯一無二の自分を生きるにはどうすればいいのでしょう?わたしたちにできることは何でしょう?

それはわたしたちの中に自分を不幸にする自我があることを、自覚しておくことです。そして自我のなすがままにしないことです。負の感情や思考が現れてもなすがままに同調しない、空想の世界に引き込まれても、自分を堕落させるような空想にいつまでも耽らないことです。

自分の判断、思考に執着しないことです。言い換えれば、「思い通りでなくても構わない」と思えるようになることです。

思い通りでなくても悦びを感じられるようになることです。

思い通りに拘らなければ、実在する物事を固定観念や常識をできる限り入れずにありのままに見ることができれば、事実をありのままに受け入れることができれば、受けている恵みや学びに気づきます。そこに感謝が生まれます。

悦びを追求して生きることです。当てにできる感情は悦びの感情だけです。悦びはわたしたちに備わった自然傾向を表しています。悦びを追求しているうちにわたしたちの信念と思考はわたしたちに調和したものになって行きます。自然に唯一無二の自分が強調されて行きます。

自分の本心と向き合い、本心から自分が求めていることを自覚することです。

最大限に尽くす時に物事は達成に向かいます。わたしたちが悦びを追求する場所、本心からの要求に対して尽くす場所、意識の置き場所は今です。計画をしたり、予定を立てたり、理想を掲げたりするとしても、今ここに意識の重点を置く必要があります。

最大限に尽くした後はわたしたちよりも頼りになるものに任せます。思い通りになるかどうか、そのことに執着せずに信じることです。それがわたしたちにできることです。

 

元いた場所に帰る

わたしは遠回りをして来たのかもしれません。それでもわたしの理解、意図、自覚は当てになりません。わたしには遠回りに思えるだけかもしれません。わたしは元いた場所に帰ろうとしているのかもしれません。それでも実際に帰る訳ではありません。意識の上で帰ります。わたしはありのままのわたしに、わたしにはじめから備わっていた自然傾向に、わたしにはじめから備わっていた心の力に、わたしがはじめからいた今ここという場所に、わたしがはじめからいた自然に、宇宙に、世界に、肉体を持ったわたしが忘れていたわたしに帰ろうとしているのかもしれません。